小網神社blog

東京・日本橋に鎮座する強運厄除の神さま・東京銭洗い弁天の社 小網神社のブログです。

「小網神社教学」本年で終了します。

2015年12月31日 | 小網神社教学
「小網神社教学」は、先代宮司・服部光延(平成21年帰幽)が平成18年の御鎮座535年の奉祝事業として発行いたしました。
数年前、当初印刷製本した残部がなくなったことを機に、不定期ではありましたが、順次、当ブログにて紹介してまいりました。
一部や取り扱うテーマや文章表現などに、現代の表現や価値観にそぐわないものもあったので、若干の加筆訂正を加えた上での掲載となりましたが、昨日の掲載をもって、ほぼそのすべてを紹介させていただいたこととなりました。
長年のご愛読ありがとうございました。
明年からは、浅学非才の身ながら当代・服部が、「小網神社教学 2」として継承してまいりたいと存じますので、何卒よろしくお願い申し上げます。


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潔くあれ。

2015年12月30日 | 小網神社教学
例えば死を二つの側面から考えてみたい。

一つは、いわゆる「生あるものに終わりあり」という意味での死である。

この死は、生の中で考え、深め、生きている意味の重さを認識しなければならないだろう。

身近な人の死に直面し、日を追って生前に思いを馳せると、人の一生の重みを、ずっしりと感ずるものである。

今一つは、公私いずれの場合でも、人に与えられた立場、地位、役職を辞する、という意味での死である。

この死も、今、自分はどこに立っているのか、そして、何をどうすすめて行くのかという与えられた立場、地位、役職の生の中で考え、進めていかなければならないといえよう。

そうでなければ、その組織は駄目になってしまう。

我が国の伝統的価値観は潔さを美徳とする所に収斂される。

潔さとはは生の中で深め、自らの死に場所を認識している人に与えられる勲章であろう。

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「終りの厳粛さ」を語る。

2015年12月29日 | 小網神社教学
人生における最大の儀式は、誕生、結婚、そして死であるといわれています。

これらの共通点は、神秘性を帯びているところであろう。

誕生を神様からの授かりものとし、結婚は、いわゆる赤い糸が生後で結ぼれているといい、死もまた神様の思召しだという。

この中で、とくに死の問題に限つては、討論も議論もなされていない。

神道の生死観は、祖先の子として誕生し、人生は、神ヘ近づく為の修行であり、世のため、人のために生を全うし、神に召される、と説いています。

死して「遺体(なきがら)」は自然に還し、「霊魂(たましい)」は肉体から離れ、祖先の元ヘ帰るといわれています。

死後「たましい」は、その家の守り神となり、浄化昇華を繰り返しつつ、神の列ヘ近づいていくのです。

この信仰は、古来長い間、多くの日本人の信仰の継承の中で、培われたものであることを、わすれではなりまえせん。

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死を見つめる時 生はより輝く

2015年12月28日 | 小網神社教学
生あるもの、必ず死を迎えます。
しかし、欧米諸国に比べ、日本人ほど死に関する思考に欠ける民族はいないといわれます。

近年は「終活」などという言葉が話題になっていますが、葬儀や墓地,遺産相続などの経済的問題が先行し、「人の死」の本質をどうとらえるかについては論ぜられていません。

先祖の下からやってきた魂が肉体に宿り、志を持って先祖の下に帰るという、古来、日本人の生死観は、決して欧米人に比べ劣っているとは思えませんが、貧弱極まりなく見えるのはなぜでしょうか。
例えば、人生を如何に生きるべきかの問いかけに、自他ともに納得できる答えは、死を前提にした生への思考から得られるものでしょう。
死を目前にして急いで死の準備をするより、充分な生の中で死を考えるからこそ、生の充実が計れると言えましょう。

神道では、人は世のため人のために生を燃焼せよと説きます。
この大前提は、心安らかに死に望む基本であるともいえます。

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やよ赤子 なれはいずちの旅を経て われを父とは生まれきませし

2015年12月27日 | 小網神社教学
吉川英治さんの、わが子誕生の際の歌です。
「赤ん坊よ、あなたは前の世に、どんな旅を経てきたのだろう。長い長い旅をして、今この私を父と呼んでくれているが」
選ぶことも、選ばれることもない人間誕生の神秘についてが、窺い知ることができます。

神道では、人の誕生を祖から与えられた生命と説きます。
人の生命は、祖から授かったもので、人生とは、世のため人のために生きぬく人生修行であると、教えています。
一方で死は祖のものヘ帰ることであり、あの世への旅立ちを意味しています。

誕生が人生修行の出発であれば、死は修行を終了で、あの世への旅立ちと考えられます。
人生処世の心は、「自ら祖先に喜ばれる子孫となり、子孫に拝される祖先となる」ということになります。

今年も、残すところあと僅かですが、元日を新しい生命の誕生と捉えるならば、大晦日は一年の終焉です。
悲喜こもどもの一年が終わろうとしています。
自らの旅立ちとともに、甦りの日を心新たに、そして穏やかに迎えたいものです。

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年越の大祓 人形の受付について

2015年12月24日 | 小網神社教学
大祓は、日常生活のなかで知らず知らずに犯してしまう罪やけがれを6月30日(夏越の大祓=なごしのおおはらえ)と十二月三十一日(年越の大祓=としごえ或はとしこしのおおはらえ)の年二回お祓いする行事です。

当神社では5/28の例大祭時にあわせ夏越の、11/28のどぶろく祭からは年越の大祓の人形(ひとがた)等をお配りしています。

日本最古の歴史書である『日本書紀』にも記載があり、大宝律令に規定されていらい、宮中においては現在も恒例の神事として行われています。
当神社でも、これにならい、古来受け継がれてきました。

祭典は12/31の夕刻、1年間の罪・けがれを清め、心新たに新年をお迎えするため、神々から大きなお力をお授けいただくことを目的に斎行されます。
なお参列はできませんのでご了承ください。

人形に必要事項をお書きになる際には、次の言葉を唱え、身体を撫でてください。
「直(なお)かれ、清(きよ)かれ、明(あかる)かれ、正(ただ)しかれ。
我(われ)人(ひと)ともに、厄(わざわい)あらざれ」

御希望の方は形代に姓名、生年月日を記し、12月30日までに初穂料を添えて神社までお持ち下さい。
車型には、車種とナンバープレートの数字をお書き下さい。



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人の生死。

2015年08月21日 | 小網神社教学
神道では、生死について、人の命は親から与えられ、一生を全うして、親の元ヘ帰ると説いてきました。
独でこの世に生まれ、独りでの世を去っていきます。
生あるものはすべて終わりがあり、例外はありません。
この現実を、生あるものすべてが享受せねばならず、そのうえで、今只今の人生の生き方を、考えるようになるのです。
常に死を意識した生と、死を先送りした人生では、死についても、人生について、かなりの聞きがないでしょうか。
死はさまざまな形でやってきます。
普段から死を意識し、生きることはたいへん重要なのではないかと思います。
先日、参拝に来られたお年寄りに、死について尋ねると「このことは、私の中で片付いております。いつお迎えが来てもあわてません。」とおっしゃっていました。
「心の長寿」を得た人柄に、大切なものを学んだ気がいたします。

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100年後に繋ぐ祈り。

2015年08月05日 | 小網神社教学
小網神社の現社殿は、今から約100年前に起こった関東大震災の復興事業として再建された建物です。
社殿の修復は、木材から釘に至るまで、当時の物を最大限に活用して行います。
宮大工が修繕箇所を細部に亙って見直し、手作業で建材を元の通りに組み直します。
先人から受け継いだ掛け替えのない社殿を原型のまま後世に残すため、古い銅板屋根を張り替えるだけでなく、次代の修復も視野に入れ、現代の匠の技術を結集させています。
この度の修復によって、当時の人々の思いや職人たちの匠の技など、神社に対する深い信仰6や故郷小網町への思いの結集を改めて目の当たりにしました。
550年の記念事業を通じ、現代に生きる私たちの神様への祈りを、百年後の世代にも託したいと思っております。



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死を生きる。

2015年07月26日 | 小網神社教学
死から人を守るのは、医学を初め、それに関連する科学の分野です。
一方で死そのものを正面からとらえ、死に対応するために宗教はある、といえます。

多くの人は、死をどのように考えているのでしょうか。
「死は、すべての終わり」と考える人がいます。
また、「死後の世界は、ないともいえないが、あるとも確信できない」という立場の人もいます。
「死後の世界はあると、確信している」という人も、いらっしゃいます。

多くの人は、「死」を「他人ごと」と考え、自らの死については、先送りの姿勢になりがちです。
死を目前にして、自らの死とどう対応してよいか苦悩する人がほとんどです。

世界に存在する多くの宗教は、人智を超えたの存在と、死後の世界を説きます。
我々宗教者は、死後の世界の存在を説き、死を前に苦悩している人々に、安らかな光の存在在確信し、死在受け入れる力在、与えていかねばならないと思います。

しかし宗教者といえども、実際に死後の世界を目の当たりにしたわけではありません。
なのでこれまで千年を超える死者の御霊鎮めや御霊和めの歴史の中にその答えを見出すべきでしょう。

日本人は死者の御霊を「あの世」にお送りし、先祖の霊と盆や彼岸、新年に接してきました。
我が国古来の葬送の歴史を顧みれば、「死後の世界」を確信し、また死を生きている、という感覚が沸いてくるのではないでしょうか


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生きるしるしある人生

2015年07月22日 | 小網神社教学
生あるもの必ず終わりがありまう。これは例外なく、我が身にも起こる現実です。
某住職さんから、人の最大の不幸は「この世」に生を受けたことで、最大の幸せは「生まれて来ないことである」という噺を聞いたことがあります。

余命を医師に告知され、自らの残された研究を進め、この世を去った宗教学者の岸本英夫先生の晩年のことを、先代の宮司である父から聞きました。
死を目前に、健康な時よりむしろ意欲的に、そしてたくましく人生を燃え尽きた、その学者精神に頭が下がったといっていました。
また、先代の話では、「日本のピカソ」と呼ばれ、フランスで名を挙げた今井俊満画伯も同じで、死を前に情熱的な創作活動を続けられたそうです。
二人の偉大な人生を見た先代も、自らも生きるしるしある人生を望んでいました。

人は、家族、集団の中に属して人生を送ります。
生きるしるしある人生とは、自らを知り、家族や社会を思いつつ、自らを生き切ることにあるのではないでしょうか。
当神社歴代の宮司は、岸本博士や今井画伯のような華々しい足跡を残したわけではありません。
しかし、この度の社殿修復にあたり、各宮司がが等身大の神職を務め切った姿を、過去の社務日誌などから感じ取ることができました。
これらは地味なものではありますが、かならず後世に語り継がいでいかねばならないと思っています。

この世に生を受けることは、決して不幸ではない、と確信しました。


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わが父母も そのまた父母もわが身,なれ 我を愛せよ、我を敬せよ。

2015年07月15日 | 小網神社教学
表題は二宮尊徳のことばです。
お盆の時期ですが、神道は祖先崇拝の宗教といわれる程、祖先を大切にします。
家においても、企業においても、祖先や創業者、過去の社員の方々により、今日があることは、否定できません。
それぞれの家には、文書によらないまでも、口伝として「家訓」などが伝えられてきましたし、企業では「社訓」等に表された社風があります。
家でも企業でも、現在は過去・未来の一点としてとらえ、この一点は、未来につながる一点として認識することが肝要で、これを神道では「中今」と表現しています。

ただ、「今」は単なる一点ではないともいえます。
今日の日本では、終身雇用制を否定する流れが強くなり、年間契約雇用制を取り入れる向きがあります。
神道では、祖孫一貫を説きますが、家でも企業でも、祖先に喜ばれる子孫となり、子孫に拝される祖先になれということは今も昔も変わらない考えでしょう。
最近、大変薄れて来た日本人の心情を満たす教えではないでしょうか。

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夏越の大祓について。

2015年06月28日 | 小網神社教学
大祓は、日常生活のなかで知らず知らずに犯してしまう罪やけがれを六月三十日(夏越の大祓=なごしのおおはらえ)と十二月三十一日(年越の大祓=としごえのおおはらえ)の年二回お祓いする行事です。
日本最古の歴史書である『日本書紀』にも記載があり、大宝律令に規定されていらい、宮中においては現在も恒例の神事として行われています。
当神社でも、これにならい、古来受け継がれてきました。

祭典は半年間の罪・けがれを清め、心新たにお過ごしいただき、大きな力を得ることを目的に斎行されます。
御希望の方は形代に姓名、生年月日を記し、夏越の際は明29日までに初穂料を添えて神社までお持ち下さい。
車型には、車種とナンバープレートの数字をお書き下さい。

なお、人形に必要事項をお書きになる際には、次の言葉を唱え、身体を撫でてください。
「直(なお)かれ、清(きよ)かれ、明(あかる)かれ、正(ただ)しかれ。
我(われ)人(ひと)ともに、厄(わざわい)あらざれ」

それでは強運厄除の御神威が発揚し、皆々様のますますの御健勝を衷心よりお祈り申し上げます。
末筆ではございますが、時節柄いっそうの御自愛をお祈り申し上げます。

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病や老いとの共存。

2015年06月14日 | 小網神社教学
「病は気から」といいます。
健康維持は、医学上の生活指導が、中核をなすことはいうまでもありません。
だからといって、医師の指導通りの完壁な養生は、持続が難しいものです。
人は顔も心も十人十色、人の臓器もまた、十人十色に近い違いはあるに違いありません。
そこで医者の指導を、知何に取り入れていくかではないでしょうか。
一日おきに実行していくこともひとつのほうほうかもしれません。
要は、持続していくことなのです。

気まで病んでしまっては、病は深まるばかりでしょう。
「一病患災」ともいえる今日、病との「共存」と人の心の有り様は、健康保持に無関係ではないのかもしれません。

年下のものに接して、自らの老いを感じたり、口に出したりすることがあります。
自然体、平常心を尊ぶ神道の考え方からみれば、老ゆることこsが、「自然体」なのです。
病の養生も、自然・平常の中に定着させることが肝要といえあしょう。


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老いたるは、なおうるわし。

2015年06月08日 | 小網神社教学
「女あり二人ゆく 若きはうるわし 老いたりは猶うるわし」
19世紀アメリカの詩人・ホイットマンの言葉です。
これは老いを迎える人たちの理想の姿でしょう。
当然この「うるわし」は、うちからにじみ出る「うるわし」です。
河上徹太郎さんが、年老重ねると、人は浄化昇華するものだ、といわれています。
又「和順中に積み、英華外に発す」という言葉もあります。

「人生は修行なり」の教えの通り、長い人生修行の中に培われた心の遍歴が、心を浄化し、和順に導き、それから、うるわしき姿として、外に現れたと思われます。

ある年齢に達したら、自分の顔は、自分で責任を持てと、日本では、よくいわれます。
人生は、世のため人のための人生であると神道では説きますが、。個を尊びすぎれば、家は破壊し、地域社会や国までが変化を余儀なくされます。
誰もが求める、美しく老ゆるためにも、心の成熟を促す新しい個のあり方が歴史に加わることを期待したいものです。


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幸福のすがた。

2015年05月23日 | 小網神社教学
今の日本人は、欲の追及のみで生きているとの指摘が後を絶ちません。
欲を満たすための人生を目標とするなら、それには終わりがないし、満たされた思いも、味わうことができません。
かつて、鴨長明が、方丈の庵に住み、人は一尺四方の住み家でよい、と記していますが、幸せとは形でなく、心であることを言外に強調しています。
フランスの諺に、パンを買いにいったら、その一部で花も買え、というのがあるそうです。
伝統ある日本が、精神的にも豊かなの先進国であることをわすれてはならないでしょう。

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