小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

「今年は来年よりはいい年になるでしょう」

2018年12月31日 13時04分57秒 | 思想


今年も、あと残すところ数時間となりました。

それにしても、今年はあらゆる意味でひどい年でした。
もっともそれは、平成三十年間の誤った政治の必然的な帰結と言えるのですが。
しかしそれだけではなく、まるで天譴のように、自然災害がいくつもいくつも降りかかりました。
まことに、泣きたくなるような一年でした。

前回、このブログで、平成の30年は、貧富の格差が急激に拡大した年だということを書きました。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/1495f1433f1ef0a056180654b1eb6b9f

また、少し前に、新自由主義思想の欠陥を列挙し、同時に、マルクスの思想の良質の部分を見直すべきだということも書きました。
https://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/9b978eebbc56a9646d7126160d6cfd89

その結論部分で筆者はこう書いています。

かつて日本は冗談半分に「一種の社会主義国だ」と言われていました。
それは、必要に応じて、政府が適切な関与をし、また基幹産業は国有企業(公社)だったからです。
いまの政権がそれをほとんどなくしつつある状態は、国家としての自殺行為と言えるでしょう。
経済状況がまずい状態にある時に、さまざまな分野での公共投資を積極的に増やす必要がありますし、政府がバランスあるコントロールをとっていく必要があります。
そのために、社会主義の理念のいいところを見直す必要があるのではないでしょうか。




さて、経済思想家の三橋貴明氏が昨日(12月30日)、ご自身のブログで次のように書いています。
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/day-20181230.html

マルクスの唯物史観に基づく「経済発展段階説」は、資本主義経済において、労働者の労働力が適正価格で購入されておらず、剰余価値が資本家により再投資されることで、持てる者(ブルジョアジー)、持たざる者(プロレタリアート)との格差が拡大し、両者間の階級闘争が激化する。
その後、プロレタリアート独裁を経て、国家や私有財産権が存在せず、資本が共有される「共産主義社会」が訪れる、と、超大雑把に書くとそういう話だったのですが(中略)、現実には共産主義革命は失敗しました。
マルクスの経済発展段階説のラストは、明らかに間違っていたのです(元々が「予想」でしたが)。
だからと言って、マルクスの唯物史観が「全て間違っている」という話にはなりません。唯物史観のみで世界を説明するのは無理という話で、「新自由主義、市場原理主義は常に正しい」という思想同様に、唯物史観、ケインズ主義の「全否定」も間違っているのです。(中略)
(史上初めて社会主義国家を実現したとされる)「ソ連は計画経済が行き過ぎ、生産性が向上せず、衰退した」 という事実があったとして、「だから政府の計画はいらない」では、思考停止もいいところです。
市場経済、唯物史観、ケインズ主義同様に、計画経済も単なる「ツール」に過ぎないのです。
少なくとも、長期的なインフラ整備は、政府が「計画」をもってやらなければなりません。


日本政府は、まさに「無計画」のままにグローバリズム(≒市場原理主義)を取り入れてきたため、いまや日本を亡国の危機に追いやりつつあります。
国家の適切な関与なしに、国民経済がうまく行くはずがありません。
しかし日本政府も野党も、長期的、総合的な視野を喪失し、国をコントロールすることができず、国民はバラバラにその場の利益追求に走るだけとなりました。
結果的に、貧富の格差が急激に開いてしまったのです。
しかも政府はこの事態を反省する気もないようです。

これは、マルクスが彼の生きた時代に出会っていた事態に、一歩一歩逆戻りしていることを意味します。
しかも厄介なのは、彼の時代と違って、現在の先進国では産業資本を主体とする実体経済への関心が衰え、金融資産や株主配当だけで巨富をかせぐ金融資本主義が異様に肥大していることです。
そうして、それが自由に世界を飛び回っているのです。
国家は、自国民の生活を守るために、この金融グローバリズムの防壁となることができていません。
これでは、貧富の格差はますます開くでしょう。

福沢諭吉は140年前に、この点に関して、次の四点を強調しています(『民間経済録二編』ほか)。

①人生の要訣はただ働くにあり。高利の工夫依頼すべからざるなり。
②銀行に最第一の禁物は、投機の商売、これなり。
③今ここに国財をもって鉄道を作るか、または人民のこれを作る者に特別の保護を与えん。(中略)深林の材木厳山の鉱物もにわかに市場の価を生ずるなど、すべて天然に埋没したるものを発出するその利益は挙げて言うべからず。国財を費して国益を起すものというべし。
④国事の大なるものはこれを人民個々の私に委ねるよりも、政府の公に握る方、経済の為に便利なるもの少なからず。

最後の④の例として、福沢は、鉄道、電信、ガス、水道を挙げ、これに鉄の生産も加えています。

平成の三十年間、日本政府はこれと真逆のことばかりやってきました。
いまさら言うまでもなく、財務省の緊縮真理教と、竹中平蔵を中心とした規制緩和路線とがその元凶です。
この傾向は、来年になっても収まりそうにありません。
今年の土壇場になって、ようやく国土強靭化のために、単年度会計ではなく、三年間で7兆円の予算が組まれることが閣議決定されました。
それにしても、これは補正予算ですし、しかも年間わずか2.3兆円です。
やらないよりはやった方がいいですが、これでは焼け石に水というべきでしょう。

しかも来年は消費増税が実施される気配ですし(予想が外れるとありがたいのですが)、東京五輪に向けた投資が終わりますし、いわゆる「働き方改革」によるGDPの減少が予想されます。

これを少しでも食い止めるためには、新自由主義の悪夢から一刻も早く醒めて、公共財、公共サービスに関する政府の関与を強めることが必要です。
つまり、資本主義の理想と社会主義の理想との均衡を回復するのでなくてはなりません。

冒頭のタイトルは、中野剛志氏が何年か前に吐いたジョークです。
その後このジョークは、毎年当たることになってしまいました。

大晦日 よきお年をと 言ひたくも いかにせむとや 闇の迫るを