小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

日本語を哲学する8

2013年11月11日 20時11分19秒 | 哲学

日本語を哲学する8


3節 言葉は思想そのものである


 言葉が本来的に音声であり、そしてまたナマの経験世界(すべての心的な世界も含む)を不断に「虚構」していくところにその特質をもっていることについて述べてきた。言葉の本質をどのように規定するかをさらに突き詰めるためには、次の二つの考え方がもつ難点を克服しなくてはならない。その二つの考え方とは、

①言葉は意思伝達のための「道具(ツール)」であり「手段」である。
②言葉は世界の普遍的真理をあらわす。

 ①の考え方は、ふつう私たちがとっている言語観である。
 ある「意」を伝えようと思ったとき、私たちは自分の属する言語共同体の中で通用している言語規範(ラング)にのっとって語を選択し語順を整えて一定の表現にまで構成する。その場合に用いられる言語記号には、いろいろな制約や疎通の困難さがともないはするものの、「記号を用いる」という事実からして、その記号がナベカマやケータイと同じようなきわめて便利な「道具」であり、意を伝えるという目的にとっての「手段」であることは否定できないように思われる。たしかにそういう側面があることを認めなくてはならない。
 しかし、「道具」とはそもそもなんだろうか。釜でご飯を炊くより炊飯器のほうがいろいろな意味で便利であり有用なので、今ではほとんどの人が炊飯器を用いる。固定電話機やパソコンに比べてスマートフォンは両方の機能を兼ね備えながら小型軽量でいつでもどこでも情報収集や情報交換ができるので、多くの人がこちらに乗り換えている。このように、道具とは生活にとっての有用性という観点から編み出された「モノ」のことを意味する。それはすべて、身体機能の延長のはたらきを担っている。
 また「手段」とは、目的という言葉との関係で意味を持つ概念である。それは、出発点における目論見はすでに描かれており、その上でその目論見を達成するには何を使いどういう経路をたどるのが有効で効率的かという観点にかなう「行動」の観念である。もちろん途中で目的が変更されるにともなって手段も変えられることがあるし、目的が変更されなくとも、こちらの手を使ったほうがよりよいという判断のために、はじめの選択はいくらでも変わることがある。しかし、そのつど目的を満たすための行動であるという関係そのものは変わらず、しかもこの「手段」という概念は、必ず目的とは明確に区別され、目的の概念に従属している。
 さてこれらのことは、言葉の使用という現象にそのまま重なるだろうか。私たちは、「大きい」という言葉よりも「でかい」という言葉のほうが有用で便利であるという理由から、後者を選ぶのだろうか。そうではなくて、特定の生活文脈のなかで自分の思想表現としてはその方が適切であると瞬間的に感じるためにそちらを選んでいるのではないだろうか。
 また、意思伝達という目的にとって、ある表現様式のほうが迅速確実で心的なコストもかからないからといって、人は必ずそちらの言葉のほうを選ぶだろうか。ある言葉の表出の以前に、人はどういう意思を伝えたいのかという目的を前もって決めておき、その目的にいちばんかなう手段として言葉を選択しているのだろうか(そういう場合が多々あることは認めるが)。
 もしそうだとしたら、ある言ってしまった言葉に対していつまでも悔やんだり、感動のあまり思わず驚きや感嘆の言葉を発したり、当てこすりや婉曲表現、皮肉、ユーモアを用いたり、わざわざ長い時間をかけ、工夫を凝らして文学的表現を構築するなどということをなぜ人はするのだろうか。それは、言葉が「意思伝達のための手段」ではなく、むしろそれ自体が「意思伝達=思想」そのものであるからではないか。言葉のやり取りにおいて、目的と手段とを分離して捉えることは正しいやり方だろうか。
 何よりも、言葉をコミュニケーションの「道具・手段」であるとみなすと、次のような克服不可能な問いにぶつかる。
 もし言葉がコミュニケーションの道具・手段にすぎないなら、それはちょうど宅配便のような流通手続きということになる。すると、伝達すべき意思は、まずはじめに固定した荷物として発信者側にあり、それが「言葉」という流通手段を通して受信者側に伝わり、受信者がそれを受け取って梱包を解いてみると、まさに発信者が送った荷物がそのまま受信者の手もとに落ちるという話になる。伝達意思は正確に相手に伝わったことになる。はたして現実の言葉のやり取りはそういうふうになっているだろうか。
 まったくそうではない、と私は考える。
 もちろん、多くの実用的な言葉のやり取りにおいて、できるだけきちんと手続きを踏みさえすれば正確に「荷物」が届くという実感が抱ける場合も多いことは事実である。だから逆に、コミュニケーションがうまく行かないのは、「手段」としての技巧(スキル)がまずいからだという論理が導き出せることにもなる。
 しかし私が問題にしているのは、そういうレベルの話ではない。いくら話術や書き方に高度なテクニックを用いて相手にこちらの意を正確に伝えようとしても思い通りにならないのは、そもそも言語表現というものが「正確に伝える」ということを本旨としていないからだと言いたいのである。それには後述するように、言葉の本質に由来する理由がある。
 とりあえず発話の場合だけに限って話を進めると、発話は、発話者の言葉の選択、発するときの調子、その会話がおかれた生活文脈(時枝の言う「場面」)などによって、受け手の側にどう受け取られるかが千差万別の結果を引きおこす。時枝の言語本質論(言語過程説)では、発話者の言語構成行為から受話者の理解と認識までの一連のプロセスそのものが言葉の本質であるから、当然、聞き手も言語主体である。そうだとすれば、受話者が発話者の意図をどう受け取ろうと、それは受話者の自由にゆだねられているということになる。
 この観点から見ただけでも、特定の言語表現というものがもともと多義性を必然的にはらんでいることが理解されるだろう。

A:私のこと、好き?
B:好きだよ
A:(Bが雑誌を見ながら答えているので、本気で言ってくれてはいないと感じ、いらいらして少し強い調子で)ねえ、もっとまじめに答えて。ホントに私のこと好き?
B:(雑誌から目を離してAに向き直り)好きだよ、ホントに。
A:ホントって、どれくらい?
B:こーれくらい(と、腕を一杯広げて見せる)
A:じゃ、どんなふうに?
B:……どんなふうにといわれても
A:ほら、いえないじゃん(と、ふくれっつら)
B:(少ししつこいなと感じながら)何怒ってんだよ
A:別に怒ってないけどさ……
B:なんだ、ためこんでんのかよ
A:てか最近、なんかちょっと感じるんだよね
B:何を
A:ん? 好きっていってもさ、いろいろあるじゃん。私、マサルのなんなのかなぁって
B:……
A:ガールフレンド? 恋人? まさかただのセフレ?
B:ちょっと、ややこしい話、やめようぜ

 後は二人に任せよう。この会話で、「好き」ということばがキーワードになっているが、その言葉に込めている「意趣」が二人の間でかなりの食い違いを見せている。しかもその食い違いが、「好き」という言葉が伝達されるときの「正確さ」いかんなどにかかっているのでないことは明瞭である。
 食い違いの理由は、第一に「好き」という日本語がもともと多義性をもっているからであり、第二に、この会話が二人の不安定な自我(人間一般)による、感情交流を基礎としているからである。梱包した荷物が相手の手元でそのまま荷解きされないのは、多くの日常会話が、ただの事実の伝達を旨として行なわれるのではなく、互いの気持ち・情緒・感情の交錯を無意識にめがけているからである。
 ハイデガーが言うように、人は必ず気分(情緒)づけられているので、いわゆる理性的な会話というものは、そういうモードについての意識的な共通了解がなされていない場面ではたいへん成り立ち難く、いくらでも話し手と受け手との間の気持ち・情緒・感情の交錯によってあらぬ方に展開してしまう。言葉というものは、そういう本質的要素をもともと持っているのである。
 したがって、この側面からは、言葉を発したりそれを聞き取ったりする行為は、つねに主体どうしの関係をみずから変容させる行為であるという意味を持っている。これは、まったく些細で事務的な事実の伝達、たとえば「書類、ここに置いとくよ」「わかった」といった種類の会話であっても例外なく当てはまることである。言い方しだい、書き方しだいで、相手がそれをどう受け取るかがおおむね予想できる(が、完全に予測することは不可能である)。私たちはこのことをよくわきまえていて、だからこそ冷静なときには相手や状況にあわせて表現に気を遣うのである。
 つまり、言葉はただの「道具」「手段」ではなく、そのつどの言語主体である話し手、聞き手の思想表出そのものなのである。現実の言語表現においては、表現の形式と表現されている内容との分離独立ということはありえず、両者はつねに不可分一体をなしている。ソシュールの「葉っぱの裏を切らずに表を切ることはできない」という巧みな比喩が成り立つゆえんである。ある表現を使ったときには、その表現の形がすなわちそのまま表現の内容なのである。「あっちにでっかい象がいたぞ」と「向こうに大きな象さんがいるわよ」とでは、「思想」が違うのである。
 この、言葉は思想表出そのものであるという私の言い方のうちには、言語使用が、いっぽうでは経験を伝達する行為であるという側面をもつと同時に、他方ではまさにその行為を通して、主体どうしの情緒表現による関係変容をつねに行っているという側面ももっていること、この二重性がすでに含まれている。言葉が単なる伝達機能を果たす手段であるという表層的な捉え方の欠陥を指摘するために、ここでは特に後者の側面を強調しておく。
 ちなみに、以上の記述で時枝の言語本質論を援用した。彼の本質把握には、つねに主体の運動としてダイナミックに言語を捉えようとする独創性が活きているのはたしかである。だが、時枝の言語本質論は「言語=道具、手段」説を批判するモチーフを秘めているにもかかわらず、ある部分ではそれを許容してしまいかねない不徹底さを持っている。というのは、発話者―受話者のやり取りの過程そのものが言語の本質であると言っただけでは、言語を単なるコミュニケーションのための「形式」「流通手段」というように一方的にひきつけて解釈する危険を免れ難いからである。
 現に時枝自身が、言語の本質を説明するのに、「水を導く水道管のようなもの」とか「金銭の授受における為替手続きのようなもの」といったたとえを使っている。これらはまずい比喩である。ここで「水」や「金銭」に相当するものが「思想」なのだとすれば、「水道管」や「為替手続き」であるところの「言語」は、思想とは自立して、思想を運ぶための単なる形式・手段へと落ち込んでしまう。時枝は思想と言語の関係について深く考えた形跡がなく、その意味では彼の言語本質論は、ややナイーヴに過ぎるものであったといえよう。

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