小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

リベラリズムの退廃

2019年10月02日 11時41分11秒 | 思想



9月27日、「チャンネル桜」放送、我那覇真子氏の「おおきなわ」で、ジェイソン・モーガン氏が「アメリカン・バカデミズム」(育鵬社、9月10日発売)という自著について紹介していました。
https://www.youtube.com/watch?v=HNITQkAwlis&t=136s
筆者はこの本は未読ですが、内容を聞いてびっくりしました。
いまアメリカのリベラル系の大学では(すべてではないでしょうが)、アイデンティティ・ポリティクスが大流行で、氏によれば、個人のアイデンティティが100以上あるそうです。
アリゾナ州立大学大学院の博士課程の院生が「私はカバです」とか「私は犬です」などと大真面目に主張していて、犬を自分のアイデンティティにしている人は、実際にお椀で食べたり犬のベッドで寝たりしているとか。
木と結婚するとか、石と関係するなどということも実践されているらしい。
メンタルの病にかかっているとしか考えられません。
「そりやいくら何でもバカバカしいよ」などと言おうものなら、直ちに差別として告発されます。
代名詞もheとshe以外にいくつもあり、ニューヨーク州では、ある人を間違った代名詞で呼ぶと罰金を取られるという法律が堂々と成立しているそうです。

モーガン氏は、リベラル色濃厚なウィスコンシン州立大学に論戦を挑むべく、あえて歴史学部に入学したのですが、まったくこちらの議論に耳を貸してくれませんでした。
ある時、全学生に州知事に反対するデモに参加せよとのメーリングリストが回ってきて、そのスローガンが「州知事は皇帝ネロだ」というものでした。
氏は、学問の府を政治の舞台にするのはどうかと思い、一人で全員に反論メールを出しましたが、無視されました。
また氏は、慰安婦問題について秦郁彦氏や平川祐弘氏に学び、韓国が間違っているとの確信を得て、それを歴史学会のニューズレターに投稿したところ、反論者はたったの一人でした。
しかしその背後で、500人もの人が「日本が悪い、安倍(首相)は韓国に謝れ」といったお祭り騒ぎを演じました。
氏の指導教授は、他教授と「モーガンが大騒ぎの張本人だ」というメール交換をする一方、氏に対しては、「超多忙」を理由に何にも取り合ってくれなかったそうです。
どうやら韓国からの裏金が動いていたらしい。
そうした事実をもっと日本人に知ってもらいたくて、『アメリカン・バカデミズム』を書いたと、モーガン氏は述べていました。

この話を詳しく紹介したのには、2つの理由があります。

一つは、徴用工問題、韓国への輸出規制、韓国のGSOMIA破棄など、最近の一連の日韓関係の悪化について、日本の一部保守派の反応を見ていると、対韓国との関係で「ざまあみろ、自業自得だ、日本の勝ちだ」といった感情的な炎上が少なからず見られる点に疑問を持つからです。
といっても、筆者は、この関係の悪化はまずいことだから、何とか仲直りする道を探すべきだなどと言いたいのではありません。
問題は、日本の一部保守派が、韓国一国との関係だけで一喜一憂している点です。

周知のように、現代の戦争は、ドンパチだけではなく(むしろそれは少なくなっており)、情報戦、経済戦の様相が色濃くなっています。
日本は、韓国および中国とは、すでに長いこと情報戦と経済戦を戦っているのです。
そしてことに情報戦において、日本は中韓に大差をつけられています。
それは、国連や欧米諸国で、中国のいわゆる「南京大虐殺」や韓国のいわゆる「従軍慰安婦」などの問題が当たり前のこととして受け取られている事実を見ればわかります。
彼らは、国際的な情報戦に勝つために、膨大なエネルギーを注いできました。
しかし日本は、一部有志の努力があったものの、外務省をはじめとして、この問題を、国連や欧米諸国で日本がどう受け止められるかという地球規模の問題として扱ってきませんでした。
現在のところ、勝敗は決したも同然で、このままほおっておけば、「日本の悪」が国際的な正史として定着してしまうでしょう。
覇権戦争のさなかにある米中は、日本の主張の正当性をけっして認めないという意味では、皮肉なことに、かつての「戦勝国」として連携していると言えるのです。
モーガン氏の話は、そのことを象徴しています。

もう一つは、モーガン氏の話が、アメリカのリベラル左翼がいかに硬直したイデオロギーに染まっているかを示しているという点です。
個人のアイデンティティを当の個人が勝手に決めて、それを笑ったりバカにしたりしたら差別だというのは、リベラリズムが行きつく退廃の極をあらわしています。
その点で、日本の左翼のほうがまだしも健全な常識の範囲内にあると言えますが、しかしここには、左翼がたどる、笑うだけでは済まされない一つの道筋がくっきりと示されています。
日本の左翼も、現在、LGBT、アイヌ、女性、障害者など、特殊性を持った「記号としての弱者」のカテゴリーをあらかじめ決めておく傾向が顕著です。
そしてその傾向に少しでも違和をあらわす言動がなされると、すぐ差別とか人権蹂躙とか排外主義と言ったレッテルを貼りつける風潮が目立ちます。
これは、左翼が本来の任務を放棄している証拠なのです。

左翼の本来の任務とは、中央政府が一般国民の生活の豊かさと安定を保証せず、かえってないがしろにする方向に走っている時に、その事実を指摘して改めさせるような政治行動を起こすことです。
その基盤にあるのが、ふつうの労働者のための組合運動ですが、80年代くらいからそれがすっかり鳴りを潜めてしまいました。
しかし現実には、いまの日本の政権は、グローバリズムに完全にいかれてしまった結果、ふつうの国民生活をさんざんに苦しめています。
日本国民が貧困化している証拠は山ほどあります。
つまり労働組合や左翼政党が活躍すべき条件が十分に復活しているのです。
にもかかわらず、一部の突出した人気政治家を除いて、その条件を活かす兆候は見られません。

このところ、行き過ぎた金融資本の自由化を是正し、政府の財政政策を積極的に肯定しようとする新しい経済学の理論が盛り上がっています。
その潮流の担い手の一人である経済学者を日本に招聘しようと努力していた人(Aさんとしましょう)が、思わぬ苦労を経験しました。
Aさんは一応保守派を標榜しているのですが、現政権の経済政策のとんでもない誤りを少しでも日本国民に知らしめるべくその経済学者を呼ぼうとしたのです。
ところが一部の左翼勢力が、Aさんの主宰するメルマガに掲載されたある人の論考を探り出して内容をその経済学者に知らせたそうです。
その論考は、モーガン氏が論戦を挑んだのと同じように、いわゆる「従軍慰安婦」問題や「徴用工」問題や「南京大虐殺」問題についての日本の主張の正しさに触れたものでした。
同時にこれらの情報戦における、日本の対応のふがいなさにも触れています。
これを知った経済学者は、その論考を削除しなければ訪日しない旨を伝えてきたそうです。
Aさんは、イデオロギーで人を入れたり切ったりすることを嫌うプラグマティストですから、粘り強く経済学者を説得して、訪日OKにまでこぎつけました。
もちろん、削除要求に対しては拒否しました。
左右イデオロギーを超えて、正しい理論を少しでも広めることができるのですから、それはそれで大変よいことだったと思います。

以上の経緯が示していることは何でしょうか。
筆者は、正直なところ、この経済学者の対応に驚きました。
英語圏では、学者までもが、かくも特定イデオロギーに染まってしまっているのですね。
日本の憲法学者や御用学者などを見ていると、人のことは言えた義理ではありませんが、学問や言論の自由を最大限尊重する英語圏の学者なら、まさかそんなことはないだろうという幻想を筆者も持っていたのです。
筆者はそこに、モーガン氏が経験したのと同じリベラリズム全体の政治的偏向と退廃を見る思いがしました。
もう一つ、残念なのは、やはり先に述べたように、英語圏の人たちの多くは、東アジアのもつれた関係についてよく知らないのに、「悪いのは日本だ」と信じ込んでいるらしいことです。
ここにも中韓の情報戦の圧倒的な勝利の証拠を見ることができます。
韓国のほうだけを見て一喜一憂している場合ではないのです。
筆者もモーガン氏にならって、世界では「悪いのは日本」が常識になってしまっているという事実を知ってもらいたくて、これを書きました。
くだんの経済学者個人を批判したくて書いたのではないことをお断りしておきます。


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3 コメント

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特亜を叩き潰す事は非常に重要だと思いました。 (今年31)
2019-10-05 23:04:39
お久しぶりです。
久しぶりにコメントさせて頂きます。

先生は何もしらんくせに!とお思いになるかも知れませんが
私は正直ジェイソン・モーガン氏のお話を聞いて、「え、敵はこんなに馬鹿になったの?てかこんなに弱いの?」としか思えませんでした。勝敗が決したとはまだ私は思えません。
そして、韓国を潰す事はやはり重要だと再認識しました。
私は反日を終わらすためにはまず韓国を叩き潰す事が重要だと前々から考えていました。
理由は二つで1つは裏工作が非常に得意であり、水掛け論が得意で非公式会談を行うと話を捏造するなど真面目に付き合うと厄介だという事。もう1つはアメリカのリベラル系、左翼、北部のヤンキーにとっては彼らは自分達の行った犯罪行為or罪悪感( 1.先住民をほぼ皆殺しにして建国した事 2.空襲と原爆投下という大々的な反則技で日本との戦いに勝ったに過ぎない卑怯者国家だという事 3.戦後、東京裁判というお遊戯会で、「我々は何も悪いことをしていない。悪かったのは何から何まで日本だった。」と史実を 180℃書き替えた事) から目を背けさせ続けてくれる存在なので大切です。ですから彼らを弱らせるというか消してしまえば反日アメリカ人達の力は非常に弱まると私は思っているからです。
私はまず日本にいる朝鮮系の人間を日本からいなくさせたいのです。
ですが、別に一部保守のように感情的に差別的にやる必要は全くなく、ただ淡々と犯罪等を行ったら国内で制裁をしていけばいいと思います。で、今はその声を非常に出しやすいと思っています。
こちらが事実を基にして彼らの非を追求すると彼らは絶対に自分で自分の首を率先して締め始めます。
彼らは都合の悪い事は目を背けるかウソと矛盾でぐちゃぐちゃにして有耶無耶にしようする癖があり、そこをしっかり追求していけば勝手に自爆します。
とにかく韓国を倒す事が何よりも先決だと私は思います。

韓国に関してはhttps://sp.ch.nicovideo.jp/ooguchib/blomaga
上記の「日韓問題(初心者向け)」というサイトを是非ともご覧になっていただきたいのです。
彼らの文化、価値観など非常に勉強になりました。専門家の本を読んでも物足りない、彼らの行動が腑に落ちないと思ったらここを見たほうがいいです。
返信する
訂正します (今年31)
2019-10-05 23:06:50
>とにかく韓国を倒す事が何よりも先決だと私は思います。
ではなく
「朝鮮半島とのケリをつける事が何よりも先決だと私は思います。」に訂正いたします。
返信する
Unknown (無飼)
2019-12-16 19:26:31
真善美の探究【真善美育維】

【真理と自然観】

《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのかと。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。


我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。


《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』

生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。

*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』


然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)


【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。


【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。

善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することはなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。

美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることはなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。

【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。

真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。
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