内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「おもてなし」としての質問 ― 質問の作法について

2015-03-15 08:21:55 | 雑感

 一昨日までの三日間参加した国際シンポジウムで、私はほぼ全部の発表について質問しました。それは、自分を目立たせるためなのではまったくなく(そんなことして何になるのか私は知りません)、単なる個人的な関心からだけでもなく、一つの「礼法」として、そうしたのです。
 参加者の中には、それを理解してくれた方々もいます。しかし、他方では、肝腎の主催者の側にそれがよくわかっていない人がいることが今回はっきりして、正直、ひどくがっかりしました。その落胆は、自分の意図が理解してもらえなかったという、個人的な理由によるものではありません。問題は、もっとも基本的なことに関して、大切だと考えていることに決定的な「ずれ」があるということです。
 そもそも、私は、こういう打ち上げ花火的な「学際的」シンポジウムには、学問的な価値を、あまりどころか、ほとんど認めることができません。なぜなら、それぞれの分野について、専門家が一人しか参加しておらず、だれもその人の発表について、本当には理解してもおらず、また理解しようという努力もせず、せいぜい「興味深いお話をありがとうございました」が関の山であるからです。だから、みんな本気で質問しようともしません。
 もちろん、他分野の発表が自分の研究のヒントになることはあります。それは私も認めますし、私自身しばしばその恩恵にも与っています。それは楽しみでさえあります。今回もそうでした。しかし、その場で議論が深まるということはまずありません。それがありうるとすれば、それぞれの専門分野を超えて、共通する問題を引き出し、それについて討議するという姿勢が参加者たちに共有されている場合だけです。今回それがあったとは言いがたいし、そもそもそのような方向にもっていくための時間さえありませんでした。
 私は、これらのことを承知のうえで、なんとかしたかったのです。だから、質問したのです。でたらめに自分勝手に質問したのではありません。ちゃんと質問のタイプを考え、抑制したかたちで質問したのです。それを「長い」とか言われるのですから、話になりません。いったい何のためのシンポジウムなのでしょうか。終わってしまえば、ただ虚しさだけが残る、ただのお祭り騒ぎなのでしょうか。
 今回のシンポジウムには、それぞれのパネルにモデラトゥール(modérateur)が配されました。このモデラトゥールは、本来、単なる司会進行・タイムキーパー役などではなく、何よりも発表後の議論の調整・まとめ役で、場合によっては、議論の口火を切る役でもあります。ところが、今回その役目を果たしたモデラトゥールは、一人もいませんでした。しかし、それは彼らの責任ではなく、時間の制約から、そもそも議論ができないのですから、彼らにできたことは、せいぜい、「質問はありますか」という、何も理解しないまま誰でも言える決まり文句を繰り返すことだけでした。そんなモデラトゥールなら、いらないのではないでしょうか。それこそ、時間の無駄であり、いたずらに参加者を増やすだけにおわるのではないでしょうか。
 それはともかく、共通の問題場面を開くための「公共」の場での質問には、私は三タイプあると考えています。そして、それは、単に個々の質問のタイプの問題ではなく、質問の順序と段階の問題でもあります。
 まず、発表者のための質問。これは、時間の制約ゆえに、話したいことを話しきれなかった発表者が特に付け加えたいところを見抜いて、その点について質問し、発表者に補足の時間を提供するための質問です。
 次が、聴衆のための質問。これは、聞き手がもっと聞きたい、もう少し説明してほしいと欲する点を察知し、その点について、発表者から答えを引き出すことを目的とした、よく限定された質問です。
 そして、最後に質問者自身のための質問。これは、上記の二つのタイプの質問が終わった上で、特定の論点についての質問者個人の問題意識からする質問です。このタイプの質問が最後に来るのは、上の二つのタイプの質問に一致していれば、特に必要がないからです。一方、この段階では、質問の中に、疑義や批判を込めることも当然あり得ます。
 一言で言えば、シンポジウム参加者には、だれが主催者か招待者かということも場合によっては超えて、参加者全員相互に、「ホスピタリティ」(「おもてなし」)の作法としての質問の仕方があるだろうと私は言いたいのです。
 しかし、残念ながら、そういう質問の作法が遵守され、活発で実りある討議に至ることは、稀なことであり、時間通りに進行することが第一優先され、「予定通り」終了すれば、メデタシメデタシ、拍手、で終わりです。
 そして、独り帰途、やがて悲しき灯の明かり。