小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する9

2013年11月11日 23時00分11秒 | 哲学
日本語を哲学する9


 次に「②言葉は世界の普遍的真理をあらわす」という命題について。
 言葉は、前節「言葉は世界を虚構する」の部分でやや詳しく論じたように、もともとウソ(「真理」ではなく「真実」の対義語)である可能性を必然的に具えているのだから、この命題を、もはや言葉の本質を言い切っているものとしてそのまま受け入れるわけに行かないことは納得してもらえるだろう。
 ただこの命題がある強い説得力を持っているという事実も否定しがたい。たとえば数学や科学の言葉に関しては文句なくうなずけるような印象を私たちは抱いているだろう。だが言葉総体に対する私自身の直観によれば、こういう捉え方はある文化の特性から来る非常に偏った捉え方(信憑)である。そこでなぜそのような信憑が成立するのか、その信憑の成立する有効範囲は、全言語世界のうちどの部分に限定されるのか、ということをきちんと整理しておく必要がある。そのために考えておくべき前提は以下のとおりである。

.「真実」と「真理」はどこが違うのか
.この命題はどういう歴史的・社会的・文化的な必然から生れてきたか
.それはなぜ偏った捉え方であるといえるのか

 まず、「真実」という言葉は、漢語として古くから日本で使用されていて、管見の及ぶかぎりでは遅くとも中世の仏教文献の書き下し文には頻出している。中国でも古くから使われていた言葉なのであろう。しかし「真理」という言葉はこの時期には見当たらない。これは憶測ということになるが、おそらくこの言葉は、近代以降、欧米語が輸入されてから訳語として作られたのではないかと思う。
 ちなみに「真実」の英語はfact,sincerity,truth、ドイツ語はWirklichkeitだが、「真理」は英語ではtruthのみ、ドイツ語ではWahrheitである。factやWirklichkeitには、事実、現実といったニュアンスが強く、またsincerityには、日本語の「信実」という言葉にも対応する「こころのまこと」とか「誠実さ」といったニュアンスが含まれる。憶測に憶測を重ねることになるが、江戸末期から明治の翻訳家・哲学研究者たちは、WirklichkeitとWahrheitとのふたつの類義語をもつドイツ語に象徴されるようなこの二概念を訳し分ける必要を感じて後者に「真理」という訳語を当てたのではないかと思う。
 ところで日本語におけるこのふたつの言葉の使用例の違いを考えてみよう。
たとえば「事件の真実が判明した」とは言うが「事件の真理が判明した」とはけっして言わない。逆に、「学問は真理探究を目的とする」とは言うが「学問は真実探求を目的とする」と言うとどうも的を外している感じがする。この違いによってわかるように、「真実」という言葉はドイツ語Wirklichkeitおよび英語factと同じように、事実、現実、そのつどの本当のこと、いままでわかっていなかったが新しく知らされたこと、という含意を持っている。また「真理」のほうは、私たち人間に現在知られていようがいまいが、時間や空間に耐える永遠普遍の本当のこと、という理念的な意味合いが強い。
 日本語の「しんじつ」という音声(もっともこれは漢音であるが)が「真実」にも「信実」にも当てられることから考えて、この言葉は人の心にとって本当だと感じられ信じられること、という含意があり、「まこと(真事=真言=誠)」という和語の概念にぴたりと重なり合う。
したがってこの言葉の重点は、客観的論理的に解き明かされた「本当」にあるよりも、むしろ主体的につかみとられた「本当」のほうにあり、だからこそ同時に倫理的な「正しさ」の概念も包摂しているのである。それは、ある具体的な事実や心の状態との間にいつも接点を保持している。「しんじつ」には「私の確信」が必ず関与している。だから「しんじつ」が構成されるために、自然と融けあって現にここにある「こころ」が、少なくとも可能性としては、いつもその条件となることができるのである。
 これに対して比較的近い時代に日本語になったと思われる「真理」のほうは、その基本概念からして、もともと客観的であることをその成立条件としており、「私にとっての真理」というようなものはありえない。そこには自他の間に差異があってはならないのである。と同時に、そもそも有限な人間の「こころ」が真理の構成条件になるなどということは考えられもしない。「真理」はまったく超越的、絶対的、究極的、永遠的にしか存在しえず、人間はただその一分の隙もない完璧な姿に触れ、その仕組みを理解し、記述することができるだけである。
 すでに何を言いたいかおわかりと思うが、「真理」とは、ユダヤ=キリスト教的文化圏からやってきた言葉である。それは、ユダヤ=キリスト教的な「神」(以下、ユダヤ=キリスト教の奉ずる神をかぎかっこつきで表記する)が、そして唯一、この絶対的に超越した「神」だけがみずから創り、その創造の「ことわり=理」について知り尽くしているところの、世界全体の合理的かつ道徳的なすがたそのものをあらわしている。それは一度創られたからには人間の手によって改変することはできず、すでに不動の形で与えられており、しかもこれからも永遠に続くのである。
 このまことに強い理念、理想観念のあり方が「真理」という言葉にはもともと込められている。したがって、新約聖書・ヨハネ伝冒頭の「はじめに言葉(ロゴス)ありき。言葉(ロゴス)は神とともにあり。言葉(ロゴス)は神なりき」という有名な一節から容易に想定できるように、西洋の論理学や言語哲学の手つきが、「ことば」総体の持つ全体像のうち、いかに「ロゴス」の面にだけその関心を集中させているか、その理由が了解されよう。
 そもそも論理、論理学(ロジック)とは、すでに「神」が創りたもうたこの世界の普遍的なありさまを、言葉と言葉のロジカルな関係の解明によって再び描き出そうとする試みである。言葉がこの試みのうちに追い込まれるとき、その学の方法は、「神」それ自身がもつ絶対的な合理性をそのまま映し出すことに一致する。それはそのまま、人間の言葉による「神」の似姿である。そこでは、「真理」という名のあらかじめある世界の完璧な姿が、はじめから前提されている。
 西洋由来の自然科学や近代哲学、論理学、言語哲学は、一見、宗教とはかかわりのないもの、または対立するもの、宗教のもつローカリズムを克服した普遍的なものと見られがちだが、けっしてそうではない。これらの学の発展に寄与した才能溢れる膨大な西洋人たちの発想の根本にあるのは、ユダヤ=キリスト教の神の唯一性、絶対性、完全性に対する信仰にほかならない。「神」が普遍的であるという信仰が彼らのなかに深く埋め込まれていればこそ、彼らはそのすさまじい学問的情熱を近代合理主義的な方法に注ぎ込むことができたのである。近代の学問は、いわばユダヤ=キリスト教の鬼っ子なのだ。こちらから見ていると、それが彼ら自身よりもよく見えるのである。
 この点につき、いくつか例示して解説を加えたいところだが、あまりにテーマから外れるのでそれは控えよう。その代わり、話を論理学、言語哲学に限定しよう。

 あらかじめ「神」によって与えられている「真理」をそのまま映し出すことが哲学や論理学の使命であると考えて、言葉の問題にそれを適用し、言語総体の哲学的な把握としては痛ましくも失敗している好例がヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』である。



 もちろん、彼自身はこの著述で「神」という言葉をひとことも使っていない。また、私にはよくわからないのだが、彼のこの著述が、のちの記号論理学やITを生み出した現代情報理論に大きな影響を与えた業績は否定できないのだろう。
 さらに彼が、後年、長い生の彷徨を経てから著した『哲学探究』において、前著の方法的立場を自己批判して、言葉の問題を日常生活における「使用」という観点から編みなおしたことは有名である。私はこの帰結のほうを多とするものだが、それにしても『論理哲学論考』の時点における言語観が、じつは無意識のうちにユダヤ=キリスト教的な絶対神の観念に金縛りになった人のものである事実は否定し難い。それ自体は別にかまわないのだが、日本のヴィトゲンシュタイン・ファンにはそのことをよく自覚してほしいし、また、彼のような方法に追随することが、言葉の普遍的な本質をつかむことにとっては、ただの偏向以外の何ものでもないことを知ってほしいのである。ひとことで言うなら、『論理哲学論考』における彼の言語論は、言語主体不在の「死んだ客観主義」にほかならない。
 では、問題の書から、彼の発想と展開のよくわかる重要項目を書き出してみよう。周知のようにこの著作は、全体として短い断章の集積のような形をとっており、各断章には番号が付されて、大項目から小項目にいたるまで最高六段階までの系列化がなされている。ここでは、なるべく大項目(番号数の少ないもの)に着目し、彼が言葉に対してどういうイメージを描いていたか、そしてそれがどんな欠陥をもっているかという点に絞って摘出したいと思う。途中に私自身がいろいろと介入することになる。
 なお、テキストは坂井秀寿訳(法政大学出版会・叢書・ウニベルシタス6)を用いるが、この訳に見られる「映像」という訳語は、視覚的な印象を表していると感じられやすい。ここでは前後の文脈からして集合論や関数論で用いる「写像」(原事物からマッピングされたもの)という用語を当てるのが適切に思えるので、すべて「写像」に置き換える。

 一・一三  論理的空間の中にある事実が世界である。
 二・一   われわれは事実の写像をこしらえる。
 二・一二  写像は実在のひな型である。
 二・一三  写像のなかでは、写像の要素が、対象に対応している。
 二・一八二 すべての写像は、同時に論理的写像でもある。(略)
 二・二   写像は描写の論理的世界を被写体と共有する。
 二・二一  写像は実在と一致するか、しないかのいずれかである。写像は正しいか誤りか、真か偽かのいずれかである。
 三     事実の論理的写像が思考である。
 四・〇一  命題は実在の写像である。


 ここまでですでに、ヴィトゲンシュタインが、世界を、また世界と言葉との関係をどう見ているかが鮮明にあらわれている。世界は「論理的空間の中にある事実」なのであり、これは動かしがたいものとして前提されている。だが、私たちはこういう断定にまずもって激しい違和感を抱かないだろうか。
 この規定では、「論理的空間」なる概念がまず世界そのものに(論理的に)先行しており、その「中にある」事実が世界なのだとされる。こういう前提をそのまま呑むには、あのヨハネ伝の「ロゴスは神である」ということを認めなくてはならない。つまり、「神」であるところのロゴスが全世界をあらかじめ構成しているのだという理屈に、感性的なレベルで納得しなくてはならない。
 これは私たち日本人にとって不可能であるばかりでなく、より普遍的なレベルでの人間感情からしても受け入れ難いと思えるのだがどうだろうか。世界は、それ自体としては秩序づけられない混沌であり分節なき連続体である(少なくとも日本の神話では、そういう世界観が保存されている)という感じ方のほうが一般性があるし、「論理」以外のもの(朱子学風に「気」と呼んでもよいし、古代哲学風に「土、水、火、風」と呼んでもよい)がこの世界には満ちあふれているというのがふつうの捉え方ではないだろうか。
 次に、「写像」という言葉は、この論考では単なる比喩ではない。ヴィトゲンシュタインはこの用語を、世界と言葉(言葉が世界の写像である)との関係を表すキーワードとして厳密に用いているので、見逃すことのできない非常に重要な意味を持っている。その心は、論理そのものであるところの「神」が創った実在世界がまず厳然と存在し、私たちの言葉(思考)はその実在世界の「ひな型」であるのだから、それが正しくあるためには、実在世界の論理構造と精密に一致しなくてはならないというのである。要するに、言葉はこの世界の論理構造をそのまま映し出す「神の奴隷」であるといっているのと等しい。
 もちろん、引用箇所に「言葉」とか「言語」とかいう言葉はひとことも出てこない。しかし論考全体が言語についての哲学であることは明瞭であるし、右の三では「事実の論理的写像が思考である」と言っている。したがって、思考が言語によってなされるものと考えるかぎり、彼は、言葉とは「神」の論理的産物である「世界」の写しに過ぎないと言い切っていることにならざるを得ない。
 二・二一の「写像は実在と一致するか、しないかのいずれかである。写像は正しいか誤りか、真か偽かのいずれかである」に至っては、四・〇一との関係から見て「写像」という言葉が言語を意味しているのは明らかであるし、しかもそれが「命題」のみを指していることも明白である。
 すぐあとに批判するように、そもそも写像⇒言語⇒命題と限定していく方法自体が著しく偏ったものの見方であるし、百歩譲って写像⇒言語という図式を認めたとしても、それが真か偽かいずれかであるという考え方は、まったく認められない。私たちは、言葉を現実に使用するとき、それが真理を伝えるためであるという目的に準じて使うわけではない場合のほうが圧倒的に多いからである。
 実際には、ある言葉を出そうとするとき何らかの顧慮がはたらくとすれば、それが真か偽かということよりも、状況(場面)に応じた適切なものであるかどうかということのほうがはるかに重要なのである。その意味では、ヴィトゲンシュタインよりも後に登場したイギリスの言語哲学者・オースティン以下、日常言語学派の立場のほうがずっと的を射ている。
『十二人の怒れる男』という名作映画に次のような場面がある。「殺してやる!」という少年の声を聞いた証言者の証言が、少年を犯人と見立てる証拠としていかに当てにならないかを、ヘンリー・フォンダ演じる8号陪審員が証明してみせる。そのあと、少年を犯人と信じて疑わない他の頑固な陪審員をわざと怒らせて「殺してやる!」と叫ばせ、すぐに「本当に殺すつもりじゃなかったんでしょ」とやりこめる。
 この場合、陪審員の言葉に含まれる「私はあなたを殺すつもりである」という命題は、真偽問題として捉えれば明らかに偽であるが、しかし「殺してやる!」という言葉は、相手に怒りをかきたてられて感情的になった気持ちを表現したという意味では、状況にふさわしい適切な言葉である。
 次のような反論があるかもしれない。
『論理哲学論考』はもともと話を「論理」という問題だけに限って展開されているのであって、何も言葉全体を論じているわけではない。したがって、言葉の機能に他の部分があることを別に排除していないので、それはそれで別途追究すればよい。あなたは、ヴィトゲンシュタインが、言葉総体について論じられるべきことをすべて「論理」の中に押し込めてしまっていると言って非難しているが、それはないものねだりというべきである……。
 私はこの反論にまったく説得されない。
 なぜなら、すでに述べたように、ヴィトゲンシュタインは、言葉以前に、世界とは論理的空間の中にある事実のことであると明言しているのだから、むしろ言葉そのもの(という事実)も論理的空間のなかに含まれてしまうことになるからである。彼にとっては「論理的空間」が、あらゆる事実や事態や対象(後者ふたつは「事実」を構成する下位概念である)に絶対的に先立って存在するのであって、言葉(思考)が、その先験的な存在からのマッピングとしてしか存立し得ないことは論理的に当然のことになるはずである。そのような、あらゆる事実に先立って存在するようなものとは、「神」としか呼び得ないものである。したがって、私のヴィトゲンシュタイン解釈は、いささかも彼の言わんとすることを不当にゆがめてはいない。

(次回もヴィトゲンシュタイン批判を続けます。)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿