小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

自然の喪失は文学も壊す(SSKシリーズその1)

2014年05月31日 02時31分19秒 | 文学
自然の喪失は文学も壊す(SSKシリーズその1) 




 埼玉県私塾協同組合というところが出している「SSKレポート」という広報誌があります。私はあるご縁から、この雑誌に十年以上にわたって短いエッセイを寄稿してきました。このうち、2009年8月以前のものは、『子供問題』『大人問題』という二冊の本(いずれもポット出版)にだいたい収められています。それ以降のものは単行本未収録で、あまり人目に触れる機会もありませんので、折に触れてこのブログに転載することにしました。発表時期に関係なく、ランダムに載せていきたいと思います

(その1:2011年6月発表)
 次は、一人の友人から来たメールの要約。

《ある有名紙に「アマルフィーの月」というエッセイが載っていた。作者は山田登世子。バルザックの研究やパリの風俗に関する文章で知られる。そのエッセイの最後に「とっぷりと日が暮れて、海も空も夜につつまれた。と、わたしの正面に三日月が銀の光を放ってきらめいていた。(中略)見る間に月は中天にかかり、冴え冴えと白く輝きわたった。」とある。 アマルフィ―ではとっぷりと日が暮れてから三日月がきらめき、 さらにそれが中天にかかるのだろうか。 私にはどうしてもその位置関係が理解できないのだが……》

 私はこのメールを一読、山田登世子という人はとんでもないデタラメを書く人だと思った。アマルフィーは、ナポリの南、地中海に臨む風光明媚なリゾート地である。ところで三日月はこれから太っていく月で、太陽のすぐ後を追いかけるコースを取るから、空が暮れてくるにしたがい西の空に現れ、日没からしばらくたって西の地平線に沈んでしまう。だから中天にかかることはありえない。すべての月は東から西へと運行するのだ。
 以上のことは、地球の自転と月の公転との関係を原理としているので、経度の違いとは関係ない。日本と南イタリアは緯度がほぼ同じなので、三日月の見え方はほとんど同じで、西の空に出て西の地平線に沈むのである。
 おまけに「見る間に月は中天にかかり」とは何ごとか。動きが逆であるばかりか、「見る間に」動くはずがない。月は普通に見ていれば止まっており、「正面に」見えてから「中天にかか」るまでに、少なくとも4~5時間は必要である。その間、山田女史は、飯も食わずにあんぐりと口をあけて月を見続けていたのか。それとも月がホラーのようにびゅーんと上っていったのか。
 以上、山田女史はウソツキである。自然観察と離れてしまった現代だからこそ、プロがこういうデタラメを書いても通用してしまう。

①菜の花や 月は東に日は西に

②ひむかしの野にかぎろひの立つ見えて かへりみすれば月かたぶきぬ

③熟田津(にぎたづ)に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

 すべて満月かそれに近い月である。いずれにしても昔の人は自然と自分を一体化させていて、情趣豊かなだけでなく合理的でもあった。現代人の日本語感覚の頽廃を際立たせるために以上の三つを挙げたが、③の額田王の歌は、戦いのために愛媛の港から出港していこうとしている船隊の一群を前にして、壮行の思いを雄大な情景に託して力強く歌っている。私のことに好きな歌である。しかも月が出てきてからしばらくして「潮もかなひぬ」というのは、物理学的に見てもたいへん的確な描写といえる。というのは、満月の頃は反対側の太陽との相乗効果で大潮の時期にあたっているからだ。
 現代では、安っぽい「おイタリアかぶれ」はだませるだろうが、文学のほんとうの価値を知るものの眼はだませないのである。自然と一体化して交流する感性の喪失が、せめてこのたびの震災を契機に少しでも繕われることを願う。