小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源23

2014年02月22日 23時16分49秒 | 哲学
倫理の起源23


  ラ・ロシュフーコー

 最後に、このことに関連して、先に触れたとおりカントが幸福の原理をすべて無前提に「自愛」の原理に直結させている点の誤りを指摘しておこう。

 理性的存在者の全存在に不断に伴なうところの生の快適に関する意識は幸福であり、またこれを意志の最高の規定根拠とするところの原理は自愛の原理である。したがって、意志の規定根拠を、なんらかの或る対象の現実から感じられる快あるいは不快に置くところのあらゆる実質的原理は、これらの原理がすべて自愛すなわち自己幸福の原理に属するかぎりにおいて、全然同一種類のものである。(『実践』第一篇・第一章・第三節)

 生の快さについての意識が「幸福」であることには異論はないが、問題は、その生の快さの意識が、すべて自愛を原理とするところから生まれてくるという論理である。
 見落してはならないのは、生の快さの意識、すなわち幸福感が、果たしてカントが同一視したがっているように、いつも「自愛」を原因とするものであるかどうかという点である。私たちが快や幸福を感じるとき、それはほんとうに他者と切り離された限りでの「自己」への執着に由来するだろうか。ちなみにカントがそう考えていたことは、次の引用によって明らかである。

 あらゆる傾向性(このような傾向性は、かなり統一のある体系に纏められうる、その場合にその満足は自己幸福と呼ばれる)は相ともに我欲を構成する。我欲は自分自身に対する極度の好意である自愛の我欲か、そうでなければ自分自身に対する満足の我欲かである。前者は特に私愛といわれ、後者は自負といわれる。(同・第一篇・第三章)

 ここで「傾向性」とは、理性的な意志の自由に従わず自然の法則に服従することを意味する。感情や欲望や衝動などに動かされて何か行為することは、すべて「傾向性」のなかに分類される。傾向性を満足させることがすなわち「自己の幸福」であり「利己心」であり「自愛」であり「自己愛」または「自負」であるというのである。
 たしかに、うまい食事をして幸福感を味わうというような単純な個人的欲求満足の場合、それは「自愛」の原理にもとづくと考えてよいだろう。しかし、その幸福感さえも、ひとりでうまさを味わう時よりは、気の合う仲間と楽しく食事したほうがずっと大きくなるのではないか。
 家族で行楽に出かけて子どもたちが喜んでいるのを見て、親が幸福感に浸る場合、それは「自愛」だろうか。
 またたとえば、先に挙げた例のように、人は困った人を助けることができると幸福感を味わうし、よい商品や作品を提供して人に喜んでもらうと、自分だけでその品物に満足しているのに比べて幸福感が倍加する。多少とも長く仲良くつきあってきた人が何かの栄誉を受ければ、わがことのようにうれしくなるというのも、しばしば経験することである。
 こうした「幸福」の事例を、他者と区別される限りでの「自愛」の原理によってどのように説明できるというのか。カントの頭の中には、分断された個人としての自己と他者との区別に重なり合う「自愛」と「他愛」の二分法の原理しかなく、それをまたそのまま「幸福」と「道徳」の非妥協的な対立原理に適用しているのである。
 こういう考え方は、近世から近代初期の西欧における知的社会を支配した思想図式として通り相場だったのかもしれない。たとえば17世紀フランスのモラリストとして名高いラ・ロシュフーコーは、その著『箴言と考察』の冒頭を「われわれの美徳は、ほとんど常に、仮装した悪徳にすぎない」というシニカルな一句で飾っている。彼は、友愛や博愛や謙遜や貞節や勇敢などの美徳を、すべて自己愛の変形であり虚栄心の屈折した表現であるとみなした。これはこれで鋭い人間洞察として大いに評価できる部分があるが、しかしいっぽう、この種の「人間通」的なものの見方にあまりに淫するのもどうかと思われる。それは、つまるところ、カント的な道徳至上主義(他愛原理主義)の反転した鏡にすぎないともいえるからだ。すべて美徳とされているものは、その化けの皮をはがせば虚栄であり自己愛であるという人間認識こそ、まさにその対極としてのカント的な道徳的絶対理想を要請するのである。なぜなら、論理的に言って、こういう把握の仕方(言語の用い方)そのものに中間項は考えられないからだ。
 しかし人間は、自愛精神か他愛精神かのどちらかに徹して生きることはできない。だれしも自愛を通しての他愛、他愛を通しての自愛、両者のあいまいな混淆状態を行きつ戻りつしながら生きるのである。これを幸福と道徳というカント好みの二元論的な用語につなげて言い換えるなら、人間は幸福になろうとすることによって道徳の意義を理解し、徳を身につけることをめざしつつ幸福の可能性をつかむのである。両者は言語によって截然と分かたれるような非妥協的な要素ではない。それは、不幸に陥ったものがしばしばそのことで不徳を犯し、不徳を行ったものがしばしばそのことで不幸になるのを見てもわかる。
 ソクラテスやプラトンの時代には、ここでカントが行っているような「善」と「快」、「他愛」と「自愛」の妥協不可能な分節は明瞭ではなかった。「善」という概念は道徳的なそれに特化されず、「幸福」概念とも折り合いが悪くなかった。彼らの時代には、公的正義と私的快楽とを鋭く対立させる意識はあったが、「よきこと(アガトン)」という場合は、「善」「快」「優」のすべてを未分化な形で包含していた。だからこそ、プラトン自身は、その言語使用の実態を利用しながら、本当の「よき」生き方とは何かという問題を提起し、それを正義や徳や道徳的な善の概念の方に思いきり引っ張っていくことができたのである(『ゴルギアス』他参照)。
 以上のことは、人間がもともと、互いに孤立した個人としてあるのではなく、ひとりひとりが共同存在・関係存在としての本質的な存在構造をもっているところに理由が求められる。人は人とともにあることによってはじめて「人間」となるのであり、その場所にこそ幸福の源泉があり、人倫の要請もその場所においてこそ立ち上がるのである。


*次回より、ニーチェを論じます。


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