「進化」という言葉が、生物進化論の枠を超え、社会ダーウィニズムとも進化論的歴史観とも直接の関係なしに、個人における特定の能力の目覚ましい向上や進歩をも意味するようになり、メデイアでもかなり安易に使われるようになったのは、いつのころからだろうか。例えば、スポーツ選手がどんどん記録を更新したり、技術的に精度が上がったりしていることを話題にするとき、「進化」という言葉が使われているのをいつのころからか頻繁に見かけるようになった。その都度、私はそれに強い違和感を覚えたし、今も覚える。
「進化」するためには、与えられた「環境」に「適応」しなくてはならない。そして、適応できたものだけが生き残れる。このような進化論的強迫観念がますます深く社会に浸透しつつあるように思える。もはや安定的な「母なる大地」ではなくなった今日の自然環境や不安定性・流動性を加速させ格差を拡大させ続ける現代社会は、地球上のいたるところに共通の問題を引き起こしつつある一方、その地球上の住人である私たちに、不安定で複雑で不確かなその「環境」に対して遅れをとっている、なんとかそれに「適応」しなければ「生き残れない」、という不安、さらには恐れを抱かせている。
このような漠然とした感覚が人々の心にじわじわと浸透し、世界中に拡散しつつあるとすれば、その原因はどこにあるのだろうか。技術革新の速度の急速な増大や資本主義の独占的支配などだけにそれを帰することはできない。そのもう一つの原因は、一つの政治思想にあるとするのが Barbara Stiegler, « Il faut s’adapter ». Sur un nouvel impératif politique, Gallimard, « NRF essais », 2019 である。その政治思想とは、人類は適応しなければならない現在の環境に対して遅れを取っていると主張するネオリベラリズムのことである。
この名称が広く使われるようになったのは、1938年8月にパリで開催された国際シンポジウムをそのきっかけとする。このシンポジウムは、アメリカのジャーナリスト・政治評論家のウォルター・リップマンの著作をめぐって開催された。
そのリップマンの著作を丹念に分析し、その所説を、当時リップマンを激しく批判したジョン・デューイの哲学と対比し、リップマンの進化論的世界観とは異なった社会再生論を本書は提示しようとしている。
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