昨日の「近代日本の歴史と社会」の講義は、実に盛り沢山かつ栄養たっぷりな内容だった、と思う。ちょっと詰め込みすぎたかなと途中で思わなくもなかったが、前回の授業でもそうだったように、今回も学生たちの集中度がすごかった。こっちがそれに気おされるくらいだった(いったい何があったの?)。教室が静まり返り、スクリーンに映し出されたテキストについての私の解説に真剣に耳を傾けてくれたばかりでなく、彼らがそのテキストに強く印象づけられていることが張り詰めた空気を通じて伝わってきた。
講義は、いつものように、推薦図書の紹介から始まる。日本語の本の場合、その紹介は、日本語のテキストを読みながら問題そのものを考える練習としても機能する。昨日紹介したのは、この九月に刊行された村上紀夫著『歴史学で卒業論文を書くために』(創元社)であった。
その「はじめに」と「おわりに」の抜粋を読ませた。そこには、論文を書くということの意味について、非常に平易な言葉で大切なことが書かれている。私自身、共感するところや学ぶところが少なくない文章である。本書全体は、論文の構想から最終段階に至るまでの諸段階について、具体的で有益な助言をやさしい言葉で懇切丁寧に綴っている。修士一年で論文指導している学生には、ぜひ読むようにさっきメールで伝えたところだ。
授業で紹介した箇所全部はとてもここに再録できないので、「はじめに」と「おわりに」から、それぞれ一箇所だけ引用しよう。「はじめに」の中の「なんのために卒業論文を書くのか」という小見出しのつけられた一節にはこうある。
「知りたい」と思えた「こだわり」のテーマに対して、一定の距離をとりつつ、その歴史的な背景を学問的に掘り下げていく作業―。卒業論文を書くという行為は、自分自身と向き合うことだといえる。
「おわりに」からは、その最終部分を引こう。
卒業論文の執筆を通して、自分自身の関心と向き合い、先行研究や史料を読んで、考えて、手にした自分なりの結論は、きっとどこかで「生きることの意味」と結びついているはずである。卒業論文は、今すぐ役立つものではないかもしれない。しかし、いつの日か「ゆっくりと」あなたが「生きている意味」を教えてくれるだろう。
だから、精いっぱいの卒業論文を書きあげて、達成感とともに大学を旅立ってほしい。みなさんにとって卒業論文が「おわり」ではなく、「始まり」であってほしいと願うばかりである。
この引用箇所の直前に、安丸良夫の『現代日本思想論』(岩波現代文庫 2012年)からの引用があり、そこも授業で紹介した。その中の「歴史学的な知は、[…]私たちの生きることの意味についてゆっくりと媒介的に考えさせてくれる鏡たりうるもの」という含蓄ある美しい表現に深くうなずいていた学生たちは二人や三人ではなかった(君たち、ほんとうにどうしたの? 何か目覚めちゃったわけ?)。
この講義でも、安丸良夫の著作は、後期に取り上げるつもりでいたので、明日の記事では、村上書での引用部分の前も含めてもう少しまとめて引用し、その箇所についての私見を記しておきたい。