小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

倫理の起源30

2014年04月15日 23時27分32秒 | 哲学
倫理の起源30




 ミルはまた、人類の長きにわたる経験がよき慣習(道徳律)のかたちで私たちの生活に根付いていることを指摘している。このことを強調することは、倫理学にとって大切な意味を持つ。

 たとえ人類の意見が功利を善悪の基準とすることで一致しても、何が有用であるかについてはなかなか一致が見られまいと考えたり、この問題に関する自分たちの考えを若い人たちに教え、法律や世論によって強制するような手段は使われまいと考えたりするのは、まことにこっけいな空想というほかはない。白痴の寄り集まりがいじくりまわすと仮定したのでは、どんな倫理基準でもうまくはたらくはずがないことを証明するのは、むずかしいことではない。しかし、こんな極端な仮説を立てないかぎり、人類はすでに、行為が幸福におよぼす影響についてはっきりした信念をもっているはずである。このようにして受け継がれてきた信念は、一般民衆にとって道徳律となる。哲学者にとっても、さらによいものを見つけだすまでは、やはりこれが道徳律なのである。

 カントもまた『実践』のなかで、一般民衆が道徳律についての知恵を積み重ねていること、彼らがその判断においておおむね誤ることがないことを説いている。しかし彼は、「哲学者」たるものの沽券と肩ひじ張った自負からして、そこにどうしても超越論的、絶対的な抽象原理が先立ってあるということを「証明」したくて仕方がなかった。だがそれは失敗しており、「信念」の繰り返しに過ぎなかったことは先述したとおりである。
 人はあるいは、行為の幸福への寄与について一般民衆が体得している信念という考え方に、ミルの楽観主義を見るかもしれない。民衆というものは、状況次第でいくらでも残虐なことをしたり始末に負えない放縦に走ったり、愚昧さをさらすことがある存在だからだ。しかし彼は、その信念が一般民衆の生活のどの局面においても必ず自覚的にはたらくと言っているわけではない。普通に平穏に生活秩序が保たれているところでは、道徳律が暗黙知として彼らの幸福(=善)を支えていると言いたいのだと思う。礼節、勤勉、他者の人格の尊重、約束の履行、信頼の情、生活向上の努力などがそれにあたるだろう。その事態を必要に応じて自覚化させたり言語化させたりするのが、すぐれた者の役割なのである。ミルは無原則な民主主義者でもなければ、大衆迎合主義者でもなく、人々の幸福への道を少しでも切り開くためにこそ、より優れた存在、より強い存在が必要だと考えていた。だからこそ「白痴の寄り集まり」では困るのである。
 ではなぜミルの言うように、「人類はすでに、行為が幸福におよぼす影響についてはっきりした信念をも」つことができたのだろうか。私たちは、まさにそこにこそ、功利主義の原理が生きていることを見出すのである。
 すなわち、本書でも再三説いてきたように、ひとりの幸福が、他者とのかかわり抜きにそれだけとして孤立して成立することはあり得ないのである。仮にあったとしてもそれは満腹感のようにほんの断片的な満足にすぎず、時間の持続に耐ええない。ミル自身も、満足と幸福とを区別している。
 もちろんこう言うことで、私は、いつも自分の幸福が自分とかかわる他者のそれと一致していると言いたいのではない。逆にどうしようもない厄介者が死んでくれたり、憎んでいる相手が苦しんだり、物理的・心理的な闘争において相手が敗北すること、つまり他者の「消滅」や「不幸」や「惨めさ」に接することによって自分が幸福感を感じるということはあり得る。私は、こういう場合も含めて、ひとりの幸福はいつも何らかの形で他者とかかわっていると言いたいのである。
 ちなみにこうした場合でも、なぜその人がいっときの解放感・幸福感に浸れるのかといえば、それは、自分がこれまで抱いてきた自分自身に対するネガティヴな感情から解放されるからである。そしてもし厄介視や憎しみの感情や闘争の意義が正当なものとして共同性によって承認されるならば、それらから解放された彼は、自分の存在の本来のふるさとである共同性のうちに復帰できたことになる。だがもし彼の個人感情が共同性から承認されないならば、彼のいっときの解放感・幸福感は、孤独なものにとどまり、それだけはかないものとなり終わるだろう。
 ところで、人類が、どんな脈絡の中でどういう行為をすればより「幸福」になったりより「不幸」になったりするかについてほぼ誤ることのない信念(判断、道徳律)を抱くようになったのは、彼らが長い実践的な相互交流を通して、こういうことをしてはお互いが(共同性それ自体が、と言い換えてもよい)結局みじめになり、滅びの道を歩むだけだ、という知恵をしだいに学んできたからに他ならない。自分の存在のよりどころである共同性全体の共存共栄があってこそ、一個人としての自分の幸福も保障される。そのためにこそ道徳律は必要である。このように人びとは考えるようになったのである。この知恵は、人間存在を孤立した個人の集合としてとらえるのではなく、常に相互に交渉しあう関係存在そのものとして、つまり、個と全体とのダイナミックな運動(和辻)としてとらえる視点にまっすぐつながっている。

 さてミルは、功利主義道徳がどこまで強制力(制裁の効果)をもちうるかという問題を立て、それを外的なそれと内的なそれとに分けている。義務に服する意識が何によって発生するかという分析であろう。
 それによれば、外的な強制力とは、同胞や神によく思われたい、嫌われたくないという気持ちであり、同胞への共感と愛情、神への愛と畏敬の念である。また、内的な強制力とは、義務に反した時に感じる強弱さまざまな感情、すなわち良心(の呵責、負い目感情)である。しかしこの良心は、一見、単純な見かけをまとっているが、現実の複雑な生活現象の中では、さまざまな感情的要素の複合によって組み立てられている。共感、愛、恐怖、各種の宗教感情、幼年期からの思い出、自尊心、他人から尊敬されたいという欲求、時には自己卑下(謙遜あるいは謙抑と訳すべきだろう)など。
 この指摘は現実主義者であり人間通であるミルの面目がじつによく出ている。しかし、ここまで言うならば、外的・内的の区別はあまり意味のないものとなろう。比べてみてすぐわかるように、両者は、互いにほとんど重なり合っている。
 いずれにせよ、こういう一種の心理学的な分析をミルにさせている動機は、「良心」や「義務への服従」という概念を、何か超越的なところ、至高の場所からやってくる絶対命令にもとづくものというキリスト教道徳的な軛から解き放ちたいという欲求にあるように思われる。
 カントなどは、「近代理性」を打ち出の小槌のように振り回してはいても、その心情としては、「義務」の観念を、あくまで至高存在の有無を言わせぬ絶対命令としてとらえていた。それは『実践』の随所で確認できるが、とりわけ有名なのは、あの結末部で「輝く星空と内なる道徳律」に対する無条件な崇敬の念を吐露した部分である。しかしおそらく、ミルの時代、彼の生きた最先進国のイギリスという文化圏では、もはやそういう神がかり的な超越性を持ち出すだけでは、良心や義務の観念の由来を説明しえないと感じられたのだ。
 ここで特に興味深いのは、義務の観念が個人に強いる拘束力の要素として、同胞に嫌われたくないという気持ち、同胞への共感と愛情、恐怖、生涯の思い出、自尊心、尊敬されたいという欲求、自己卑下(謙遜、謙抑の感情)などを挙げている点である。
 本稿をここまで読んでこられた読者にはお見通しだろうが、私は本稿のはじめに、道徳心、良心が何をきっかけとして個人のなかに植えつけられるかについて説いた。それは直接には養育者の「愛」の喪失に対する「恐怖」であり、やがてそれがより多くの人々との交渉を重ねることによって、他者一般に対する被承認欲求へと一般化されてゆくというものだった。
 被承認欲求とは、他者の承認によって自分の存在をみずから承認したいということであるから、「自尊心」「尊敬されたいという欲求」を維持することと同じである。「自己卑下」(謙遜、謙抑の徳)についても、内なる他者が自分の過去に対して審判を下すことであるから、この感情の中には、世間一般への配慮を通しての被承認欲求が組み込まれている。
 また人類史の古層においても、共同体からの孤立、離反の「恐怖」こそが良心を形成させる最大の要因であると説かれたのだった。
 さらに私は和辻哲郎を援用しつつ、ハイデガーを批判して、人倫の基礎は、世人への「頽落」から本来的な個に還ることによるのではなくて、まさに世人として、世間の中を互いにあいかかわりながら日常性を生きることそのものの中から立ち上がるという意味のことを述べた。
 ここにおいて、ミルが義務の拘束力を規定する心理的な要因としていささか不用意に書き並べているいくつもの項目は、個人の発達論的な、また人類の発生史的な視点を導入することによって、ひとつの一貫した人間把握の方法との間に整合性を獲得することが確認できるだろう。その人間把握の方法とは、何度も繰り返すように、人間を徹底的に関係存在とみなすことである。ヘーゲル、マルクス、和辻哲郎など、人間をよく見ていたすぐれた思想家たちは、みなこの立場をとっている。
 ミル自身はあまり意識していないようだが(彼もまたキリスト教文化圏の人だったので)、彼は、右の記述で、良心や道徳感情が、超越的な高みから個人のうちにやってくるものではなく、実生活を生きる交渉の経験の中から育まれるものだという経験論を展開しているのである。すぐ続くくだりで「この感情群は、おそらくあとで(強調引用者)良心の呵責というかたちで姿をあらわすにちがいない。良心の本性や起源について何といおうと、この感情群こそ良心の本質を構成するものである」とはっきり述べている。
 さらに、「共感の広がり」を良心や正義の条件として強調している点にも、彼が関係論的な視点を生かしていることが認められる。ミルは、西洋近代の理念である個人の自由を最も重視する個人主義者のように見えるが、次の引用によっても、彼がそう単純ではないことがわかる。なおこの指摘は、ある若い学徒に負っている。

 社会状態は、人間にとってまことに自然で、まことに必要で、またまことに慣習化しているから、普通でない状況下にあったり意識的に抽象を試みたりしない限り、人間は自分を団体の一員としか考えられない。そしてこの連想(引用者注――「連関」とすべきだろう)は、人類が野蛮な孤立状態から遠ざかるにつれて、ますます固く結合される。そこでだれもがますます強く、社会状態に不可欠な条件はどれも、自分がその中に生まれてきた、人間にとって宿命的な事態だと考えるようになる。そうなると明らかに人間の交わりは、主人と奴隷でないかぎり、すべての人の利益が考慮されるような関係のうえにしかなりたたない。

「野蛮な孤立状態」という言葉は、ルソーの「自然人仮説」の影響を受けていると考えられるので――しかしその評価はルソーとは反対だが――、現在の文化人類学的な知見からは多少割り引いて受け取らなくてはならない。むしろ未開社会においても、人間が人間であり得た瞬間から彼は社会的動物だったのである。
 しかしいずれにしても、ここでミルが言いたいことは、「社会的諸関係のアンサンブル」(マルクス)としての本性をもつ人間は、その社会的諸関係を時間的・空間的に拡大して自分の視野の中に収めるようになればなるほど、その全体の「幸福」に配慮せざるを得なくなるということである。できるだけ広範囲の人々の利益や幸福に気配りすることが、結局は身のためでもあることがわかってくる。文明がよりよく発展することは、健全な公共精神が育つための条件の一つである、ということであろう。
 ミルは単に楽天的にそう言っているのではない。そこには一種の力学的な必然のようなものがはたらいていると言いたいのだと思う。これはわが日本近代勃興期の思想家・福澤諭吉(ミルよりも30年ほど遅れて出現している)が、「文明の発展」という言葉に託して語ろうとした思想ときわめてよく似ている。
 もちろん、私たち現代人は、20世紀の悲惨な世界戦争やホロコーストの生々しい記憶から自由になれない。その記憶を情緒的に受け取る地点からすれば、ミルの言っていることは、ただの楽観的な理想主義にしか過ぎないようにも見える。だが20世紀の経験は、グローバルに全世界の民族や国家が深く接触し交渉しあったために起きた、いわば最初の巨大な失敗の経験なのである。そしてこれからもたびたびこの種の失敗の経験は繰り返されるにちがいない。私たちはだれしも当分の間、それぞれの国益や民族的意識を離れた向こう側の人々の「幸福」について、私たちの身近な同胞たちと同じように配慮することなどできはしない。それは人道思想の浸透が不十分であるという問題ではなくて、社会構造的にそうできないのである。
 けれども、非常に長い目で見れば、これらの数多い失敗の経験こそが「相互にうまくやる」交渉の技術と叡智とをゆっくりと培っていくはずである。その技術と叡智は、200もの大小の主権国家がしのぎ合い、人口、食糧、資源、環境、文化、宗教、経済など幾多の複雑な問題を抱えているいまの世界の現実をあくまで直視しながら、世界統治の構造をどのように構想していけばよいのかという方向で用いられるべきだろう。思い切り乱暴な言い方をすれば、そういう構想が多少とも意味を持つのには、1000年単位くらいの時間的スケールでものを考えるのでなくてはならない。ただ世界平和を祈るだけ、人道主義的理想を掲げるだけでは、何の力にもならない。
 このように考えるとき、ミルが提出している「それぞれの幸福を拡大していくことこそが善の実現である」という功利主義の原理は、最終的にそれしかない形で、現実を動かしていく最も基本的な指針の意味を持つだろう。