内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

近くの現象学(一) ― のんびりと、でも本気で、テツガクしていこう

2015-03-04 00:00:00 | 哲学

 昨日の記事は、金覆輪の概念打ったる鎧兜に身を固め、いざ難問が原に駒進め、敵の弓矢をかいくぐり、四角四面の厳つい文字をちぎっては投げ、またちぎっては投げ、大奮闘の独り相撲、書いている本人も書き終えた時には、ぐったり疲れ、肩もすっかり凝り固まり、どうと駒より転げ落つ、あ痛たたた、といった体たらくだったので、今日からは、趣向をガラッと変えることにします。
 短い冬休みも終わっちゃったことだし、もっとお気楽な感じで、大学の仕事の合間に、コーヒーでも飲みながら、あるいは夕食後に安ワインを傾けながら、テツガク的問題をのんびりと、でも本気で、考えていきたいと思います。
 それで、今日の記事のタイトルの「近くの現象学」のことですが、この「近く」は「知覚」とすべきところの変換ミスなのではないか、と疑念を持たれた、哲学に造詣の深い慧眼なる読者の方もいらっしゃったかもしれませんが、けっしてそうではないのであります。確かに、もともとは「知覚」と打ちたかったところ、最初の変換候補が「近く」で、つい訂正するのを忘れたなんてことも、論文を書いているときにはあったのですが、まさにそれがきっかけで、「近くの現象学? ふざけるな! 少しは学習しろ!」などとPCに悪口雑言を浴びせた後、「いや、でも、待てよ、これって、案外テーマとしてイケてるかも」とつい数日前から思い始めたというわけなのです。
 どいうことか、説明しましょう。この「近く」には、ごく普通に、「近所の」という意味がまずあります。「近くのパン屋」みたいな。だから、そこから、「身近な」とか、「普段の生活の中でよく出会う、利用する」という意味合いも出てきます。しかし、「近く」は、けっして我が家ではありません。「近く」にはあるが、そこに住んでいるわけではないのです。「となり」でもないのです。もうちょっと漠然としていて、範囲も広い。
 つまり、「近くの現象学」とは、生活の身近な問題を観察・記述するところからはじめて、その問題について、ちょうど近所のご隠居にお頼み申すように、現象学からお知恵を拝借しながら、でもあまりそこにばかり長居はせずに、近所の森や川沿いでも散歩しながら、ぼちぼち自分の頭で考えていこうという趣向なのです。
 ただ、せっかく現象学がお盛んなおフランスに住んでいるので、何人か贔屓にしている「フランス現象学連合」(そんな学界は存在しませんが、仮にそう呼んでおきます)の腕利きの旦那衆や切れ者の姐御たちのお力もときには拝借するつもりではあります。
 こんなチャラいことを書くと、日本に多数いらっしゃる真摯でかつめっちゃ優秀な現象学者の方々がもしそれをご覧になったりしたら(幸いなことにその可能性はかぎりなく零に近いので、まず心配することもないのですが)、自分たちの神聖な学問の領域を冒涜されたかのように眉をひそめられるかと恐れたりもしますが、そこはまあ、「表現の自由」をあたかも錦の御旗のように振りかざし、その歴史的起源については無知なまま、他者を中傷するだけのような低劣な表現を平気で繰り返す、自己批判契機を欠落させたメディアとは違い、人畜無害な小心者の個人のブログの戯言ということで、お目こぼしいただければ幸いでございます。
 最後に一言、つい「おフランス」などと書いてしまって思い出したことをお話しますね。
 何年も前のこと、ある日、講義の後、大変優秀で長身イケメンのフランス人学生が、真剣な面持ちで私のところに来て、「先生、「おフランス」って、「フランス」とどこが違うんですか? 私たちフランス人は、「お日本」って言ってもいいんですか?」とマジで聞いてきましたものですから、「Bonne question(いい質問ですね)!」とすかさず応じて、次のように説明してあげたのでした。

「おフランス」は、一部のフランス大好き日本人にだけ見えている(あるいはその人たちだけは存在すると信じている)、「シックでエレガントな」唯名論的な(ヴァーチャルなと言ってもよい)空間である。この唯名論的空間は、君たちが生きている現実の世知辛い、個々のフランス在住者(フランス国籍所有者とは限らない)からなる実在論的フランスとは、あたかも重ね書きのように空間的には重なる部分もあると「おフランス」実在論者である日本人(特に女性に多い)は主張するが、しかし、君たちの目には決して見えなし、存在すらしないし、したがって、君たちフランス人は「おフランス」になんか住んでいないし、一生住めないのさ、たとえ「おフランス」大好きな日本人の女の子と結婚したとしても。そういう女の子にかぎって、フランス人と結婚したとたん、魔法が解けたかように自分の周りから「おフランス」が雲散霧消してしまって、現実のフランスの只中に立たされている自分に気づいて、愕然と、あるいは茫然と、するものなのだよ。
この問題についての理解をさらに深めるためには、一方で、精神病理学的あるいは社会心理学的アプローチが役に立つだろうが、他方では、特にこの問題をより広い視野から取り上げ直すためには、中世の「普遍論争」についておさらいしておくのも無駄ではないだろう。
それはともかく、日本人がいみじくも敬意と憧れを込めて接頭辞「お」を付けて呼ぶ国は、世界広しと雖も、君たちの国だけだから、誇りに思いたまえ。たとえかつての世界列強国に対してさえ、「おアメリカ」とも「おイタリア」とも「おスペイン」とも「おイギリス」とも言わない。だいたいみんな発音しにくいし、ましてや「おドイツ」なんて、「都々逸」と聞き間違われてしまいかねないから、なおのことありえない。ただ、『おろしあ国酔夢譚』という井上靖の作品があり、映画化までされていて、このタイトルの中にある「おろしあ」は、確かに、十八世紀末ロシア帝国のことを指している。しかし、この「お」は尊敬・丁寧の接頭辞ではなく、単に発音しやすくするために付加されただけだろうという説が有力である。
だから、「お日本」とは日本人は誰もけっして言わんし、そもそもなんでも「お」を付けりゃいいってもんでもない。まあ、もし君たちが理想化された幻想の「ニホン」を、愛を込めて「Oh ! NIHON」と呼びたいのなら、やめろとは言わんが、いずれにせよ、それは私の知ったことではない。

 その長身ゆえにクラスメートから「私たちのエッフェル塔」と呼ばれていたその好青年は、私の説明にいたく納得して、いつものように教室のドアの上枠に頭をぶつけないように少し身を屈めながら、教室を後にしたのでありました。

 それじゃ、今日はこれで失礼させていただきますね。À demain !