小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(16)

2014年04月24日 23時04分46秒 | ジャズ
これからジャズを聴く人のためのジャズ・ツアー・ガイド(16)



 ジャズの最盛期は60年代に終わってしまった――そういう意味のことをこの前書きました。これについて共感するコメントを寄せてくれた人もいました。しかしそのオーソドックスな流れが途絶えてしまったわけではありません。
 日本では、この正統派ジャズはけっこう人気が高く、ちょっとそのへんの飲み屋などに入ると、BGMとしてジャズを流している店が圧倒的に多いのに気付きます。ジャズをバックに友人と静かに語らいながら日本酒を傾ける――これってとてもいい雰囲気ですね。一つの定着した文化といってもいいくらいです。若者にも受けがいいようです。
 またお茶の水に「NARU」というライブバーがあり、ここでは連日、ジャズメンが出演して真剣な演奏に力を注いでいます。若手もどんどん輩出していますが、往年活躍した大野雄二(p)、辛島文雄(p)、峰厚介(ts,ss)といった人たちもベテランの味を披露してくれます。私は残念ながら聴き逃したのですが、いまは亡き迫力ある個性派ピアニスト、本田竹広もかつてはここで演奏していました。息子さんはドラマーの本田珠也で、彼もこの店によく出ているようです。
 ちょっと長くなりますが、この親子のライブ版を聴いていただきましょうか。特に二曲目は、はじめの部分、日本唱歌の「浜辺の歌」のように聴こえますが、たいへん情緒豊かな曲で、まさに「ジャズ・バカ」というニックネームを本田に進呈したくなるような情熱のこもった演奏です。



 さて、アメリカで生まれたジャズは、その精神がヨーロッパに受け継がれ、この伝統的な文化風土にふさわしい、独特な開花の仕方をします。それについて語りましょう。
 このシリーズの初めのほうで、MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)をご紹介しましたが、たたずまいが端正で、とても長続きしたこのグループは、早い時期からジャズとクラシックとの橋渡しに大きく貢献しました。リーダーのジョン・ルイス(p)がもともとクラシックへの憧れが強く、ヨーロッパ風の典雅な曲をいくつも作曲しています。しかもメインプレイヤーのミルト・ジャクソンのビブラフォンの調べがブルース調でありながらとても気品ある音色を奏でるという点も手伝って、クラシックファンにも大いに人気を博しました。
 その代表作、ユニークなギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトを偲んで作られた「ジャンゴ」をお聴きください。パーソネルは、二人のほかに、パーシー・ヒース(b)、コニー・ケイ(ds)。



 MJQはアメリカの黒人グループですが、ジャズとクラシックの融合という役割を果たしたヨーロッパのミュージシャンといえば、ドイツ人のオイゲン・キケロ(p)と、フランス人のジャック・ルーシエ(p)の二人を挙げなくてはならないでしょう。
 二人とも、バッハやショパンなどクラシックの名曲をテーマにしながら、それをジャズの感覚やリズムで処理していくところに共通の特徴があります。
 まずキケロから。ショパンの「24の前奏曲 作品28の4 ホ短調



 ソロパートで彼はボサノバ調の8ビートを採用しています。なかなか心地よい演奏ですが、ショパンのあの小曲の消え入りそうな雰囲気をうまく活かしたのかというと、少し疑問が残ります。なぜなのだろうと考えたのですが、彼の演奏には、クラシックの名曲なら必ず持っている「翳り」というものがあまり感じられないのですね。これは、バッハの有名な「トッカータとフーガ ニ短調」を冒頭に使った「ソフトリー サンライズ」では、さらにはっきり言えることで、生真面目に鍵盤をたたいている印象があり、いまいち深みに欠ける憾みが残ります。興味のある方は聴いてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=uKYEg2t0dxA

 いっぽうのジャック・ルーシエですが、彼は59年にバッハをジャズで演奏して一躍名を馳せました。「プレイ・バッハ」シリーズを立て続けに3枚、5年後にまた2枚出して一世を風靡します。これは、ジャズファンにとってまさに新鮮な驚きでした。じつに画期的な試みだったと思います。そもそもバッハとジャズとがこれほど相性がいいということ自体、大きな発見であり、「コロンブスの卵」ともいうべき快挙でした。
 しかし、いま聴きなおしてみると、やはり何というか、実験的な試みに伴いがちな一種の硬さが取れていず、本当に融合に成功しているとは言い難い部分もあります。
 ところがそれから約20年後、彼は第二期トリオを組み、もう一度バッハの多くの曲のアレンジメントに挑み、「デジタル・プレイ・バッハ」2枚組(「ザ・プレイ・バッハ」とも銘打たれています)その他を出します。これは成熟を物語る素晴らしい出来栄えで、メンバーとの呼吸の合い方もよく、録音もとても優れています。私は何度このCDを聴いたかわからず、友人にも勧めたり貸したりしました。
 ではその中から続けて2曲。パーソネルは、ヴァンサン・シャルボニエ(b)、アンドレ・アルピノ(ds)。
 1曲目。平均律クラヴィーアから「前奏曲第1番 ハ長調」。
 原曲からは一見飛躍したようなジャズのノリになりながら、随所に原曲のあの、人をかぎりなく和ませるモチーフが織り込まれているのが感じられます。後半、急速調で展開しますが、それがそのまま、最後に至ってちゃんと座るべきところに落ち着くという流れになっています。



 2曲目。例の「トッカータとフーガ ニ短調」。



 この曲でルーシエは、さまざまにテンポを変えたり、多様な奏法を繰り広げたりと、起伏のある構成の妙を楽しませてくれます。それでいてそこにはある種の統一性が流れており、原曲の気高い雰囲気を失ってはいません。ルーシエは相当工夫したのだろうなあ、と想像されます。
 ご存知のように、原曲はパイプオルガンによって演奏される教会音楽です。もちろん原曲にも様々な変化の工夫がなされてはいますが、残念ながら、オルガンという楽器はもともと細やかな表情を表現するには適していない楽器です。肉声からははるかに遠く、天上から降りて来る響きのようで、生身の人が弾いているという感じがしないのですね。
 それもそのはず、もともと教会音楽というものは、神が創りたもうたこの宇宙の偉大さをいかに表現するかというモチーフに裏付けられています。オルガンはこのモチーフにとってはまことにふさわしい楽器であり、その荘厳な響きは、教会のなかでこれを聴く信者にとっては、天空の広大さや創造神の崇高さを身に沁みてわからせてくれる絶大な効果を持っているのでしょう。
 ところでこのことは、現代人である私たちから見ると、あまり人間味ののない、ただ理性と秩序のみが支配する冷たい世界の表れのように感じられてしまう要因にもなっているようです。試みに原曲を掲げておきましょうか。演奏は吉田美貴子。



 さてルーシエの演奏は、ピアノという楽器のせいもあり、たいへん表情に富んだものとなっています。あるいは、ジャズでないとこれだけの身近さを演出するのは難しかったかもしれません。
 総じて、彼の演奏には、先に例示したオイゲン・キケロなどとは異なり、とてもオシャレな雰囲気、余裕とヒューマニティと洗練された味わいが感じられます。やっぱりフランス人って、そういう柔軟なところがあるのかなあ、と思います。
 いずれにしても、彼の存在が、クラシックとジャズの融合という課題を果たすのに大きく寄与したことは疑いがないでしょう。ここには、ただの無雑作なフュージョン一般とはちょっと次元が違って、かなり高度な新しい音楽的境地の達成が見られると思うのですが、いかがでしょうか。

 次回、いま少しヨーロッパのジャズについて語りたいと思います。