内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本学科の教師が他学科の学生の哲学論文の指導をして何か問題でも?―K先生の『老残風狂日録』(私家版)より

2019-11-28 10:08:58 | 哲学

 先日来何度か話題にしていることだが、今年度に入って、学生たちからの相談や質問が俄に「哲学づいて」いる。私個人としては、慶賀に堪えない。
 一昨日火曜日、先日小論文の相談に来た人文学科の学生がオフィス・アワーにまた相談に来た。私が示した参考文献表の中からいくつか読んで、マイスター・エックハルトと禅仏教とにおける「無」の比較研究をテーマとしたいと思うが、どうかと聞く。それはダメだといきなりは言えないし、村上紀夫が『歴史学で卒業論文を書くために』(創元社 2019年)で自身の経験として述べているような、「これなら本が書けるね」という皮肉で応じるのも、相手は学部二年生だからちょっと可哀想だ。そこで、以下のように答えた。
 それは非常に大きな問題で博士論文に値する。実際、私も過去にそれに近いテーマの博士論文の審査員をしたことがある。ただ、学部二年で書く小論文のテーマとしてはあまりにも大きすぎるし、難しすぎる。テーマも対象とするテキストもぐっと絞り込む必要がある。君の所属する学科ではヨーロッパ文化を中心に学ぶのだから、エックハルトを主にして、禅思想はあくまで参照にとどめるべきだろう。エックハルトについては、テキストは一つに絞りなさい。その際、ラテン語説教・注解とドイツ語説教・論述とでは、内容と方法において大きな違いがあるから気をつけること。禅思想における無との比較を試みるなら、ドイツ語説教か論述の中から選ぶことになるだろうが、まずは、自分でいくつか読んでみなさい。一方、禅仏教はそもそも一つの教説体系ではなから、これもよほど限定してかからないと、たちまち道を見失ってしまう。フランス語で読める論文として、上田閑照のドイツ語論文の仏訳があるから、それを手がかりとしなさい。前回も言ったように、ヨーロッパのエックハルト研究者たちは、禅との比較研究に関して、大きく二つに態度が分かれている。フランス語圏の研究者たちは、はっきりと否定的か批判的、少なくとも非常に慎重であるのに対して、ドイツ語圏の研究者の中には、積極的にその意義を認める人たちが一流の研究者たちの中にも何人かいる。それぞれの立場が出ている研究書が前回の参考文献表の中に挙げてあるから、それらを読んでそれぞれの立場の違いを見極め、その上で、君自身の立場を決めるといい。
 今回の面談では、言及しなかったが、テーマが絞り込めてきたら、次の段階として、エックハルトのフランス人スペシャリスト Julie Casteigt の解説文 « Question parisienne, 1, Sermons allemands 71 et 52 » (In Le Néant. Contribution à l’histoire du non-être dans la philosophie occidentale, J. Laurant et C. Romano (sous la direction de), PUF, collection « Épiméthée », 2006, p. 253-264) を読むように指示する。この解説文の中に、エックハルトにおける無の四つの意味が簡潔かつ明快に示されているからだ。それが「透過」できたら、井筒俊彦を読ませる。
 二十分ほどの論文指導の後、人文学科では三年生の前期に海外留学が義務づけられているから、日本の大学に行きたいが、どこがいいかとの相談も受けた。京大を勧めたが、二十ある日本の提携校の中でも京大は希望者が多いので、選考をパスするかどうかはわからない。まずはそれら提携校のサイトを見て、第二・第三候補を自分で探してみるようにアドヴァイスする。