小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

オノマトペアの謎

2018年06月18日 15時20分44秒 | 文学


みなさんは、オノマトペアに興味を持ったことはありませんか。
ワイワイとかガタガタとかウキウキとかいったあれですね。
今度出版する『日本語は哲学する言語である』(徳間書店・7月刊)という本の中で、これについてちょっと考えてみたのです。
本では、それほど掘り下げることができなかったのですが、ゲラ校正がすんでからも気にかかっていたので、もう少し掘り下げてみました。

日本語が豊富なオノマトペアを抱えていることは、たいへん特徴的で、外国人もこれをおもしろがります。
私の知人のアメリカ人が、日本に来て間もないころ、日本人同士が話すのを聞いていて、オノマトペアが出てくると、とても面白がって復唱していました。
でもどんな感じを表しているのか、きっとつかめなかっただろうと思います。
また、これは時代とともに次々に新語が作り出されていますね。
私の若い頃は、キャピキャピとかルンルンなんて言いませんでした。
誰かが即席で言ったのを初めて聞いても、日本人なら何となくその感じがわかってしまうのではないでしょうか。
たとえば「口に含むと、なんかモギョモギョした感じだね」なんて、いかがでしょうか。
宮沢賢治などは、自分でいくつも作っていますね。
「山がうるうると盛り上がった」とか「虹がもかもか集まった」とか。

オノマトペアは、一応、擬音語・擬声語・擬態語に分かれます。

擬音語:ヒューヒュー、ゴトゴト、サクサク、ザワザワ
擬声語:ワンワン、キャアキャア、シクシク、ワアワア、
擬態語:ピョンピョン、ホイホイ、ビクビク、ユラユラ

ちなみに本当は、「じっと」「しんと」とか「すっきり」「さっぱり」なども広い意味でオノマトペアのたぐいに入るのですが、ここでは上のような、二回反復型に限ることにします。

さて上記のように分けてはみたものの、擬音語と擬声語をはっきり分けられるかというと、疑問が残ります。
たとえば「キンキン響く」は擬音語でしょうが、「キンキン声」といえば擬声語ということになるでしょう。
擬音語・擬声語と擬態語も区別がつきにくいところがあります。
ゴシゴシとかガミガミなんて、どっちでしょうね。
また同じオノマトペアでも、文脈次第で、擬声語として使っている場合と、擬態語として使っている場合とがあります。
たとえば、「ペラペラ」は、「英語をペラペラしゃべる」といえば擬声語的ですが、「ペラペラの紙でできている」といえば、明らかに擬態語でしょう。
こういう区別のつきにくさには、オノマトペア特有の謎が秘められているようです。

これらはふつう、自然現象を生き生きと言葉に写し取ったものとされています。
そして、こういう語群が豊富にある言語は、人々が自然と長く親しんできた歴史を持つことを証していると理解されています。
しかしどうかな? 上記のように、区別が明瞭にできないという事実は、オノマトペアが自然をそのまま写したものだという理解が必ずしも正しくないという理解への入り口を示しているのではないでしょうか。

また、擬音語や擬声語の場合は、かなり自然音に近いとは言えますが、それでも、必ずしも自然音そのままとは言えないものがあります。
たとえば「鍋がゴトゴト煮立ってきた」とか「小川がサラサラ流れる」などは、自然音からかなり遠ざかっています。
さらに擬態語となると、そういう音がするわけではありませんから、自然状態からはいっそう遠ざかっていると言えるでしょう。
「どんどん進んでいく」「すいすい泳ぐ」「つんつんした態度」「ぶらぶら揺れる」などは、なぜこのような音韻が、その状態にいかにも合っていると感じられるのか、なかなか合理的な理由を見つけるのが難しいでしょう。

言葉というものは、『一般言語学講義』の著者・ソシュールが考えたように、もともと反自然的な、あるいは自然からは自立した文化的本質を持ちます。
オノマトペアも例外ではありません。
これがどのような意味で自然から自立した人間的な意味合いがあるのかを突き止める必要があるでしょう。

オノマトペアの特徴としてまず言えるのは、多くが二音節を二回繰り返すことで成り立っていることです。
これには、日本語という言語特有の文化的(非自然的)特性が絡んでいるでしょう。
その特性とは、
①日本語の音韻は、[a][ka]のように、ほとんどが母音だけか、一子音音素+母音で出来上がっていて、これが音節を作る。
②他の音韻の場合も、このルールに馴致される(たとえば拗音[kya]は一音節、子音+撥音[kan]は二音節として扱われる)。
③日本語は三音節か四音節の句が非常に多く、これが息遣いに一つの区切りをもたらし、調子やリズムを作る。

たとえば「キャピキャピ」というオノマトペアは、[kya-pi-kya-pi]で、四音節語ということになります。
また、「ルンルン」は[ru-n-ru-n]で、やはり四音節語として扱われます。

次に、オノマトペアは、時間のなかでのある「動き」の形容であるということ。
二音節の二回繰り返しというスタイルは、おそらく時間的な継続感を表現しようとする意識にもとづいていると推定されます。
つまり、動きの形容であるということとマッチしているわけです。
幼児がオノマトペアをすぐ覚えるのも、幼児は動きや繰り返しをとても喜ぶからでしょう。

ただしあまり長くなっては言葉の経済学に反しますので、二回にとどめたのでしょう。
それに、二音節を三回繰り返すと、日本語としての調子が悪くなるとも考えられます。
四回繰り返した方がまだいいでしょう。「ぐるぐるぐるぐる」「ざわざわざわざわ」

たとえば地名や人名はだいたいが三音節か四音節ですね。東京、大阪、名古屋、横浜、福岡、山田、佐藤、鈴木、中村、渡辺、高橋……。
  
また、外来語などを省略する場合は、ほとんどが四音節で、三音節にするときは、そうしないと語呂が悪いからです(四音節略語:パソコン、リストラ、セクハラ、パワハラ、エアコン、カーナビ、コンビニ、デパ地下……。三音節略語:テレビ、スマホ……)。

このようにして、オノマトペアの場合は、二音節の二回反復で、動きの感じを表すとともに、四音節語として日本語らしいリズムとまとまり(快適さ)に落ち着かせるという作用がはたらいてできていると考えられます。

さてオノマトペアが必ずしも自然音や自然状態そのままの音声化ではないという事実は、それらを受け取った人間(ここでは日本語話者および聞き手)が、自分たちの感性あるいは情緒をそこに付け足して編成し直していることを意味します。
二回の繰り返しや音節数の限定という形式面にもそれは現れていて、日本語にとって心地よい調子に仕立て上げているのです。

この自分たちの感性あるいは情緒というのは、身体性と言い換えても同じです。
つまり、自然音や自然状態の客観的あり方がどうだというのとは違って、むしろそれらを受け取った私たちの身体による主体的な把握の仕方が元のところにあって、それを音声言語に翻訳しているのです。
この場合の身体による把握の仕方のなかには、外界の知覚だけではなく、私たち自身の行住坐臥にともなうリズム、たとえば歩行とか、身振りとか、躍動とか、手の動きなどが含まれます。

たとえば「どんどん進んでいく」という表現では、「どん」という音韻によって、ものがぶつかったりする激しい衝撃の感じを身体感覚として掬い取っているのだと思われます。
「つんつんした態度」でも、やはり「つん」という音韻に、細く鋭く、何か自分に向かって刺さってくるような感じがありますね。

このように、オノマトペアは、けっして単なるナマの自然対象が出す音や自然状態の模写ではなく、きわめて人間的な情緒あるいは身体性による創造的表現なのです。
初めに擬音語、擬声語、擬態語と分けてみても、その区別がつきにくい、そこのところに謎があると書きましたが、おそらくその謎の答えは、オノマトペアが音声言語として定着するために、話者および聞き手自身の情緒的・身体的な感受と創造のプロセスそのものの媒介を必須としているというところに求められるでしょう。

日本語がこれを豊富に抱えていることは、日本人が周囲の現象にたいへん繊細で鋭敏な感覚を張りめぐらせ、しかもそれを自分のなかで反芻し再構成していることを表しています。


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3 コメント

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どんがばちょ (反孫・フォード)
2018-08-22 12:46:21
>三音節か四音節
 このことについては昔、大瀧詠一さんと山下達郎さんもラジオで放談していました。と言うのは前フリですが、

御本を盆前に一応読み終えました。私としては前半部分がおもしろかった印象でした。
最後の方だったと思うのですが今探してもわからなかったけど、度肝を抜かれたのは、日本語は主語を必要としない言語だったことです。

 私としては“ぎゃふん”とか“へべれけ”がいまだに不思議でなりません。しかしもう“ワクワク”と言う言葉だけは使うことはほとんど無くなりました。あの人の存在はマスト最悪だと思います。どうして悪こそが蔓延る日本なんですかね。そうしないと面白くはないのでしょうか。私はぎゃふんと言わせたいのですが、自分はもうへべれけです。
嫌な売国ビジネス奴の話で絞めてすみません。
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反孫フォードさんへ (小浜逸郎)
2018-08-22 13:41:52
おもしろいコメント、ありがとうございます。

たしかに「ぎゃふん」や「へべれけ」は難しいですね。
そういえば、「どんがばちょ」もオノマトペアで構成されていますね。

オノマトペアの秘密を探るのに、語源を探し当てるというのがありますが、これは、あまり当てになりません。優れた国語学者の語源研究には、なるほどと思わせるものがありますが、多くの場合、Aの語源がBであると説いているものは、逆にBの語源がAなのではないかと感じさせるものもあります。百家百説。

売国政治家に国を売られても、日本語だけは何とか守りたいものですね。
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>自分はもう (反孫・フォード)
2018-08-22 17:26:03
 ふと、ひらめきました。
自分と言う言葉は、自ず(自然)を分けたモノ(社会の中での個としてのヒト)、を表現し充てて造った日本語表記?だったのかもしれない。と。
昔のエリートたる人達の方が絶対、近代の貨幣実体嗜好エリート達よりも崇高なる人達だったように思えます。

平眼記?でした。失礼しました。
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