内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

西谷啓治『宗教とは何か』における「囘互」の出典についての一注記 ― 道元『正法眼蔵』第十二「坐禅箴」より

2019-11-20 23:59:59 | 哲学

 金曜日のシンポジウムでは、西谷啓治の『宗教とは何か』における空の思想について話す(こちらがプログラム)。
 私の発表は、四部構成になっている。まず、仏教思想史の中に系譜学的にその思想を位置づけ、次に、西谷が「空」について、『宗教とは何か』の中でそれを「天空」と重ねて説明している箇所に絞って注解し、転じて、認知科学と現象学の観点から西谷の「空」の思想の現代性を示し、締めくくりとして、今後の研究の展望として、西洋近代文学における空(そら)の表象の分析から、東洋の「空」へと通じる「空の細道」を拓く可能性を示唆する。
 一応原稿を仕上げた後、第一部について、発表では話さないが、話に奥行きをもたせるつもりで、西谷が同書で使っている仏教的概念のいくつかの出典などを調べていた。ちょっとの散歩のつもりで始めたが、やはりそうはいかず、たちまち深遠なる仏教思想の森の中に迷い込みそうになり、恐ろしくない、慌てて引き返してきた。それでも、いくつか収穫はあった。
 例えば、西谷は、「囘互的相入」「囘互的関係」という言葉を使っているが(例えば、『西谷啓治著作集』第十巻、178-179頁)、この「囘互」は、道元の『正法眼蔵』第十二「坐禅箴」に出てくる。岩波文庫版では「ういご」と訓んでいる。

不対縁而照
 この「照」は照了の照にあらず 、霊照にあらず 、「不対縁 」を照とす。照の縁と化せざるあり 、縁これ照なるがゆゑに。不対といふは、遍界不曾蔵 なり、破界不出頭 なり。微なり、妙なり、囘互不囘互なり 。(岩波文庫『正法眼蔵(一)』二四六頁)

 この文脈で、「囘互不囘互」とは、照らすものと照らされるものとが相互に融通し合っているとも言えるし、そもそも両者の間に区別はない、というほどの意味になるかと思う。この両義的関係性は、認識するものと認識対象、あるいは、見えるものと見えないものとの関係にも拡張して適応できる。

 西谷は『宗教とは何か』の中で、道元に二十数箇所で言及している。「囘互」という語は、何も出典あるいは参照文献を示さずに使っているが、上掲の『正法眼蔵』の引用箇所を念頭に置いていたとしても不思議ではない。
 仏訳者は、その訳者注記で、この語がどの仏教辞典も載っていなかったと言っているが(Qu’est-ce que la religion ? Cerf, 2017, p. 13)、それは勉強不足というものだろう。ただ、文脈から判断して、「囘互的相入」を « interpénétration circulairement réciproque » と訳しているのには賛成する。