小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源34

2014年05月20日 01時01分08秒 | 哲学
倫理の起源34


  ヘーゲル

 以上が和辻倫理学の優れている点であるが、次に疑問点を記す。

①和辻は、人倫の基礎原理を相互の「信頼」に置く。これは、一見、疑う余地のない正しい把握に思える。というのも、人間どうしの相互信頼関係こそが共同性を成り立たせる基盤であり、個々の人格の安定も、この関係によってこそ支えられるからである。
 しかし、人間は時間の中でたえず新たな「決断」と「行為」をなしていく存在であり、そこには絶対的にその好結果を保証された決断や行為というものはありえない。ゆえに、人間の決断や行為には、必ずいくばくかの「不安」が伴う。最も安心してふるまっている日常的な行為のたぐい、たとえば、出社時に何時何分の電車に乗るために、何時何分に家を出る、といった行為は、交通システムへの「信頼」があればこそ可能な行為だが、しかしそれにしても、もしかしたら偶発事によって自分の行為は無駄になるかもしれない、という可能性の感覚がどこかに織り込まれているだろう。「不安」はほとんど意識されないにしても、絶無とは言えないのである。
「信頼」の成立は、過去の積み重ねという「既知性」を不可欠の条件としている。これがなければ、「あの人が私を裏切ることはけっしてない」という確信も、「何時にどこそこで取引する」という約束の遵守も、その確実性が保証されない。しかし「決断」や「行為」は、常に未来に向かっての投企であり、賭けである。したがって、「信頼」という概念のなかには、もともと(論理的に)「そうはいかないかもしれない」可能性が顧慮されているのであり、人々はそのことを承知のうえで、「信頼」に賭けるのである。これを要するに、「信頼」概念は、「不安」や「不信」概念を不可避的に伴っており、前者が後者をその必要条件として含むのである。 もし和辻の言うように、人倫の基礎原理が、ただひたすら不信とは無縁な「信頼」によるのだとしたら――それは一応形式的には正しいが――、「不信」や「不安」への顧慮は無用のものとなり、そうだとすると、これらを取り除くために、何かことさら道徳や法や人倫を説く営みには意味がないことになる。つまり、「信頼」だけに人倫の基礎原理を置くと、皮肉なことに、なぜ私たちが人倫精神を必要とするのか、その理由をかえって導き出せないことになりかねない。
 人間相互の「決断」や「行為」には、過去から未来へ向かって自己を投企するというその特質上、必然的に不信や不安がつきものである。この不信や不安は、それらが実現してしまうこと、つまり約束や誓約や信頼の情が裏切られてしまうことを予定している。そしてその「裏切られること」は、究極的には「死」=相互の別離に結びついている。だからこそ、私たちはその不信や不安を克服するために人倫精神を必要とするのである。

②和辻倫理学には、「こうである」という、「存在」についての認識(ザイン)と、「こうあるべきである」という、「当為」についての認識(ゾレン)との区別が曖昧である。そのため、ゾレンを語っている文脈がいつの間にか、ザインを語るものとして固定化されてしまう傾向が強い。これは、人間の生の暗黒面に対する視点と視野とが不足しているからである。
 二つばかり例を挙げよう。いずれも第三章「人倫的組織」のなかの記述である。
 ひとつめ。第4節「地縁共同体」において、村落の日々の共同労働や祝祭における絆の深さについて書かれたくだりがあるが、これは、いいことづくめで彩られており、現実にはほとんど存在しない桃源郷の風景である。
 二つ目。同じく第5節「経済的組織」において、その内在的な人倫精神の要を「奉仕」というキーワードで語っている。この「奉仕」の精神については、直接的に労働や交換を共にしている仲間や相手どうしの間では、実感できる感覚だが、資本主義社会においては、マルクスが「疎外された労働」という言葉で語ったように、一人ひとりの労働者の生活感覚に訴えかけることのできない無理な概念である。結果、和辻は、じつは近代資本主義社会においても個々人の経済活動を基礎づけているのは「奉仕の精神」であるという道徳主義的な強弁に陥っている。「奉仕」では、ボランティア活動や慈善活動と、普通の労働行為との区別がつかなくなる。また、圧政的な権力による強制労働なども正当化されかねない。
 経済的組織における人倫精神の要は、むしろヘーゲルが説いたように、互いの人格を尊重し承認しあう、というところに求めるべきである。労働や商品に対して適正な対価を支払うとか、みんなで飲んだときには、料金を割り勘にする、などの習慣は、それぞれの人格を尊重し、他者を承認することを通して自分もまた対等な社会人の一人として承認される、という論理がはたらいている例である。
 ただしヘーゲルの説いた人倫精神は、あくまで「ゾレン」として説かれるべき問題であって、資本主義社会の中にいつも「ザイン」として生きているわけではない。この人格の尊重と相互承認とが実感されない事態が多岐にわたって生じるとき、それは、社会の構造そのものに問題があると考えるべきである。マルクスがヘーゲル哲学の観念性を批判した動機には、このことが強く関与していた。
 以上、二点は、先に優れた点の④として掲げた項目で、「問題がないわけではない」と述べたことの実例である。詳しくは、前掲拙著参照。

 さて以上のように考えてくると、和辻倫理学、とくに「人倫的組織」を論じた第三章の方法論は、果たして正しかったのかという疑問が生じてくる。
 繰り返すが、この章は、ある共同体にはそれ固有の人倫性が宿っており、それは、その組織の構造から必然的に導かれるという叙述形式をとっている。しかしここには、ある重大な見落としがあるのではないだろうか。
 この叙述形式は、次の三点について問題を含んでいると私は考える。

①質や水準の異なるそれぞれの共同体は、実際には孤立して成り立っているということはなく、相互に複雑に連関しあっている。しかし和辻の叙述方法に従うと、そのことがよく見えなくなる。私たちの生は、これらの「共同体」をそれぞれ固有の価値あるものとみなせるような構造をしていない。これらを現に生きる私たちは、それぞれが運んでくる価値が互いに矛盾する経験を強いられるが、和辻は、この事実に一言も言及していない。
 例えば先に述べた「地縁共同体」では、実際にはその内部のより小さな共同体(たとえば家族や親族)どうしの陰湿な内訌があり得るし、それを超えたより大きな共同体からの上からの指示・命令などの作用があり得る。これらは、往々にして「地縁共同体」というまとまりを自足したままにしておくことを許さず、時には解体に至るまでに揺さぶることがある。

②和辻の叙述は、すべての共同体がそれぞれ実体として「いいもの」であるという前提に立っている。しかしそういうことが、無条件に言えるなどということはない。たとえば家族共同体は情の絡み方次第では、人心を荒廃させる原因ともなり得るし、国家共同体は、多くの生命を無意味に犠牲にしてしまうことがあり得る。
 この点についての和辻の叙述には、やはり、「ザイン」と「ゾレン」との混同が見られるし、また、生の暗黒面への視点・視野がなさすぎるのである。倫理学は、生の暗黒面という現実を直視しつつ、しかも最終的には「ゾレン」を追究する学であるという姿勢を一貫するのでなくてはならない。

③和辻の叙述は、より小さな共同体からより大きな共同体へと直線的に向かう(あるいは同心円的に拡大してゆく)スタイルを取っている。このスタイルはそれ自体としては別に問題ないのだが、不用意に読むと、一見、上位のもの(あとから記述されるもの)ほど、下位のもの(先に記述されたもの)の矛盾を止揚して人倫性が高くなっているかのような錯覚を与える(この点は、ヘーゲルにも当てはまる)。
 例えば、和辻は、国家共同体を「人倫組織の人倫組織」と呼ぶ。この規定そのものは、すべての組織が内在的な人倫性をもつという前提に立つ以上、誤りではない。しかし、だからと言って、たとえば家族のもつ人倫性に比べて、国家のそれがより「高い」と一般的に言えるわけではない。そのような価値観を和辻は直接展開しているわけではないが、そのように受け取られかねない記述スタイルになっている。
 ちなみに、性愛や家族の人倫性と国家の人倫性とは、ある現実の側面では、激しく矛盾対立することがあるのであって、それはより上位・より下位という形式的な序列化によってはけっして解決しないのである。この問題をどう読み解くかは思想的に非常に重要なので、あらためて述べる。


*次回は、和辻倫理学の難点を克服するための新しい方法を提示し、その方法に従って人倫精神の具体相を展開していきます。