小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

道徳教育よりも自立促進教育を(SSKシリーズ16)

2014年12月11日 14時24分25秒 | 社会評論
道徳教育よりも自立促進教育を(SSKシリーズ16)



 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきます。

                                  
【2013年12月発表】
                 
 またまた私の勤務する大学での話。このたぐいのことは随所で書いているので、この欄で以前書いたこととも重複するかもしれません。
 ゼミで乙武洋匡氏の『五体不満足』を使って発表させています。
 この中の一節。「目の前にいる相手が困っていれば、なんの迷いもなく手を貸す。常に他人よりも優れていることを求められる現代の競争社会のなかで、ボクらはこういったあたりまえの感覚を失いつつある。助け合いができる社会が崩壊したと言われて久しい。そんな『血の通った』社会を再び構築しうる救世主となるのが、もしかすると障害者なのかもしれない。」
「障害者が救世主」とは乙武クン、ずいぶん大見得を切ったものですが、今それは問いません。
 一学生がこの部分を引いて「今の若者は優先席の前にお年寄りがいても知らん顔をしている」と報告しました。私はこの種の道徳オヤジ伝来の言葉に接するとすぐ反応する癖がついています。「そうかな。私は六十何年生きてきたが、昔に比べて若い世代のほうがマナーはずっと良くなっているよ。君たち自信をもちなさい。震災の時にもボランティアが一斉に立ち上がったでしょう」。学生は「そうですか」と安心したふうでした。
 日本人のマナーの好転については実感だけでなくいろいろと客観的なデータがありますが、それに一番貢献しているのは、この半世紀の間に富が平均的な階層に行き渡ったことです。豊かさが失われれば公徳心も失われます。道徳というものはそれだけ取り出して頭から教え込んでも生きた現実にはならないし、局部的な頽廃現象を見つけたからといってそれをただ嘆いてみせてもどうにもなりません。
 書名を忘れましたが、明治時代から車内での「化粧」や「迷惑な騒ぎ」や「床に座り込む」光景が見られた事実を克明に調べた本が最近出ました。そうに決まっています。
「全くいまの若者は……」云々は、ピラミッドの壁にそう書かれてあったというジョークがあるくらい陳腐きわまるセリフです。この視野の狭さが気になります。まあそう叫び続けていないと不安でたまらない人が多数派なのでしょうな。
 でもこの種の叫びは、目下に苛酷なことを強いてどこまでも我慢させる悪弊を助長してもきました。だからこそ身分制社会の「しきたり=規範」が壊れて近代の自由が成立したのです。もしそこから生じる個人主義の弊害というコストの支払いを止めたいなら、時計の針を元に戻すしかありません。
 教育界では道徳を正課として取り入れることになり、一部の保守派団体から道徳教科書が出版されて評判を呼んでいます。私はサヨクではないので「戦前の修身の復活だ!」などと非難するつもりはないけれど、こんな試みの有効性を疑います。もはや公教育そのものが無限に多様化した文化環境の一部を占めるに過ぎないからです。
 それでも「心の教育」とやらを公教育現場で果たしたいなら、この複雑な社会でなるべく自立的に生きていけるようにするために、社会ルールのあり方、正当なお金の稼ぎ方、適性に合った職業の選び方、不当な処置を受けた時の闘い方など、具体的な指針を示す教育に力を入れるべきでしょう。