内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

西谷啓治『宗教とは何か』における「囘互」の出典についての一注記 ― 道元『正法眼蔵』第十二「坐禅箴」より

2019-11-20 23:59:59 | 哲学

 金曜日のシンポジウムでは、西谷啓治の『宗教とは何か』における空の思想について話す(こちらがプログラム)。
 私の発表は、四部構成になっている。まず、仏教思想史の中に系譜学的にその思想を位置づけ、次に、西谷が「空」について、『宗教とは何か』の中でそれを「天空」と重ねて説明している箇所に絞って注解し、転じて、認知科学と現象学の観点から西谷の「空」の思想の現代性を示し、締めくくりとして、今後の研究の展望として、西洋近代文学における空(そら)の表象の分析から、東洋の「空」へと通じる「空の細道」を拓く可能性を示唆する。
 一応原稿を仕上げた後、第一部について、発表では話さないが、話に奥行きをもたせるつもりで、西谷が同書で使っている仏教的概念のいくつかの出典などを調べていた。ちょっとの散歩のつもりで始めたが、やはりそうはいかず、たちまち深遠なる仏教思想の森の中に迷い込みそうになり、恐ろしくない、慌てて引き返してきた。それでも、いくつか収穫はあった。
 例えば、西谷は、「囘互的相入」「囘互的関係」という言葉を使っているが(例えば、『西谷啓治著作集』第十巻、178-179頁)、この「囘互」は、道元の『正法眼蔵』第十二「坐禅箴」に出てくる。岩波文庫版では「ういご」と訓んでいる。

不対縁而照
 この「照」は照了の照にあらず 、霊照にあらず 、「不対縁 」を照とす。照の縁と化せざるあり 、縁これ照なるがゆゑに。不対といふは、遍界不曾蔵 なり、破界不出頭 なり。微なり、妙なり、囘互不囘互なり 。(岩波文庫『正法眼蔵(一)』二四六頁)

 この文脈で、「囘互不囘互」とは、照らすものと照らされるものとが相互に融通し合っているとも言えるし、そもそも両者の間に区別はない、というほどの意味になるかと思う。この両義的関係性は、認識するものと認識対象、あるいは、見えるものと見えないものとの関係にも拡張して適応できる。

 西谷は『宗教とは何か』の中で、道元に二十数箇所で言及している。「囘互」という語は、何も出典あるいは参照文献を示さずに使っているが、上掲の『正法眼蔵』の引用箇所を念頭に置いていたとしても不思議ではない。
 仏訳者は、その訳者注記で、この語がどの仏教辞典も載っていなかったと言っているが(Qu’est-ce que la religion ? Cerf, 2017, p. 13)、それは勉強不足というものだろう。ただ、文脈から判断して、「囘互的相入」を « interpénétration circulairement réciproque » と訳しているのには賛成する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


きめ細かな個別指導に定評があるK先生の日本語鍛錬道場としての演習 ― 月刊『K先生の耄碌妄言集』(廃刊)より

2019-11-19 19:01:33 | 講義の余白から

 二年前から、修士二年生の演習で、学生たちがフランス語で書かなければならない修士論文の要旨あるいはその論文の一部を日本語で書くという課題を課している。長さは4000字以上。一学期をかけて仕上げさせる。その間、彼らの文章を徹底的に添削していく。
 この課題は、課したこちらもかなりの重労働になる(じゃあ、やめりゃーいいじゃん)。そもそも他人の文章の添削は容易ではないという一般的な困難がある。しかし、それは序の口である。
 何を言っているのかわからない奇怪な文章(とも呼べない代物)の解読を強いられるとき、狂気すれすれまで頭が混乱し、「助けてぇ~」と窓から飛び降りたくなる衝動を必死で抑えなくてはならないのは、一度や二度ではない。
 書いた本人の胸ぐらをつかんで、「何年日本語勉強してんだよ。何回もこんなアホな間違いを繰り返して恥ずかしくね~のかよ」と怒鳴りつけたくなる衝迫を胸に秘め、「提出する前にもう少し自分で見直すようにしましょうね」と、偽善で引きつった作り笑顔と震えた小声で助言するのは、ストレス過剰で精神に異常を来しかねないほどである。
 もちろん、そんな文章ばかりではない。それどころか、そのまま日本の一流大学の学部四年次のレポートとして提出しても立派に通用する日本語で書いてくれる学生が、少なくとも二人いる。二人とも私が修論の指導教官だ。彼らの文章の添削は、彼らと討議しながら行われる。より適切な表現を一緒に探求しつつ、内容・構成についても議論する。それが事実上、彼らの修論の指導にもなっている。この作業は、私にとっても勉強になることが少なくない。
 かくのごとく、同じ修士二年生といっても、彼らの間の実力差はベーリング海峡よりも広くかつ深い(って、意味不明なんですけど)。いささか誇張して言えば、注意力散漫で成績もパッとしない小学四年生と一流大学に合格できるレベルの小論文が書ける高校三年生とが同じ教室にいるのである。
 このような条件下では、一斉授業(って言ったて、全部で八人なのですが)は、不可能、とまでは言わないまでも、教育効果において著しく劣ることはご理解いただけるであろう。そこで、「きめ細かな」個別指導で定評あるKスクールになる。課外授業として日本語道場でも始めるかなあ。












テツガクシャは黒服がお好き? ― 稀代の晩学K先生の随筆集『テツガクより愛を込めて』(絶版)より

2019-11-18 21:53:33 | 哲学

 先週金曜日のことでした。授業を終えて、教室を出ようとしていたら、いつも最前列に座って熱心にノートを取りながら授業を聴いてくれている女子学生が、「先生、哲学の先生はなんでいつも黒い服を着ているのですか」と日本語で聞いてきました。ちょっと質問の意図を解しかねていると、「だって、先生はいつも黒い服を着ているし、私の高校の時の哲学の先生もいつも黒い服を着ていたんですよ」と言うんですね。
 「ああ、私の場合はね、火曜日の授業は全部日本語でやっているでしょ。それを担当している〇〇先生と今日の授業を担当している私□□とは「別人」だよっていうつもりで、火曜日は明るい色の服、金曜日は黒ずくめって決めているだけで、哲学とは関係ないよ」と答えたら、隣に座っていた学年一番の女子学生と一緒になって大笑いしていました。
 フランスの高校の哲学教師が黒服を好むかどうか知りませんが、私の場合は、ですから、完全に「遊び」です。
 今学期の最初の週、まず火曜日の日本語のみの授業「日本文明・文化」がありました。その日は明るい色の服を着ていきました。同じ週の金曜日の授業「近代日本の歴史と社会」のときは、上から下まで黒ずくめ。授業はフランス語のみ。
 その授業の冒頭、「皆さんは、火曜日に〇〇センセイの日本語のみの授業受けましたよね。彼と私は瓜二つで、名前も同じ、生まれた時間も場所も遺伝子情報もまったく同一なのですが、私と彼は「別人」です。彼はとても優しい先生ですが、私は違います。ものすごく点数も辛いし、性格もひねくれています。だから注意するように」って、真顔で言ったら、学生たち、ものすごく受けていました。
 火曜日と金曜日で私が服装を意識して着分けている(実は眼鏡も変えている!)ことには気づいていないぼんやり学生もいるかもしれません。まあ、それはどうでもいいことなのですが、金曜日の授業を哲学の授業だと思ってくれている学生がいるのは、ちょっと、いや、かなり、嬉しい。














思考の自己生成・再生装置として私の身体 ― K先生の幻の名著『テツガクより愛を込めて』(絶版)より

2019-11-17 19:40:00 | 哲学

 昨日今日のこの週末、文字通り家に籠りきり、食事も夕食以外はほとんど取らず、朝から晩まで机の前にほぼ座りっぱなしで、今週金曜日のパリ・ナンテール大学での発表原稿を一気に仕上げた。
 今、ワインと共に夕食を取りながら、この記事を書いている。例によって、安ワインだが、一仕事終えた後の味は格別だ。
 原稿は、例によって、詰め込みすぎ、持ち時間40分に対して長すぎる。ただ読み上げただけでも一時間はかかりそう。実際の時間配分としては、発表30分+質疑応答10分というところだろう。明日からの残り四日間は、授業と大学の雑務の合間を縫って、原稿の推敲とパワポ作りに取り組む。
 授業の準備でも同じなのだが、話す材料はいつもかなり多めに仕込んでおく。そうすれば、気持ちの上で余裕ができ、概して話にも淀みがなく、聴いている方にもそれだけ聴きやすいはずだ(えっ、違うの?)。
 原稿を書いているうちに内容は頭に入ってしまうので、当日、原稿をそのまま読み上げるということはまずしない。
 普段の授業では、A4のルーズリーフ一枚、あるいは、昔懐かしいB6の情報カード(学生時代にものすごい量を購入したのだが、その直後にパソコン時代が到来し、お蔵入りしていたものを日本から送ってもらった)に記したメモだけで話す。
 要点が記された紙一枚が目の前に置いてあれば、あとは話したい内容そのものが私の身体という発声器官を通じて自己生成していく。自己生成する思考が発声器官としての私の身体を使っているに過ぎない、という感覚である。
 しかし、それは必ずしも、最初から最後まで立て板に水、ということではない。私の脳が記憶媒体となり、私の身体が再生装置となり、そのスイッチを入れれば、あとは最後まで予め入力されていた内容が自動的に再生されるだけ、ということではない。
 内容そのものの難所では、言葉も自ずと停滞する。より適切な言葉を探して、言い直しのコマンドが実行される。適切な言葉がすぐに見つからず、焦燥と緊迫を孕んだ沈黙が流れることもある。しかし、それらすべてが表現なのだ。














日本の哲学が勉強したいのなら、ストラスブール大学に来るがよい! ―『K先生の黄昏恍惚夢想録』(発禁)より

2019-11-16 21:46:08 | 哲学

 今年度に入ってから、つまり9月からのことですが、日本学科の学生たちの中から、私個人としてちょっと意外かつ嬉しくなる反応がポツポツと出て来るようになりました。日本の文学・歴史・思想・社会・言語・芸術・芸能等への関心と哲学的な問いとをそれぞれの仕方でリンクさせた質問や問い合わせを受けるようになったのです。それは、昨年までは絶望的に乏しかったことなのです。
 今年の修士一年の学生たちが日仏合同ゼミのためにかなり哲学的なテーマを自発的に選んでくれていることは、今月13日の記事で話題にしたので繰り返しませんが、それはやはりとても嬉しいことでした。
 9月2日、新入生オリエンテーションの日、全体説明会の後、個別質問を受け付けているとき、一人の女子学生が、「先生は、6月に「日本思想史における積極的無常観」ついての講演をなさっていますよね。その講演の録画や資料はありませんか」と聞きに来たのです。残念ながら、この講演は原稿なしでパワポだけで行い、録画もされていなかったので、「もうしわけない。記録も資料も何もないのです」と答えるしかありませんでしたが、入学したばかりの一年生がこのテーマに関心を持ってくれていること自体に驚き、かつ嬉しく思いました。
 昨日、片渕須直監督の講演の直後、9月に一度オフィス・アワーときに質問に来た(質問内容は忘れましたが)二年の男子学生が「先生、「研究入門」の授業のレポート課題図書として丸山真男の『日本政治思想史研究』を選んだのですが、全部読まなければいけませんか」と聞きに来ました。「いやいや、一章だけ読めばいいよ。たとえ仏訳でも、全部読めとは言わないよ。自分で自由に選んでいいよ」と答えたところ、「わかりました。難しい本ですが、とても面白いです。頑張って読みます」と健気なので、「嬉しいね。レポート、楽しみにしているよ」と激励いたしました。
 その学生が来る前に、「先生、22日にパリ・ナンテール大学で発表されますよね。それって動画配信とかありますか」と聞きに来た女子学生がいました。「ないと思う」と答えると、「じゃ、パリまで聴きに行くしかないってことですか」と言うので、「まあ、そういうことになるけど……」と呟くことしかできませんでした。その学生に私は見覚えがなく、つまり、私が授業を担当してない学部一年生か二年生なのです。このシンポジウムについては、その日休講にしなければならない三年生には理由説明として知らせておきましたが、一・二年生には、私自身は何も伝えていませんでした。シンポジウム責任者から送ってもらったポスターを学科教員室がある階の廊下に貼っておいたので、それでも見たのでしょうか。
 これも昨日のことなのですが、「近代日本の歴史と社会」の授業で、分野ごとに「近代」概念は異なるという話を、文学史、芸術史、言語史、社会史、経済史・政治史などを例に挙げながら、参考文献としては苅部直『「維新革命」への道』(新潮選書、2017年)を引用しつつ、しかも「寛容」「主体」など、それぞれ明治になって « tolérance » « sujet » の翻訳語として使われることによって、原語の原義についてどのような概念的忘却が発生してしまったかという話も折り込みつつ、授業を展開しました。たとえ日本語で日本人向けに話したとしても、かなり高度な内容でした。ところが、ちょっとこっちがびっくりするくらい、というか、正直、少し気味が悪いくらい、教室に静かな緊張感が漲り、最後まで全員真剣に聴いてくれたのです。
 これらすべて、私のあまりにも楽天的な思い込み或いは勘違いに過ぎないのかも知れません。それでもかまいません。黄昏れていく妄想老人の他愛もない戯言としてお聞き流しくだされ。
 妄想ついでにあと一言、許されたし。「日本に関心をもつフランスの若者諸君よ、日本の哲学・思想についてフランスで勉強したいのなら、私のところに来るがよい!」













アニメーションとは、登場人物たちに命を吹き込み、それらの人物と一緒に生きること

2019-11-15 23:59:59 | 哲学

 今日の午後、『この世界の片隅に』の片渕須直監督の講演が大学の階段教室で行われ、夜には、ストラスブール市中心部の映画館で同映画の一回限りの上映、それに引き続いての監督と会場との質疑応答があり、それらすべてに参加した。
 それらは、監督の映画作りの現場を垣間見るという得難い機会となったばかりでなく、アニメーションの魅力とは何なのか、という本質的な問いへの答えを、少なくともその答えへの一つの手がかりを得る貴重な機会ともなった。
 講演では、『枕草子』を題材とした次作の準備過程について詳細にお話ししてくださった。ほとんど学究的とさえ形容できるその徹底した時代考証作業についてのお話を聴きながら、いったいどこからその情熱は来るのだろうかと問わざるを得なかった。
 会場からの質問への監督の応答の中に、その答えはあった。その答えの要は、まさに « animation » という語の本来の意味と一致している。つまり、端的に、「命を吹き込む」ことなのだ。登場人物の一つ一つの挙措を、そのそれぞれがその人物の「人となり」そのものとなるまで、何度も何度も描き直す。その過程でその人物が生動し始める。それは、一つの生命の誕生なのだ。
 『この世界の片隅に』の主人公北條(旧姓浦野)すずは、まさにアニメーションによって賦活された「生きた」存在なのだ。その家族、隣人たち、友人たちもまた。それらの人物は、「フィクション」であるにもかかわらず、生身の人間ではない二次元の「キャラクター」であるにもかかわらず、生きている。いや、この言い方は適切ではない。「現実」と「虚構」という対立図式自体が私たちを〈命〉から遠ざけているのかも知れない。















「環境」に「適応」しなければ「生き残れない」という進化論的強迫観念を世界に拡散させた政治思想

2019-11-14 23:59:59 | 哲学

 「進化」という言葉が、生物進化論の枠を超え、社会ダーウィニズムとも進化論的歴史観とも直接の関係なしに、個人における特定の能力の目覚ましい向上や進歩をも意味するようになり、メデイアでもかなり安易に使われるようになったのは、いつのころからだろうか。例えば、スポーツ選手がどんどん記録を更新したり、技術的に精度が上がったりしていることを話題にするとき、「進化」という言葉が使われているのをいつのころからか頻繁に見かけるようになった。その都度、私はそれに強い違和感を覚えたし、今も覚える。
 「進化」するためには、与えられた「環境」に「適応」しなくてはならない。そして、適応できたものだけが生き残れる。このような進化論的強迫観念がますます深く社会に浸透しつつあるように思える。もはや安定的な「母なる大地」ではなくなった今日の自然環境や不安定性・流動性を加速させ格差を拡大させ続ける現代社会は、地球上のいたるところに共通の問題を引き起こしつつある一方、その地球上の住人である私たちに、不安定で複雑で不確かなその「環境」に対して遅れをとっている、なんとかそれに「適応」しなければ「生き残れない」、という不安、さらには恐れを抱かせている。
 このような漠然とした感覚が人々の心にじわじわと浸透し、世界中に拡散しつつあるとすれば、その原因はどこにあるのだろうか。技術革新の速度の急速な増大や資本主義の独占的支配などだけにそれを帰することはできない。そのもう一つの原因は、一つの政治思想にあるとするのが Barbara Stiegler, « Il faut s’adapter ». Sur un nouvel impératif politique, Gallimard, « NRF essais », 2019 である。その政治思想とは、人類は適応しなければならない現在の環境に対して遅れを取っていると主張するネオリベラリズムのことである。
 この名称が広く使われるようになったのは、1938年8月にパリで開催された国際シンポジウムをそのきっかけとする。このシンポジウムは、アメリカのジャーナリスト・政治評論家のウォルター・リップマンの著作をめぐって開催された。
 そのリップマンの著作を丹念に分析し、その所説を、当時リップマンを激しく批判したジョン・デューイの哲学と対比し、リップマンの進化論的世界観とは異なった社会再生論を本書は提示しようとしている。












『陰翳礼讃』の多様な読み方を日本語で発表する特訓開始

2019-11-13 23:59:59 | 講義の余白から

 来年2月の日仏合同ゼミの共通課題テキストとして谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を選んだことは、今年の7月12日の記事で話題にした。9月から学生たちとテキストを読み始め、10月前半には読み終え、引き続き、各学生の日本語での個人発表原稿の準備とパワポを使った発表練習に入った。
 6名の学生たちに自由に選ばせたテーマが互いにうまく異なっていて、期せずして『陰翳礼讃』を多面的に考察することが可能になった。以下、それぞれを簡単に紹介しておこう。すでにかなり準備が進んでいる学生もいれば、まだ分野を決めただけという学生もいる。
 (一)『陰翳礼讃』と『いきの構造』を比較し、さらに西洋近代の美意識の例としてボードレールのそれを両者に対する比較対象とし取り上げ、さらにはジャンケレヴィッチの Philosophie première (1re édition, 1953) から次の一節を引き合いに出して議論を深めようしている。

Telle une beauté « incomplète » dont l'incomplétude toujours complète tient non pas à l'absence de tel ou tel caractère précis d'abord inaperçu, mais à l'indéfinissable absence de cet insaisissable charme, de cette grâce diffuse et partout répandue [...] (PUF, coll. « Quadrige », 1986, p. 142-143).

 (二)『陰翳礼讃』とFrançois Julien, Éloge de la fadeurPhilippe Piquier, 1991 ; Le Livre de Poche, 1993. 邦訳は、『無味礼讃』平凡社 1997年)を比較検討し、両者の方法論的な共通性と差異を明らかにすることを目的とする。
 (三)海外での『陰翳礼讃』の高い評価の理由を作品そのもののうちに探りながら、日本の伝統美への回帰という虚構を解体し、谷崎個人の美意識の見事な言語的表現こそが美の具体的経験に普遍性を与えることに成功しているのではないかと問う。この発表で言及される Max Milner, L’envers du visible. Essai sur l’ombre, Seuil, 2005 には、382頁から388頁にかけて、『陰翳礼讃』への大変興味深い考察が見られる。
 (四)『陰翳礼讃』のフランス映画における影響例として、アラン・コルノー監督『めぐり逢う朝』(Tous les matins du monde)を取り上げる。監督は、この映画の制作開始にあたって、全出演者に『陰翳礼讃』を読んでおくようにと指示したと言われている。実際、この映画では、〈影〉が全編に渡って重要な役割を果たしている。その役割をさまざまな場面の分析を通じて考察する。
 (五)クイズ形式で、『陰翳礼讃』に示された日本と西洋の文化的違いがどこまで正当で、どこに誤りがあるか、明らかにしていく。
 (六)建築における陰翳の役割を、日本と西洋における中世から現代までの建築を比較しながら考察し、谷崎の所説の現代性を示す。

 それぞれに興味深い問題に向き合おうとしているし、かなり哲学的な要素も含まれているのはこちらも望むところなのだが、いずれの発表も概念的にかなり高度な表現力が要求される内容なので、彼らの日本語能力がそれに追いついていないうらみが多かれ少なかれある。これから2月のゼミ当日までの二ヶ月半あまり、彼らの日本語発表能力を鍛えていくのが「鬼コーチ」としての私に課せられた役割である。












ヨーロッパ人文学的精神から中世日本の宗教思想への清々しく謙虚な問いかけ

2019-11-12 19:36:31 | 哲学

 今日のオフィス・アワーに、数日前に面会の申し込みがあった別学部の学生が小論文の相談に来た。彼の所属学科は、Licence Humanités、つまり人文学科である。学科の紹介文は次のようになっている。

La licence Humanités offre une formation pluridisciplinaire dans quatre disciplines littéraires : la littérature, l’histoire, la philosophie, les langues vivantes. Pour s’y épanouir, il est recommandé d’avoir une grande curiosité intellectuelle, un goût prononcé pour la lecture et l’écriture, l’analyse des textes, l’histoire et l’histoire des idées, et langues, vivantes et anciennes.

 なんと昔懐かしい響きがする一文ではないか。日本の大学では、もはや絶滅危惧種ともいうべき、人文主義精神を標榜している学科なのである。
 この学科では、二年次に25枚程度の小論文が必修だ。学生たちは、自分たちの人文主義的関心に応じて自由にテーマを選んでよい。テーマについて指導教官の許可が得られ、かつそのテーマが指導教官の守備範囲を越える場合、その指導教員自身がそのテーマについて指導できそうな他学部の教員にコンタクトを取り、指導を依頼する。テーマが日本に関係する場合、学科長である私にまず問い合わせが来る。
 当該の学生は日本中世の神仏習合思想に関心がある、というのが指導教授の言であった。思想ということであれば、原則、時代を問わず、私は二つ返事で引き受ける(それなのに、我が日本学科で思想的関心を示す学生のなんと乏しいことよ。今年の修士一年の指導担当学生は稀なる例外)。
 第二段階として、学生自身から指導依頼のメールが来る。当該の学生は、直接会ってアドヴァスを受けたいというので、今日のオフィス・アワーを指定した。今日の約束まで三日間あったので、面会日までに、指定した参考文献を読んでくるように指示した。ただ、読んでくるとはあまり期待はしていなかったが。
 ところが、驚いたことに、ちゃんとその文献を読んできたばかりでなく、質問をびっしり書き込んだノートを持参して来たのである。話していてすぐにわかったのは、優れた理解力を持っていること、質問の筋がいいこと、歴史的関心よりも哲学的関心が強いことであった。とても学部二年生とは思えない知的成熟度と同時に、素直な問いかけを恥じない謙虚さを持ち合わせている。こういう学生の指導は、豈愉しからずや。
 しかも、質問に答えているうちに、彼の関心がむしろ神秘主義思想にあり、マイスター・エックハルトに関する著作も読んでいることがわかった。こうなれば、私も思わず身を乗り出さずにはいられないではないか。禅仏教とドイツ神秘主義の比較研究について書誌的情報を提供しつつ、この種のアプローチに関する私の批判的な見解まで説き及ぶにいたった。
 小一時間話した。その学生は、「随分問題が明確になりました」と喜んで帰っていった。
 所属学部がどこであろうといいではないか。哲学部の学生が来ることもあるし、芸術学部の学生が来ることもある。いささかでも思想的関心が彼らにあれば、私は指導を引き受ける。












日本の近代化の特異性を際立たせる古代ギリシア文化との関係

2019-11-11 23:59:59 | 哲学

 Michael Lucken, Le Japon grec. Culture et possession, Gallimard, 2019 は、古代ギリシアと近代日本との文化全般に渡る独特な関係を精査することで、日本の近代化の特異な性格に新しい光を当てるという斬新な企図を見事に成功させた著作である。
 その序論を読めば、古代ギリシアに対して日本が世界的に類例のない関係性を持っていることがよくわかる。
 西欧列強によって植民地化された諸国では、西欧の文化的・文明的優位を顕示する手段として、西洋古典教育が強制された。その内容は、西欧文化・文明の「源泉」としての古代ギリシア・ローマの古典であった。それらの国では、だから、古代ギリシア・ローマの古典といえば、抑圧の経験とその記憶と分かちがたく結びついている。
 一方、ヨーロッパにも地中海世界にも属していない日本は、古代ギリシアの遺産の「正当な相続人」ではない。ところが、西欧列強によって植民地化されなかったために、「西洋古典研究」は、抑圧の経験とは無縁に、ある種の自律性を保っている。
 この日本の立場の特異性が、日本における「西洋化」の内実を新たに問い直すことを可能にするばかりでなく、文化の転移・同化過程に独自の角度から照明を当てることをも可能にする研究テーマを与えてくれる。