倫理の起源31
ここで、ミル自身のカント批判に触れておこう。これは主として、次の二つの点において認められる。
一つは、カントが、他の心的要素から「意志」だけを特権化し、他の要素(感覚、感情、欲望など)をすべて「傾向性」にもとづくものとした点にかかわる。カントはそのうえで「自由な選択意志」を設定し、それをもって道徳の存在根拠とした。これについては私自身すでに批判を加えておいたが、ミルもまた、欲望と意志との連続性を強調している。
もう一つは、カントの定言命法(個人の意志の格率と普遍的法則との一致)が、人類全体の利益に役立つという功利主義的な原理をあらかじめ織り込んでいるのでなければ、無意味な命題だという指摘である。
第一の点については、次のように書かれている。
以上のように理解された意志と欲望の区別は、確実できわめて重要な心理的事実である。しかしその事実は、もっぱらこういうことを意味する――意志は、われわれの身体を構成する他のあらゆる部分と同じように、習慣になじみやすいこと、さらに、われわれはもはやそれ自体のために求めなくなったものでも習慣にしたがって意志したり、意志するというだけの理由で欲求したりできること、である。だからといって、意志がはじめはまったく欲望から生まれたものだという真理が、少しでも否定されるわけではない。そして欲望ということばには、快楽を吸引する力とともに、苦痛を反発する力が含まれているのである。
このくだりでは、カントを名指ししてはいないが、明らかに、意志だけを独立で特権的な心的要素として立てることの不当性が説かれている。それはただ習慣にしたがって発動するだけの場合があり、またある目的を果たす意志のために欲求を抱くことがあるという。
前者の例としては、通勤サラリーマンがちょうど到着した列車に駆け込み乗車をしようと意志する場合などが挙げられる。また後者の例としては、明日は仕事に出かけるために早起きしようと意志するとき、その意志を貫くために早く眠りたいと欲求する場合などが挙げられよう。いずれにしても日常的習慣の中では、ある心的要素が意志なのか欲望なのかはっきり分けられないケースがとても多い。
さらにミルは、欲望という概念はもともと快楽を求め苦痛を避けるという意味が含まれていて、しかもその欲望からこそ意志が生まれるのだと述べて、欲望から意志への連続性を説いている。すべての意志が欲望(快・不快原則)を源泉としているという考え方には疑問をさしはさむ余地も多い。いやいや強制に従うというような場合も、「意志」が存在したと認めさせられることがけっこうあるからである(前に述べたとおり、「自由意志」なるものの存在は、責任が問われる時に必要とされるフィクションなのだが)。
だがここでミルが言おうとしていることを、次のような例で解釈することができる。すなわち、幼児が意志の力(自己抑制の力)をしだいに身につけていくのは、養育者の強制にしたがっておかないと、これから先、養育者から見放される苦痛に耐えられないだろうという直感がはたらくからであって、それは結局、快楽原理にもとづいている、と。
第二の点については次のように書かれている。
カントが(中略)道徳の基本原理(引用者注――定言命法)として、「汝の行為の準則(引用者注――意志の格率)が、すべての理性的存在によって(引用者注――普遍的な)法則として採用されるように行為せよ」と提案したとき、実は、次のことを認めていたのである。それは、行為の善悪を良心的に決定するには、行為者は人類全体のためを、少なくともだれかれの区別なく人類のためを考えていなければならない、ということである。そうでないと、カントは無意味な言葉を並べたてたにすぎないことになる。なぜなら、理性的存在が全員そろって、極端な利己的準則を採用することはありえない――事物の本性の中にはこの採用をどこまでも妨げるものがある――などとは、どうこじつけても主張できないからである。カントの原理に意味を持たせるには、こう言わなければならない。われわれは、理性的存在が全員採用すれば、彼ら全体の利益に役立つような準則によって、行為を指導しなければならぬ、と。
この指摘は、まことに鮮やかでスリリングである。もし「理性的存在」のすべてが、自愛の原理にもとづく利己的な法則を採用したらどうするのか。「理性的存在」ならそんなことを絶対しないはずだということをカントはどのように論理的に証明するのか。単なる「普遍的な法則」と言っただけでは、その可能性を排除できないではないか――このように批判することでミルは、結局はこの定言命法といえども、はじめから人類全体の幸福、福利という功利主義的な目的を織り込んでいたのだと喝破しているわけである。「普遍的法則」とはすなわち、人類全体の福利にかなうような規則のことなのである。
またミルは、徳というものは、はじめは苦痛から逃れるための手段であったが、ちょうどお金が物を手にいれるための手段であったのにいつしか金儲けが目的そのものに変化するのと同じように、やがて手段から自立してその追求そのものが目的の一部になるとも説いている。これもたいへん現実的なものの見方で、私がこれまで述べてきたことと重なるところが多いと思う。
それにかかわって、正義の感情ももとをただせば復讐の本能であると、次のような的確な指摘をしている。
正義の心情は、その一要素である処罰の欲求から視ると、以上のように、人間に本来そなわる仕返しまたは復讐の感情だと私は思う。知性と共感によって、この復讐感情は次のような被害、つまり社会全体を通じ、また社会全体とともに、われわれを傷つける損害に適用されるようになるのである。この心情そのものは、道徳的でもなんでもない。道徳的なのは、この心情が社会的共感に全面的に服従してその要求につきしたがう場合である。
そこで正義の心情とは、自分または自分が共感をもつ人に対する損害または損傷に反撃し仕返ししようとする動物的欲望が、人類の共感能力の拡大と人間の賢明な利己心の考え方によって、すべての人間を包括するようにひろがったものと、私には思われる。この感情は、賢明な利己心によって道徳的となり、共感能力によって人を感動させ、自己主張を貫く力をもつようになる。
こうして、直接の害であろうと、自分の善を追求する自由を妨げられる形の害であろうと、とにかく他人から害を受けないように各人を保護する道徳は、だれもがいちばん心にかけ、最大の関心をもって、言行を通じて公表し励行しようとする。この道徳を守るかどうかで、ある人が人類の一員としてふさわしいかどうかがためされ、決定される。なぜなら、これによって彼が、接触する人々の厄介者となるかどうかがきまるからである。
正義の感情とはもと復讐の感情であり、それが共感の拡大によって多くの人たちの受け容れるところとなり、そこに「賢明な利己心」――この表現はいかにも真正の功利主義精神をあらわすものとしてふさわしい――が作用することで道徳としての位置を獲得する。
ミルは、道徳もまたその形成過程では、復讐や利己心が不可欠の要因としてはたらいていることを堂々と認めている。以上のような「道徳の系譜」についての分析は、事実それ自体の記述としては、ニーチェとそれほど変わっていないように見える。それなのに、ニーチェはなにゆえ「イギリスの功利主義者ども」をあれほど軽蔑したのだろうか。
おそらくこの違いは、それぞれの体質の違いであり、既成道徳に対する感情の違いである。ニーチェにとっては、右の最後の引用における「だれもがいちばん心にかけ」というところが、たまらなく気に入らない箇所だろう。彼なら、「接触する人々の厄介者となる」ことなど先刻覚悟のうえで、「畜群」の厄介者(孤独者)になることを私はあえて選ぶと応じたに違いない。だがそれなら、なぜツァラトゥストラは、繰り返し自分の教えを縷説(るせつ)するためにみずから「没落」の道を繰り返し選ぼうとしたのか。「厄介者」として十字架にかけられることにマゾヒスティックな喜びを見出していたのではないとすれば。
ミルの『功利主義論』の魅力は、次の二つの点に集約される。
一つは、道徳という公的な文化形式を、超越的な高みから無条件に私たちの頭上に下ったものと考えずに、あくまでも人間の普通の感情や欲望を肯定しつつ、それを調整するために歴史的に形成されてきた機能としてとらえている点である。ここにはカントのような理論めかした「狂信」もなければ、プラトンのような転倒の「詐欺」もない。道徳の起源についての認識としてはニーチェと共通する部分をもちながら、彼のような「孤立貴族」の矯激さもない。
もう一つは、だからといってミルは、いわゆる自由な欲望や俗情の放恣な交錯に任せればよいと言っているのでもない。この世で道徳がうまく機能しているその価値を積極的に認め、それがどうして価値に値するのかをていねいに解きほぐしているのである。
こういうバランスある立場は、長きにわたる私たちの生活感覚や慣習にきわめてよく適合するし、殊に日本人の現実主義的な倫理観にマッチするのではないかと思う。私は、功利主義という概念を利己主義や効率主義と誤解して受け取っているすべての人々に、もう一度ミルの主張を詳しく検討してほしいと切に願う。
ここで、ミル自身のカント批判に触れておこう。これは主として、次の二つの点において認められる。
一つは、カントが、他の心的要素から「意志」だけを特権化し、他の要素(感覚、感情、欲望など)をすべて「傾向性」にもとづくものとした点にかかわる。カントはそのうえで「自由な選択意志」を設定し、それをもって道徳の存在根拠とした。これについては私自身すでに批判を加えておいたが、ミルもまた、欲望と意志との連続性を強調している。
もう一つは、カントの定言命法(個人の意志の格率と普遍的法則との一致)が、人類全体の利益に役立つという功利主義的な原理をあらかじめ織り込んでいるのでなければ、無意味な命題だという指摘である。
第一の点については、次のように書かれている。
以上のように理解された意志と欲望の区別は、確実できわめて重要な心理的事実である。しかしその事実は、もっぱらこういうことを意味する――意志は、われわれの身体を構成する他のあらゆる部分と同じように、習慣になじみやすいこと、さらに、われわれはもはやそれ自体のために求めなくなったものでも習慣にしたがって意志したり、意志するというだけの理由で欲求したりできること、である。だからといって、意志がはじめはまったく欲望から生まれたものだという真理が、少しでも否定されるわけではない。そして欲望ということばには、快楽を吸引する力とともに、苦痛を反発する力が含まれているのである。
このくだりでは、カントを名指ししてはいないが、明らかに、意志だけを独立で特権的な心的要素として立てることの不当性が説かれている。それはただ習慣にしたがって発動するだけの場合があり、またある目的を果たす意志のために欲求を抱くことがあるという。
前者の例としては、通勤サラリーマンがちょうど到着した列車に駆け込み乗車をしようと意志する場合などが挙げられる。また後者の例としては、明日は仕事に出かけるために早起きしようと意志するとき、その意志を貫くために早く眠りたいと欲求する場合などが挙げられよう。いずれにしても日常的習慣の中では、ある心的要素が意志なのか欲望なのかはっきり分けられないケースがとても多い。
さらにミルは、欲望という概念はもともと快楽を求め苦痛を避けるという意味が含まれていて、しかもその欲望からこそ意志が生まれるのだと述べて、欲望から意志への連続性を説いている。すべての意志が欲望(快・不快原則)を源泉としているという考え方には疑問をさしはさむ余地も多い。いやいや強制に従うというような場合も、「意志」が存在したと認めさせられることがけっこうあるからである(前に述べたとおり、「自由意志」なるものの存在は、責任が問われる時に必要とされるフィクションなのだが)。
だがここでミルが言おうとしていることを、次のような例で解釈することができる。すなわち、幼児が意志の力(自己抑制の力)をしだいに身につけていくのは、養育者の強制にしたがっておかないと、これから先、養育者から見放される苦痛に耐えられないだろうという直感がはたらくからであって、それは結局、快楽原理にもとづいている、と。
第二の点については次のように書かれている。
カントが(中略)道徳の基本原理(引用者注――定言命法)として、「汝の行為の準則(引用者注――意志の格率)が、すべての理性的存在によって(引用者注――普遍的な)法則として採用されるように行為せよ」と提案したとき、実は、次のことを認めていたのである。それは、行為の善悪を良心的に決定するには、行為者は人類全体のためを、少なくともだれかれの区別なく人類のためを考えていなければならない、ということである。そうでないと、カントは無意味な言葉を並べたてたにすぎないことになる。なぜなら、理性的存在が全員そろって、極端な利己的準則を採用することはありえない――事物の本性の中にはこの採用をどこまでも妨げるものがある――などとは、どうこじつけても主張できないからである。カントの原理に意味を持たせるには、こう言わなければならない。われわれは、理性的存在が全員採用すれば、彼ら全体の利益に役立つような準則によって、行為を指導しなければならぬ、と。
この指摘は、まことに鮮やかでスリリングである。もし「理性的存在」のすべてが、自愛の原理にもとづく利己的な法則を採用したらどうするのか。「理性的存在」ならそんなことを絶対しないはずだということをカントはどのように論理的に証明するのか。単なる「普遍的な法則」と言っただけでは、その可能性を排除できないではないか――このように批判することでミルは、結局はこの定言命法といえども、はじめから人類全体の幸福、福利という功利主義的な目的を織り込んでいたのだと喝破しているわけである。「普遍的法則」とはすなわち、人類全体の福利にかなうような規則のことなのである。
またミルは、徳というものは、はじめは苦痛から逃れるための手段であったが、ちょうどお金が物を手にいれるための手段であったのにいつしか金儲けが目的そのものに変化するのと同じように、やがて手段から自立してその追求そのものが目的の一部になるとも説いている。これもたいへん現実的なものの見方で、私がこれまで述べてきたことと重なるところが多いと思う。
それにかかわって、正義の感情ももとをただせば復讐の本能であると、次のような的確な指摘をしている。
正義の心情は、その一要素である処罰の欲求から視ると、以上のように、人間に本来そなわる仕返しまたは復讐の感情だと私は思う。知性と共感によって、この復讐感情は次のような被害、つまり社会全体を通じ、また社会全体とともに、われわれを傷つける損害に適用されるようになるのである。この心情そのものは、道徳的でもなんでもない。道徳的なのは、この心情が社会的共感に全面的に服従してその要求につきしたがう場合である。
そこで正義の心情とは、自分または自分が共感をもつ人に対する損害または損傷に反撃し仕返ししようとする動物的欲望が、人類の共感能力の拡大と人間の賢明な利己心の考え方によって、すべての人間を包括するようにひろがったものと、私には思われる。この感情は、賢明な利己心によって道徳的となり、共感能力によって人を感動させ、自己主張を貫く力をもつようになる。
こうして、直接の害であろうと、自分の善を追求する自由を妨げられる形の害であろうと、とにかく他人から害を受けないように各人を保護する道徳は、だれもがいちばん心にかけ、最大の関心をもって、言行を通じて公表し励行しようとする。この道徳を守るかどうかで、ある人が人類の一員としてふさわしいかどうかがためされ、決定される。なぜなら、これによって彼が、接触する人々の厄介者となるかどうかがきまるからである。
正義の感情とはもと復讐の感情であり、それが共感の拡大によって多くの人たちの受け容れるところとなり、そこに「賢明な利己心」――この表現はいかにも真正の功利主義精神をあらわすものとしてふさわしい――が作用することで道徳としての位置を獲得する。
ミルは、道徳もまたその形成過程では、復讐や利己心が不可欠の要因としてはたらいていることを堂々と認めている。以上のような「道徳の系譜」についての分析は、事実それ自体の記述としては、ニーチェとそれほど変わっていないように見える。それなのに、ニーチェはなにゆえ「イギリスの功利主義者ども」をあれほど軽蔑したのだろうか。
おそらくこの違いは、それぞれの体質の違いであり、既成道徳に対する感情の違いである。ニーチェにとっては、右の最後の引用における「だれもがいちばん心にかけ」というところが、たまらなく気に入らない箇所だろう。彼なら、「接触する人々の厄介者となる」ことなど先刻覚悟のうえで、「畜群」の厄介者(孤独者)になることを私はあえて選ぶと応じたに違いない。だがそれなら、なぜツァラトゥストラは、繰り返し自分の教えを縷説(るせつ)するためにみずから「没落」の道を繰り返し選ぼうとしたのか。「厄介者」として十字架にかけられることにマゾヒスティックな喜びを見出していたのではないとすれば。
ミルの『功利主義論』の魅力は、次の二つの点に集約される。
一つは、道徳という公的な文化形式を、超越的な高みから無条件に私たちの頭上に下ったものと考えずに、あくまでも人間の普通の感情や欲望を肯定しつつ、それを調整するために歴史的に形成されてきた機能としてとらえている点である。ここにはカントのような理論めかした「狂信」もなければ、プラトンのような転倒の「詐欺」もない。道徳の起源についての認識としてはニーチェと共通する部分をもちながら、彼のような「孤立貴族」の矯激さもない。
もう一つは、だからといってミルは、いわゆる自由な欲望や俗情の放恣な交錯に任せればよいと言っているのでもない。この世で道徳がうまく機能しているその価値を積極的に認め、それがどうして価値に値するのかをていねいに解きほぐしているのである。
こういうバランスある立場は、長きにわたる私たちの生活感覚や慣習にきわめてよく適合するし、殊に日本人の現実主義的な倫理観にマッチするのではないかと思う。私は、功利主義という概念を利己主義や効率主義と誤解して受け取っているすべての人々に、もう一度ミルの主張を詳しく検討してほしいと切に願う。