内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

近くの現象学(八)― 哲学の方法としての「異郷投企」(dépaysement)

2015-03-11 00:00:00 | 哲学

 今日の記事のタイトルご覧になって、「「異郷投企」? 聞きなれない言葉だなぁ」と思われたことと想像いたします。
 それもそのはず、これは私の造語です(管見のおよぶかぎり)。フランス の « dépaysement » という語の訳語として、他に適当な日本語が見つからずに、苦し紛れに捻り出しました。
 今日は、なぜ私が、どの仏和辞典にも載っている « dépayseme t » というごく普通の言葉に、辞書にある訳語をそのまま用いるかわりに、このなんとも奇妙な造語に訴えてまで訳そうとしているのか、そのわけをお話しいたします。
 仏和辞典を引くと、例えば、『ロワイヤル仏和中辞典』(旺文社)には、「(異なった環境・習慣の中に身を置いた者の)居心地の悪さ、違和感、とまどい」という説明的な訳がこの語に与えられています。一般の現用の意味の説明としては、もちろん適切です。
 他方では、この同じ語に定冠詞が付くと、「環境[習慣]の新鮮な変化、気分転換」(『小学館ロベール仏和大辞典』)とうい積極的な意味が出てきます。旅行会社などがこの語をキャッチコピーに使うときなどは、まさにこの意味です。つまり、「異国などで、それまでの普段の生活とは違った、新鮮な気分を味わうこと」です。
 この一見して対極的な意味は、いずれも、この語の元になっている動詞 « dépayser » の「自国を去り、異国に行く」という語源的な意味から来ています。第一の意味は、この動詞によって示されたアクションの結果として発生するネガティヴな心理状態のことであり、第二の意味は、同じアクションによって得られるポジティヴな心理的効果ということです。
 そこから、より広く、比喩的な用法も含めて、特に心理的要素を伴いながら、「(普段の慣れ親しんだ環境から離れ、あるいは引き離され)、普段の自分のようには行動できない状態」を意味しているのが « dépaysement » であり、そのような状態にあることを形容するのに、« dépayser » という動 の過去分詞 « dépaysé (e) » が使われます。« Tu ne t’es pas senti trop dépaysé en arrivant dans ta nouvelle école ? » (「新しい学校に来たとき、知り合いもいなくて大丈夫だった?」)という用例が、『白水社ラ・ルース仏和辞典』に載っています(序ですが、この辞書は、収録語数は約八〇〇〇語と少ないですが、その語法説明の中には、大辞典にも載っていないような、実に勘所をよく押さえた、「そうかっ!」と思わず膝を叩きたくなるような記述が随所にあって、発信用辞典としてきわめて優れています)。
 この動詞には、 « se dépayser » という再帰的代名動詞としての用法もあり、『小学館ロベール仏和大辞典』には、「日常性から脱する、気分転換する」という意味が示されています。つまり、「自ら日常の環境を飛び出 ていく」のが、 « se dépayser » です。Le Grand Robert に挙げてある用例 « Il se dépayse en voyageant »(「旅行をして日常性から脱する、気分転換する」)からもわかるように、旅行、特に外国旅行は、確かに、その積極的な意味での « dépaysement » が味わえるよい機会ですね。
 慣れ親しんだ自国から離れることは、一方では、このように私たちを「日常性から解放」してくれることでしょう。しかし、他方では、自国のように、あるいは、普段の生活のように、事がうまく運ばないときには、「居心地の悪さ」を私たちに感じさせることになります。
 だから、« dépaysement » には、非日常性と既得習慣の適応不可能性がもたらす結果として、解放性と不安定性という両義性があるのです。
 この « dépaysement » を、学問的技術の一つとして、自覚的に方法化したのが、レヴィ・ストロースです(因みに、この偉大なる人類学者は、メルロ=ポンティと同じ年の生まれで、その最も親しい友達の一人でした)。『構造人類学2』(Anthropologie structurale deux, Plon, 1973)に収録されている「三つの人間主義(Les trois humanismes)」と題された、あるアンケートに対する回答書の中で、レヴィ・ストロースは、« la technique du dépaysement » (p. 320) という表現を使っています。これをどう日本語に訳すのか困ったのが、この記事のタイトルに掲げた造語のきっかけでした。
 レヴィ・ストロースは、そのテキストの中で、普段自分たちが慣れ親しんだ環境から身を引き離し、「異郷」に身を置いてみることによって、自分のところでは自明とされていたことの相対性を明るみにもたらし、そのことを通じて己自身をよりよく理解するすという、民族学・人類学の「技術」の名称として、この表現を提案しています。
 私は、この技術を方法的態度としてより一般化し、「世界を見ることを学び直す」ための方法として構想しています。そして、まったく拙い仕方ではありますが、こうしてフランスに暮らすことによって、日々その方法を実践しているつもりでもいます(ただ、そうはいっても、そのためだけに、「居心地の悪い」フランスに嫌々苦行のように暮らしているわけではありませんよ)。
 しかし、「異郷」というのは、必ずしも外国とはかぎりません。自分にとって馴染みのない場所にあえて身を置くことを「異郷投企」と呼ぶとすれば、自国内でもそれは可能でしょう。レヴィ・ストロースがこの技術のもたらす効用を説明するために、具体的実践例としてまず挙げているのも、ギリシア語やラテン語の学習です。これなら、自宅にいながらにして、「異郷」に身を置くことも不可能ではありませんね。
 そして、さらに方法としての「異郷投企」を徹底化させれば、それは、普段自分が暮らしている場所に「いつものように」日々生きつつ、その場所から我が身を引き離し、日常空間を「異郷」として二重化し、日常を相対化する技術ということになります。そのようにしてはじめて、世界の「ことなり」の生成の現場に、日常の只中で、いつでも、新鮮な驚きと生き生きとした関心とともに、立ち合い、参加し、その「ことなり」を分有することができるようになります。
 このような日常世界における自覚的「異郷投企」のほうが、外国に暮らせば外的要因によってこちらの意志とは無関係に自ずと発生しうる「居心地の悪さ」より、遥かに困難な哲学的実践であることは言うまでもありません。にもかかわらず、この自覚的「異郷投企」こそが、「ほんとうの哲学」の現場を、私たちの日常生活の中に開設する実践的基礎技術なのだ、と私は考えています。

 今日でひとまず「近くの現象学」の連載を終えます。でも、これは終わりのないテーマなので、また、しばらくしたら、戻ってきますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


近くの現象学(七)― 「眼」を鍛え直す

2015-03-10 00:00:00 | 哲学

 どんな武道の達人でも、目だけは鍛えることができないと言われることがあります。これは、しかし、視覚器官としての目は、筋肉のように鍛えて強くすることはできないという意味で、眼の動かし方や相手の見方や周囲へ目配りの仕方が鍛えられないということではありません。むしろ、この後者の意味での「眼」を鍛えなければ、いかなる武道においても、大した上達は望めないことでしょう。
 これは何も武道にかぎったことではありません。一般に、スポーツにおいても、「眼のよさ」は、とても大切です。野球の「選球眼」などその典型ですね。F1レーサーの動体視力のよさは、常人の想像を超えるものがあります。体操選手のバランス感覚も、演技中どこを見ているかということと密接に関係があります。
 もっと初歩的で、基礎的なこととして、誰にでも当てはまることは、目線と見る対象をどこに置くかで体のバランスの取りやすさが違ってくるということです。足元を見ながらと少し離れたところにある柱を見ながらとでは、後者の方が、遥かにバランスが取りやすいことは、皆体で知っていることでしょう。
 学問においても、「眼」は大切だと思います。ただ闇雲に勉強すればいいというものではありません。もちろんそういう藻掻くような時期があって、その中でこそ、徐々に「眼」が鍛えられていくということはあるでしょう(ただし、しばしば視力の低下という代償を伴って)。ただ、この場合の「眼」は、真偽を見分ける能力や善し悪しを判断する能力の暗喩として使われてしまっていることが多いかもしれません。
 哲学の場合は、端的に「見ること」そのことがとても大切になってきます。ある意味で、「考える」こと以上に大切です。なぜなら、私たちは、しばしば見ないで考えているか、見るかわりに考えているか、あるいは、或る考えに従って見てしまっていて、端的に「見る」ということができなくなっているからです。しかも、そのことになかなか気づけないほどに、ある考えに囚われてしまっていることが少なくありません。「考えずに、見る」ということは、頭でっかちの「知識人」や「研究者」のようなものになってしまうと、易しいことではなくなってしまいがちなのです(ここを読まれて、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の中の「考えるな、見よ」(第六十六節)という有名な一文を想起された方もいらっしゃるかもしれませんね)。
 「役に立つ」情報がいたるところに氾濫している現代に生きる私たちには、端的に「見る」ことがますます難しくなってきているように私は感じます。ある事柄がそこに立ち現れてくるのを待っていられない、それを「見て」いるだけの辛抱がきかなくなっているのです。私たちは、その「ことなり」(序ですが、先週書き上げた心身景一如論文の仏語版では、「こと(=事・異・言)なり」の仏訳を « phénoménalisation » としました)を待たずに、「答え」を出してしまったり、「結果」を求めたり、「解釈」を当てはめたりしてしまっていないでしょうか。
 端的に「見る」ということは、この「ことなり」を「待つ」ことにほかなりません。現代の私たちは、その意味での「見る」時間が極端に少なくなっていて、「見る」ことを忘れかけているのではないかと疑われるほどです。
 ここで、ちょっと横道に(またかよぉ、とおっしゃられませんように)。「見る」と来れば、万葉集の「見ゆ」の世界、そして「見れど飽かぬ」という表現がここでどうしても懐かしく想い出されます。
 さらに横道にそれますと(おいおい、大丈夫かい?)、これは今後発展させたいテーマの一つなのですが、ちょっと本居宣長っぽく、「現象学」を「ことなりのみちのまねび」と読み、日本語の特性を駆使した「やまとことばの現象学」なんてできないかなあと夢見ています(「夢見る自由」あるいは「夢見る権利」なんて、どこの国の憲法にも、明文化された形では保証されていませんが、これを禁じている国もないですし、そもそも禁じようがありませんでしょ)。
 もうひとつおまけに横道にそれますと(「そんな、おまけ、いらん」って?)、バシュラールは、「想像力は、つねに夢見ることと理解することとを同時に欲する、よりよく理解するために夢見ることを、よりよく夢見るために理解することを欲する」(« L’imagination veut toujours à la fois rêver et comprendre, rêver pour mieux comprendre, comprendre pour mieux rêver », La Terre et les rêveries du repos, 2e édition, Librairie José Corti, 2010, p. 324.邦訳『大地と休息の夢想』饗庭孝男訳、思潮社、1970)と言っています。
 「見る? そんなことして何になる? それこそ時間の無駄じゃないか」と、お忙しい方々からお叱りを受けるかもしれません。「だから、哲学なんて何の役にも立たないんだよ!」と非難する方もいらっしゃるかもしれません。確かに、「忙しい人に役に立つ哲学」などというものは、金輪際ありえないでしょう。
 「ほんとうの哲学」としての「世界を見ることを学び直す」とは、私たちがほとんど忘却しかけている、この端的に「見る」ことを思い出し、それを繰り返し練習し、やり直すことだ、と私は考えています。それは、私たち自身が実践する「見る」ことにおいて、世界にその立ち現れるがままの姿を、世界それ自身のうちに(再び)到来させることだ、と言ってもいいかもしれません。少なくとも、私にとっては、そのための日々の実践が「近くの現象学」にほかなりません。そして、それが、いつの日か、「言霊の幸はふ世界共和国における、ことなりのみちのまねび」になることを夢想しています。


近くの現象学(六)― 研究方法の四つのタイプ、そして「静けさ」を作り出す方法

2015-03-09 00:00:00 | 哲学

 今日は、私が日ごろ考えている「研究方法の四つのタイプ」についてお話しましょう。
 フランスの大学では、学部の卒業論文はなく、修士の二年目に書くいわゆる修士論文が学生たちにとって最初の論文になります。修士で学業を終えて就職する学生もいれば、博士まで進む学生もいますが、後者はもちろんフランスでも少数にとどまります。
 修士に進学した時点ですでに研究者になろうという明確な意志 ― あるいは、なりたいという強い願望 ― を持っている学生も中にはいますが、他方では、先のことはまだわからないけれど、とにかくもう少し学業を続けたいから修士に来た、というような場合も少なからずあります。この後者の場合、修士のレベルについていけない、あるいは、興味のあるテーマが見つからないなどの理由で、一年でやめてしまう学生も少なくありません。そういう場合、教師としては、「まあ仕方がないか」と呟くだけですが、「この学生はなかなか筋がいいなあ」とこっちが密かに期待していたのに、突然やめられたりすると、「おしいよなぁ」と、やっぱりちょっとがっかりしてしまいますね。
 いずれにせよ、フランスの大学は、ここ十年でいろいろと変わってきているとはいえ、伝統的に、進級は「自然淘汰」に任せていますので、すでに学部段階でも学年が上がるにつれて、学生数は半減していくのが「一般法則」で、修士課程も概ねその「法則」にしたがっています。この「自然淘汰の法則」に関しては、十年前と今と、どこの大学でも、そんなに大きな変化はありません。
 でも、今日はこんな話がしたいのではありませんでした(私の第二の得意技「横道に逸れる」がいきなり出てしまいました)。
 さてさて、「研究方法の四つのタイプ」というテーマに入りましょう。
 自分にとって最初の論文である修士論文のためのテーマを探し始めた修士一年の学生が、その件で相談に来ると、私は原則次のようにまず助言します。研究対象と自分との関係が、次の四つのタイプのうち、どれにあてはまるかよく考えてから、テーマを決めなさい、と。
 その四つのタイプとは、細かい規定を省いて簡略化して言うと、それぞれ次のようになります。(1)対象の位置も、自分の観点も、固定されている、(2)対象は動いている、あるいは対象そのものは変化しつつあるが、自分の観点は固定されている、(3)対象の位置は固定されている、あるいは対象に変化はないが、自分の対象に対する観点は動いている、(4)対象の位置も、自分の観点も、動きつつある。
 これら四つのタイプそれぞれにおける対象と自分との関係を、イメージを使って具体的に想像してみましょう。(1)は、椅子に腰掛けて、一枚の絵画を鑑賞している、(2)は、射撃ゲームなどのように、動いている標的を固定された位置から狙う、(3)は、流鏑馬のように、こっちが動きながら、固定された的を射る、(4)は、原野を駆け巡りながら、動く獲物を追いかける。
 これら四つのイメージを手がかりにすれば、対象と自分との関係という点において、そしてそれに基づいての方法の確定と実行という点において、どのタイプの研究が一番難しいか、すぐにわかるでしょう。一般的に言って、やはり上記の数字順に難易度は高まるのです。
 タイプ1以外で成功を収めるためには、どのタイプでも、「動体視力」に優れていることが必須条件になります。その中でも、タイプ4の難しさは際立っています。ちょっとふざけたたとえですが(それにご本人には大変無礼なたとえですが、お許し願うとして)、いかに動体視力が飛び抜けて優れているといわれるイチローでさえ、たとえその全盛期であったとしても、バッターボックスで前後左右にフラダンスのようにステップを踏みながら打て、と言われたら、打率一割もいかないでしょう(でも、彼のそんなありえない姿を想像すると、ちょっと可笑しいでしょ)。
 ここまで説明した上で、さて、君のやろうとしていることは、この四つのタイプのうちのどれにあてはまるかな、と相談に来た学生に聞くのです。大抵の場合、聞かれてはじめて、さて自分はどれにあてはまるだろうと、彼らも考え始めるわけです。
 現代に関心があるという学生たちほど、本人それと知らずに、つまり、研究のタイプとしては方法的にそれが一番難しいと知らずに、タイプ4を選びがちです。しかも、テーマが自分にとって「身近な」現代のことだから関心も持ちやすいし、取っ付き易いという理由で、そうしてしまいがちなのです。
 彼らはこれから研究の手習いを始めるのですから、まだ研究方法については何も知らないに等しく、そのような選択をしがちなのも無理からぬことです。そもそも方法意識なるものもまだ希薄ですから、変化しつつある自分の関心というものにも、まだ充分に自覚的ではありません。言ってみれば、まだその技術の修練も、それにともなって要求される知識の習得もできていないのに、いきなり広大な原野ですばしっこい獲物を「素手で」追いかけようとしている自分の姿に気がついていないのです。
 逆説的に聞こえるかもしれませんが、現代のことをやろうとすればするほど、果てしなく広がるアフリカのサバンナに、その風土に慣れてもおらず、環境に適した暮らし方も知らず、気候に相応しくない服装で、しかも何の道具も持たずに(ただスマホだけは手に握りしめて、でもその使用可能圏外で)、彷徨うようなことになりがちなのです。
 そのように、目に見えないサバンナで、しかも目隠しをされたまま彷徨しようとしている「哀れな」学生(別のもっと極端なイメージを使って言えば、猛獣が徘徊するジャングルの中に独りで彷徨いこもうとしているヨチヨチ歩きの無邪気な「幼児」)に対して、私は、きっぱりと「タイプ4はやめなさい」と、これはもう助言などという穏やかな調子ではなく、禁止命令に近い調子で「下達」します。タイプ3も難しい。タイプ2だって容易じゃない。要するに、タイプ1から始めなさい、ということなのです。
 では、具体的には、その動かぬ対象とはどんな対象でしょうか。もちろん、その答えは研究分野によって異なるでしょうから、不当な一般化は厳に慎まなくてはなりませんし、我田引水的なご都合主義にも陥らないように十分注意しなくてはなりませんが、それらのことを踏まえたうえで、私自身が関係する分野にかぎって、答えを申し上げれば、それは、「古典中の古典」ということになります。
 「なあーんだ、そんなジョーシキ的なことか」と、がっかりする学生も、残念ながら、少なくありません。しかし、それでもなお、私は、次のように切に願ってやまないのです。
 今日のように騒がしく片時も落ち着かない世の中、人心が荒廃し、いつまでたっても人間同士が殺し合いをやめず、地球環境が危機的な状況にある時代だからこそ、独り小さな自室の中に端座し、一冊の古典とじっくりと向き合う、そういう「静けさ」を自分の生活の中に自覚的に作り出す方法を身に付ける必要がある。縁あって、私とともに勉強しようとしてくれている君たちには、是非この「静けさ」を作り出す方法を学んでほしい。古典という巨木たちは、その鬱蒼とした森の中で、君たちにそのようにして読まれることをいつも静かに待っているのだよ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


近くの現象学(五)― 「遅れる勇気」

2015-03-08 00:00:00 | 哲学

 昨日話題にした「現代思想」という講義の、やはり初回のことでしたが、「哲学を学び始めるにあたって、どんな心構えが必要だと思いますか」と学生たちに問いかけてみました。
 こんな問いを藪から棒に出されて、学生たちも困惑したことでしょう。私があえてそのような問いかけを彼らにしたのは、一つの正解があって、それを誰かが言ってくれるのを期待してのことではありませんでした。このあまりにも漠然とした問いの答えを、彼らなりにその場で考えたとは思います。例えば、「徹底して一つの問題を考え抜く意志」とか「難解なテキストを原書で読む努力」とか「ある事柄を隈なく探求する注意深さ」とかのことかな、と思ったかもしれません。それはそれで上記の問いの答えとして間違いではないと私も思います。でも、私が彼らに示した答えは、それらとはまったく異なったものでした。
 その答えとは、「遅れる勇気」でした。その講義で、こう私が宣わると、学生たちは、「?」「へっ?」「意味不明」という顔をしていました。当然のことです。「授業に遅刻する勇気? まさか。じゃあ、遅刻しても教室に入っいく勇気? でもそんなの哲学と関係ないし」などと、無い知恵を絞って(失礼)、考えてくれた学生もいたかもしれません。
 「遅れる勇気」という、このちょっと奇妙な表現によって私が言いたかったのは、以下の様なことでした。

 皆さん(昨日の記事で申し上げましたように、この講義は学部二年生対象でしたから、出席している学生たちのほとんどは二十歳前後)は、友だちと一緒に過ごす時間を大切にしたいと思う年頃でしょうし、周りの人たちのこともいろいろと気になることでしょう。それに、ちょっと意地悪な言い方をすると、皆さんは日本人ですから、あまり他人と異なったことをして目立つのを避けたいと思う気持ちもかなり強いだろうなとも想像します。ましてや、就活ともなれば、人に遅れまいとするでしょうし、なかなか内定が出なければ焦ることでしょうし、その期間が長引けば、独り取り残されたような、追い詰められたような気持ちになっても、少しも不思議ではありません。
 しかし、いつもみんなと同じ速度で同じ方向を向いて歩いているかぎり、そのことを最優先するかぎり、哲学は始まらないのです。哲学は、普段の自分の歩行速度よりゆっくり歩くか、あるいは一旦立ち止まらないかぎり、始まらないのです。それも、たった一人でもそうする覚悟がないかぎり、哲学を始めることはできないのです。みんなで一緒にワイワイガヤガヤ哲学するわけにはいかないのです。
 何かのきっかけで、例えば、「ちょっと待って、これって何かおかしいんじゃないかな」と思って、他のみんなはどんどん先へ歩いて行ってしまうのに、立ち止まって考え始めたことはありませんか。そんなとき、友だちの一人が、「ねぇ、どうしたの? 遅れちゃうよ。一緒に行こうよ」と、振り向いて優しい声を掛けてくれるかもしれません。それでもなお、その場にとどまり続け、独り考え続けるとします。みんなとの差はどんどん広がってしまいますね。遅れを取り返せるかどうか、心配にもなってくるでしょう。それでも自分が大事だと思う問題を考え続けることができますか。
 これができるということ、それが、私が言うところの「遅れる勇気」です。
 人が言うところの「遅れ」は遅れとして自覚し、その「遅れ」によって引き起こされる社会的に見て困難な結果の責任を自ら引き受ける覚悟を決め、その上で、その「遅れ」を遅れとするルールが支配する世界を「括弧に入れ」、事柄そのものを見ることに集中する時間の確保を最優先する。このような「遅れる勇気」が、哲学を学び始めるためには、どうしても必要なのです。

 こんなことを言ったからといって、学生たちに「留年の勧め」をしようなどという、無責任なことを考えていたのでは、もちろん、ありません。哲学科の学生たちも、他学科・他学部の学生たちと同じように、そのほとんどは、研究者になどならず、修士課程にも進まず、普通に就職していくのです。だから呑気に留年などしていられないことは、私だってわかっています。ただ、彼らのそれからの長い人生の中でほんとうに役に立つであろう哲学の始まりは、颯爽と論じてみせる「知性」の中にではなく、無様にも独り遅れる「勇気」の中にこそある、ということを、まずわかってほしかったのです。












近くの現象学(四)― 知識としての「哲学」から実践としての〈哲学〉の道具を引き出す

2015-03-07 00:00:00 | 哲学

 何事を学ぶにせよ、方法は必要ですね。
 「世界を見ることを学び直す」にも、だから、やはり方法が必要でしょう。その方法には、いろいろありうると思います。いわゆる哲学だけの専売特許でもありません。しかし、いずれの方法を選択するにせよ、その選択以前の、あるいは選択にあたっての心構えというようなものがあるのではないかと私は思っています。そのことを説明するために、今日は、一つの思い出話をいたしましょう。
 もう十年前のことになりますが、東京のある大学の哲学科で、学部二年の「現代思想」という科目名の講義を後期だけ担当させていただいたことがありました。日本の学部での講義というのは、後にも先にもこれっきりで、私にとって大変貴重な経験でしたし、今でもとてもいい思い出です。五十名ほどの学生さんたちが出席していましたが、皆さん大変熱心に聴いてくださいました。毎回講義の終わりにB5の紙片にその日の講義内容についての感想・質問を書いてもらい、翌週の講義は、それらに対して応答することから始めるようにして、できるだけインターラクティブな授業になるように心掛けました。講義の期間中に、メールで感想や質問を寄せてくれた学生さんたちも少なからずいました。
 「現代思想」とかいうと、現代の欧米の著名な哲学者たちの紹介みたいな内容の講義になることが多いのかもしれませんが、そんな内容だったら、巷に出回っている手際の良い解説本を何冊か読めば足りることなので、そのときの講義は、「現代において哲学するとはどういうことなのか」というメインテーマの下、哲学の基本問題十題を掲げ、まだ日本語に訳されていない、当該分野の研究者でもなければ名前も知らないようなフランスの現役の哲学者たちの著作の中から一冊ずつ紹介しながら、毎回一話完結ならぬ一題完結で問題を検討するという形にしました。
 受講生は学部二年生ですから、まだ本格的な哲学書を読んでいない学生さんがほとんどでしたし、これから何をどうやって勉強していっていいのかまだよくわかっていない段階にあるのが普通でした。そこで初回は、哲学を勉強するにあたっての気持ちの準備というか、心構えというか、そんなことについて、自分の経験に即して、話そうと思いました。というのも、いわゆる哲学書を読むことや、哲学史についての知識を身に付けることが哲学の始まりなのではない、ということをわかってほしかったからなのです。
 その講義で、私が学生たちにまずわかってほしかったことは、将来なんらかの哲学の研究者になりたい人たちにとって必要ないわば予備的職業訓練と、それ以外のどんな職業につき、どこでどのような生活をするにしても、その生活の場で実践できる哲学及びそのために有効な学び方とは、互いに異なっており、両者をしっかりと区別しなければいけないということでした。
 そして、いかにそれが逆説的に響こうとも、そのとき私が強調したことは、大学の哲学教師は、後者の意味での哲学を教えるにあたって、その適性を欠いているか、あるいは、それが可能な環境に置かれていないことが、残念ながら、珍しくない、ということでした。彼らは、職業的哲学研究者になるための訓練は受け、しかもその点において優秀であったからこそ、大学で哲学を教えるポストを得たわけですが、そのことは、しかしながら、彼らが哲学を実践しているということを、直ちに意味しないどころか、ほとんどの場合、少しも意味しないからです。科目としての「哲学」を、他の学科・学部でと同じように、しかも最近では「社会で役に立つ」とされることにかぎって(少なくとも建前上)、教えているだけであり、しかも個人単位で成績をつけるという前提のもとにそれを行っているにすぎないのです。
 このように、自分のことを棚に上げて(過去の記事をお読みの方はすでにご承知のように、私の第一の得意技です)、自己矛盾的とも取れる物言いをそのときしたのは、そのような職業的哲学研究者の方々を非難することを目的としてのことではもちろんなく、彼らが大学という制度の中に置かれていることからほとん不可避的に発生してしまう、こうしたパラドクシカルな状況に学生たちの注意を促し、では、そんな状況の中で、哲学科の学生として、何をどう学んだらよいのか、という問題を、学生たちと一緒に考えるためでした。
 その日は、結論として、次のように述べて講義を締め括りました。
 「哲学」の授業でほんとうに学ぶべきこと・身に付けるべきことは、知識としての哲学を記憶することではなく、ましてや、教師たちのように哲学を語れるようになることではなく、彼らの教科内容から、哲学するために必要なものを自ら引き出すこと、言い換えれば、知識としての「哲学」から、実践としての〈哲学〉に必要とされる心構え・姿勢・態度・物の見方そして道具を自ら掴み取ることなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


近くの現象学(三)― 哲学は、一つの身体のレッスンである

2015-03-06 00:00:00 | 哲学

 昨日のブログの記事の中で引用したように、メルロ=ポンティは、『知覚の現象学』(1945)の序文で、「ほんとうの哲学とは、世界を見ることを学び直すことだ」(« La vraie philosophie est de rapprendre à voir le monde » )と言っています。
 でも、「世界を見ることを学び直す」といっても、いったいどうしたらいいのでしょうか。ただぼんやりと街行く人たちをカフェのテラスに腰掛けて眺めていても、見えて来るものが自ずと変わるわけではありませんし、あれこれの本を読だり学校で勉強したりして知識を増やしても、芸術鑑賞して感性の涵養に努めても、美しいものにより敏感になったり、ある事柄についてちょっと気の利いた観察や穿った見方くらいはできるようになるかもしれませんが、世界の見え方がすっかり変わるというところまでは、なかなかいかないでしょう。
 何かを学ぼうとしているのですから、何かもっと積極的な姿勢や明確な動機が必要なような気がします。しかし、こうすれば誰でも世界の見方が変わるというようなお手軽な手段というのもなさそうです。その手のことを謳っている本やサイトや教室など、まず間違いなくまやかしでしょうから、むしろ警戒したほうがよさそうです。
 それに、もっと気をつけなくてはいけないと思うことは、そもそも何かを学ぼうという積極性とか目的性というのは、それがまた一つの「罠」になってしまいかねないということです。なぜなら、そのような積極性や目的性をもって何かを実行すると、それは、それまで自分が持っていたある見方に、何か別の見方を置き換えるということに終わってしまいかねないからです。ところが、ここで試みようとしているのは、そのような「見方を変える」ということではなく、「見ること」そのこと学び直すことなのです。
 「見ること」そのことを学び直すということは、知識の習得や知的な訓練よりも、普段の歩き方、あるいは呼吸の仕方を学び直すことにもっと近いことだと思います。日本人は、歩く姿勢が悪いと欧米人から揶揄されることがよくありますが、最近では「歩き方教室」というのが日本のあちこちにあるようで、自分の歩き方を先生について矯正する人も増えてきたようです。呼吸については、古来さまざまな呼吸法が伝えられてきており、ヨガや座禅など、その代表的なものでしょう。それら以外も含めて、何らかの呼吸法を実践されている方は少なくないでしょう。哲学的実践としての「見ることを学び直す」ことも、そのような身体的修練の一つ ― もちろんそれに尽きるものではありませんが ― であると私は考えています。実践としての哲学は、この意味で、一つの身体のレッスンだ、と言ってもいいかもしれません。
 しかし、ここで考えたいのは、そういったある特定の訓練や方法習得段階に入る以前の、もっと基礎的で初元的な、心構えといいましょうか、身構えといいましょうか、そのようないわば「見ることの始まり」に立ち返るにはどうしたらいいのだろうか、ということです。
 なぜかというと、ここでの問題は、見ることを初めて「学ぶ」ことではなくて、「学び直す」ことだからです。私たちは生後数週間もすれば、視覚器官に不自由がないかぎり、すでに自ずと見ることを学び始めてしまっています。だから、哲学的実践として見ることを学び直す前に、見ることをすでにすっかり身に付けてしまっているとさえ言うことができるでしょう。それだけに、「見ることを学び直す」ことは、歩き方を学び直すこと以上に難しく、少なくとも、呼吸の仕方を学び直すのと同じくらい難しいと言えると思います。
 明日また、姿勢と呼吸を調えて、もう一度最初から問題を考え直してみましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


近くの現象学(二)― 自分の「眼」で、世界を見ることを学び直す

2015-03-05 00:22:00 | 哲学

 西洋哲学史を、特に現代哲学史を大学の講義かなんかで受けたことがあるか、その手の参考書をお読みになったことがある方なら、『知覚の現象学』という書名に聞き覚えがあることだろうと思います。著者は、フランス人哲学者モーリス・メルロ=ポンティ(1908-1961)。私は、日本での学部の卒業論文も修士論文も、フランスでの博士課程の最初の一年に書かなければならなかったDEAという論文(今では制度が変わって廃止された)も、博士論文の一章も、このメルロ=ポンティを研究対象としていました。もうかれこれ四半世紀を超える長い付き合いです(ご本人は存じ上げませんが)。
 博論後は、ごしばらく無沙汰していましたが、昨年このブログで、三月初めから七月末まで、延々と四ヶ月間、その仏語の博士論文の日本語版を記事として掲載していたとき、四月十五日から五月二十六日までの四十二回に渡って、西田とメルロ=ポンティとを対象としていた第四章を掲載しまして、そのときは、久しぶりに「旧師」に再会したかのごとき懐かしさを覚えたものです。
 『知覚の現象学』は、そのメルロ=ポンティの主著であり、この書名を捩ったのが昨日からのこのブログの記事のタイトル「近くの現象学」というわけです。フランスが誇るこの現象学者に対してなんか失礼なような気もしますが、悪意のない言葉遊びですし、記事はそれなりに真剣に書いていくつもりなので、ご本人様並びに関係者各位(って、誰?)にあられては、寛容な心でもってお許しいただきたいと願っております。
 一九四五年に刊行された『知覚の現象学』の序文は、戦後フランスの新しい現象学の登場を高揚した調子で宣言している、いわばフランス現象学のマニフェストのような記念碑的文章で、実際大変有名でもあり、今でもその一部が引用されているのをあれこれの書物の中で見かけます。
その中でも特によく引用されるのが、「ほんとうの哲学とは、世界を見ることを学び直すことだ」(« La vraie philosophie est de rapprendre à voir le monde » )という一文です。そして、メルロ=ポンティの考えにしたがえば、そのための努力は、いわゆる哲学者たちの専売特許ではなく、作家や画家たちも彼らなりの仕方でそれを試みているのであり、それらのあいだに、方法にはそれぞれ違いがあっても、努力として優劣の差はありません。
 私がこのブログの記事で試みてみたいことも、現象学のわかりやすい解説や刺激的な解釈や独創的な応用ではなく(その類の本は、超優秀で才能豊かな現象学者たちによってもう数えきれないほど書かれていることでしょう)、たとえ拙い仕方であったとしても、そして自分の非力を自覚しつつも、自分の「眼」で、「世界を見ることを学び直す」ことです。
 ですから、「現象学」とは銘打っているけれども、いわゆる哲学の中の専門領域としての現象学を指しているのではなく、私の暮らしの中の哲学的実践を名づけて「近くの現象学」と呼ぼうとしているのだとご理解いただければ幸いです。
 それでは、ごきげんよう、明日またお目にかかりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


近くの現象学(一) ― のんびりと、でも本気で、テツガクしていこう

2015-03-04 00:00:00 | 哲学

 昨日の記事は、金覆輪の概念打ったる鎧兜に身を固め、いざ難問が原に駒進め、敵の弓矢をかいくぐり、四角四面の厳つい文字をちぎっては投げ、またちぎっては投げ、大奮闘の独り相撲、書いている本人も書き終えた時には、ぐったり疲れ、肩もすっかり凝り固まり、どうと駒より転げ落つ、あ痛たたた、といった体たらくだったので、今日からは、趣向をガラッと変えることにします。
 短い冬休みも終わっちゃったことだし、もっとお気楽な感じで、大学の仕事の合間に、コーヒーでも飲みながら、あるいは夕食後に安ワインを傾けながら、テツガク的問題をのんびりと、でも本気で、考えていきたいと思います。
 それで、今日の記事のタイトルの「近くの現象学」のことですが、この「近く」は「知覚」とすべきところの変換ミスなのではないか、と疑念を持たれた、哲学に造詣の深い慧眼なる読者の方もいらっしゃったかもしれませんが、けっしてそうではないのであります。確かに、もともとは「知覚」と打ちたかったところ、最初の変換候補が「近く」で、つい訂正するのを忘れたなんてことも、論文を書いているときにはあったのですが、まさにそれがきっかけで、「近くの現象学? ふざけるな! 少しは学習しろ!」などとPCに悪口雑言を浴びせた後、「いや、でも、待てよ、これって、案外テーマとしてイケてるかも」とつい数日前から思い始めたというわけなのです。
 どいうことか、説明しましょう。この「近く」には、ごく普通に、「近所の」という意味がまずあります。「近くのパン屋」みたいな。だから、そこから、「身近な」とか、「普段の生活の中でよく出会う、利用する」という意味合いも出てきます。しかし、「近く」は、けっして我が家ではありません。「近く」にはあるが、そこに住んでいるわけではないのです。「となり」でもないのです。もうちょっと漠然としていて、範囲も広い。
 つまり、「近くの現象学」とは、生活の身近な問題を観察・記述するところからはじめて、その問題について、ちょうど近所のご隠居にお頼み申すように、現象学からお知恵を拝借しながら、でもあまりそこにばかり長居はせずに、近所の森や川沿いでも散歩しながら、ぼちぼち自分の頭で考えていこうという趣向なのです。
 ただ、せっかく現象学がお盛んなおフランスに住んでいるので、何人か贔屓にしている「フランス現象学連合」(そんな学界は存在しませんが、仮にそう呼んでおきます)の腕利きの旦那衆や切れ者の姐御たちのお力もときには拝借するつもりではあります。
 こんなチャラいことを書くと、日本に多数いらっしゃる真摯でかつめっちゃ優秀な現象学者の方々がもしそれをご覧になったりしたら(幸いなことにその可能性はかぎりなく零に近いので、まず心配することもないのですが)、自分たちの神聖な学問の領域を冒涜されたかのように眉をひそめられるかと恐れたりもしますが、そこはまあ、「表現の自由」をあたかも錦の御旗のように振りかざし、その歴史的起源については無知なまま、他者を中傷するだけのような低劣な表現を平気で繰り返す、自己批判契機を欠落させたメディアとは違い、人畜無害な小心者の個人のブログの戯言ということで、お目こぼしいただければ幸いでございます。
 最後に一言、つい「おフランス」などと書いてしまって思い出したことをお話しますね。
 何年も前のこと、ある日、講義の後、大変優秀で長身イケメンのフランス人学生が、真剣な面持ちで私のところに来て、「先生、「おフランス」って、「フランス」とどこが違うんですか? 私たちフランス人は、「お日本」って言ってもいいんですか?」とマジで聞いてきましたものですから、「Bonne question(いい質問ですね)!」とすかさず応じて、次のように説明してあげたのでした。

「おフランス」は、一部のフランス大好き日本人にだけ見えている(あるいはその人たちだけは存在すると信じている)、「シックでエレガントな」唯名論的な(ヴァーチャルなと言ってもよい)空間である。この唯名論的空間は、君たちが生きている現実の世知辛い、個々のフランス在住者(フランス国籍所有者とは限らない)からなる実在論的フランスとは、あたかも重ね書きのように空間的には重なる部分もあると「おフランス」実在論者である日本人(特に女性に多い)は主張するが、しかし、君たちの目には決して見えなし、存在すらしないし、したがって、君たちフランス人は「おフランス」になんか住んでいないし、一生住めないのさ、たとえ「おフランス」大好きな日本人の女の子と結婚したとしても。そういう女の子にかぎって、フランス人と結婚したとたん、魔法が解けたかように自分の周りから「おフランス」が雲散霧消してしまって、現実のフランスの只中に立たされている自分に気づいて、愕然と、あるいは茫然と、するものなのだよ。
この問題についての理解をさらに深めるためには、一方で、精神病理学的あるいは社会心理学的アプローチが役に立つだろうが、他方では、特にこの問題をより広い視野から取り上げ直すためには、中世の「普遍論争」についておさらいしておくのも無駄ではないだろう。
それはともかく、日本人がいみじくも敬意と憧れを込めて接頭辞「お」を付けて呼ぶ国は、世界広しと雖も、君たちの国だけだから、誇りに思いたまえ。たとえかつての世界列強国に対してさえ、「おアメリカ」とも「おイタリア」とも「おスペイン」とも「おイギリス」とも言わない。だいたいみんな発音しにくいし、ましてや「おドイツ」なんて、「都々逸」と聞き間違われてしまいかねないから、なおのことありえない。ただ、『おろしあ国酔夢譚』という井上靖の作品があり、映画化までされていて、このタイトルの中にある「おろしあ」は、確かに、十八世紀末ロシア帝国のことを指している。しかし、この「お」は尊敬・丁寧の接頭辞ではなく、単に発音しやすくするために付加されただけだろうという説が有力である。
だから、「お日本」とは日本人は誰もけっして言わんし、そもそもなんでも「お」を付けりゃいいってもんでもない。まあ、もし君たちが理想化された幻想の「ニホン」を、愛を込めて「Oh ! NIHON」と呼びたいのなら、やめろとは言わんが、いずれにせよ、それは私の知ったことではない。

 その長身ゆえにクラスメートから「私たちのエッフェル塔」と呼ばれていたその好青年は、私の説明にいたく納得して、いつものように教室のドアの上枠に頭をぶつけないように少し身を屈めながら、教室を後にしたのでありました。

 それじゃ、今日はこれで失礼させていただきますね。À demain !

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本語で哲学する(五)― 日本語で生きられている「現象学的」態度

2015-03-03 00:00:00 | 哲学

 単・複を区別しないということは、その区別を排除するということを直ちに意味するわけではない。この単複の不決定性は、形態論的には、冠詞あるいは語尾要素という顕在的な量化子の名詞に対する任意性という性質として現れている。この量化子の任意性は、日本語による認識世界には、「単数でも複数でもなく、それでいて、単数的でも複数的でもあり得る」という対象認識のレベルが形態として顕在的に表示されているということを意味している。つまり、いきなり個別的対象として可算名詞の範疇にいやおうなく各個体を帰属させるのではなく、悟性による抽象化の手続きを経ずに、いわば対象を直接的かつ感性的にその質的一般性において立ち現れさせることができる表現レベルが日本語には基本的に備わっているということである。
 このとき、そのように対象をその質的一般性において感受している受容者は、自己とは截然と区別された他の数えられる諸個体からなる客体的世界に対する認識主体として機能しているのではない。いわば質的世界それ自身の自己表現点として、その質的世界に内属しているのである。それゆえにこそ、いわゆる情景描写がそのまま情感の表現であり得るのである。
 そこには「私」さえ不在なのであり、それゆえにこそ、その描写の読み手もまた、その質的世界の中に、主体としてではなく、いわば「その光景の片隅に佇むもの」として、文字通り浸透することができるのだ。なぜなら、質的世界へのこのような「非主体的な」浸透は、可算的個別的対象として記述されうる対象群からなる世界に、それらとは区別された個別的な意志的行動主体である身体として自分の場所を確保するという、主客二元論を既得権として前提とした、主体から客体への「暴力的な征服」とはまったく異なった、まさに私の言う「心身景一如」の直接経験にほかならないからである。
 このような直接的に経験された情感的世界を「質的経験の世界」と呼び、可算的なものの集合として対象的に認識された世界を「量化的世界」と呼ぶことにしよう。そのとき、私たちは次のように日本語の特徴を言い表すことができる。
 冠詞・語尾要素等の量化子を不可欠の文法要素としない日本語は、「量化的世界」の記述には、任意的要素の意識的導入を必要とするが、まさにそれゆえにこそ、「質的経験の世界」の表現には、「自ずと」際立った適性を有する言語である。
 今や私たちは、なぜ井筒が言うところの「情緒纏綿たる詩的感性の世界」が日本語において生起しやすいのかという問いに答えることができる。
 それは、日本語が、現象世界を、質的経験の世界として、その質において直感(直観ではない)的に表現することができる言語だからである。情景を描写する日本語の表現、とりわけその詩的表現に私たち日本人が強く感応するのは、己がそこに棲まう質的世界との情感的一体性が、そこに見事に表現されているからにほかならない。
 このように、世界の可算的対象性を「括弧に入れて」、現象をその質におて直感的に立ち現れさせることができるという著しい特性を有する日本語は、それ自体が「現象学的」言語だと言うことができるだろう。日本が「言霊の幸はふ国」であることと「現象学の幸はふ国」であることとは、だから、まったく無関係というわけでもないのである。少なくとも、次のようには言ってもいいのかもしれない。量化子の任意性というその基礎的性格のゆえに、単数・複数意識からも、冠詞に媒介された対象認識過程からも、自ずと解放されている日本語によって知覚世界が分節化されている日本が「現象学の幸はふ国」であるのは、偶然ではない、と。












日本語で哲学する(四)― 日本語で生きられている「現象学的」態度

2015-03-02 00:00:00 | 哲学

 井筒俊彦は、一九八四年四月、『文学』(五十二巻四号、岩波書店)に、「単数・複数意識」というタイトルの短い随筆を発表している。現在は、『読むと書く 井筒俊彦エッセイ集』(慶應義塾大学出版会、二〇〇九年)に収録されている。僅か四頁余りの文章だが、私たちがここ数日、横道にしばしば逸れながらも、考え続けてきた、日本語的思考の特異点についての考察に一つの示唆を与えてくれる内容を含んでいる。そこで、まずこのエッセイから、私たちにとって特に重要と思われる部分を引用しながら、日本語による認識の特性について考えていこう。まずその冒頭の段落を引く。

鎌倉の冬。書斎の窓ごしに、山茶花の咲き誇る庭の景色をぼんやり眺めている。散り積もった枯れ葉の上に、真っ白な猫がうずくまって、じっとこっちを見つめているのに、ふと、気付く。「猫がいる」と、私はつぶやく。「一匹の猫がいる」とも言えるが、なんとなくぎこちない。それに「一匹」などと言うと、妙なところに焦点が絞られて、風景の質が変わってしまう(426頁)。

 さりげなく上品な書き出しで、この段落を読んだだけでは、特段の問題を感じないかもしれない。井筒も次の段落で言っているように、英語なら、同じ場面で、どうしても a cat か cats か、だ。フランス語なら un chat か des chats か、だ(ここでは雄雌区別の問題は問わないとして)。どちらの言語においても、集合概念としての「猫」はともかく、生きた具体的な猫(たち)は、単数か複数かのどちらかである。
 これは、語学的事実としては、日本の中学生なら誰でも、いや、最近はかなりの数の小学生や幼稚園児だって、さらには、早期教育に熱心な親たちの子どもなら、入園前の乳幼児だって、知っていることで、学習に際しても特に困難を覚えない事項であろう。
 しかし、「単数でも複数でもなく、それでいて、単数的でも複数的でもあり得る日本語の「猫」は、英語の世界には生息しない」(同頁)と井筒が言うとき、英語(あるいは仏語)と日本語との違いについて、少し考えさせられないであろうか。さらには、より一般的に、それぞれの言語によって、見えている世界が少しずつ違っているのではないか、と私たちは疑い始めないであろうか。
 上に引用した冒頭の段落の末尾にあるように、単数か複数か意識し始めると、たとえ日本語の世界の内にとどまったままでも、「風景の質が変わってしまう」のを、私たち日本語を母語とする者たちが感じるとすれば、他方では、言語的無意識のレベルにすでにこの単複の区別が組み込まれている知覚世界に生きている英語(あるいは仏語)話者たちは、単複を意識しないで対象を見てみよ、という要求に対して、「いったいどうやって?」と、戸惑いを覚えるのではないだろうか。
 この後、井筒は、『古今和歌集』から、『百人一首』にも入っている有名な一首「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きくときぞ秋はかなしき」を引いて、古来、日本人は、この和歌の中に、「鳴いている鹿は単数なのか複数なのか」というような「野暮な」疑問は抱かずに、「心にしみる「鹿」の声に秋の気配を聞きとってきた」と言う(427頁)。そこから、自分の経験から類似の他の一例を挙げただけで、井筒は、単・複を分けない日本語の意味空間には、そんな「不決定性」があり、「そこに情緒纏綿たる詩的感性の世界が生起するのだ」とまで言い切る(同頁)。
 これは短いエッセイであり、学術論文ではないから、その断定の性急さを責めることは、お門違いというものであろう。むしろ、司馬遼太郎をして「二十人くらいの天才らが一人になっている」と言わしめた(「二十世紀の闇と光」、中公文庫『十六の話』所収の井筒との対談での発言、p. 399)、この不世出の哲学者の言明の含意をもう少しゆっくりと反芻しながら、なぜ「情緒纏綿たる詩的感性の世界」が単・複を区別しない日本語の意味空間には生まれてくるのか、私たち自身で腰を据えて考えてみよう。