内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

近くの現象学(五)― 「遅れる勇気」

2015-03-08 00:00:00 | 哲学

 昨日話題にした「現代思想」という講義の、やはり初回のことでしたが、「哲学を学び始めるにあたって、どんな心構えが必要だと思いますか」と学生たちに問いかけてみました。
 こんな問いを藪から棒に出されて、学生たちも困惑したことでしょう。私があえてそのような問いかけを彼らにしたのは、一つの正解があって、それを誰かが言ってくれるのを期待してのことではありませんでした。このあまりにも漠然とした問いの答えを、彼らなりにその場で考えたとは思います。例えば、「徹底して一つの問題を考え抜く意志」とか「難解なテキストを原書で読む努力」とか「ある事柄を隈なく探求する注意深さ」とかのことかな、と思ったかもしれません。それはそれで上記の問いの答えとして間違いではないと私も思います。でも、私が彼らに示した答えは、それらとはまったく異なったものでした。
 その答えとは、「遅れる勇気」でした。その講義で、こう私が宣わると、学生たちは、「?」「へっ?」「意味不明」という顔をしていました。当然のことです。「授業に遅刻する勇気? まさか。じゃあ、遅刻しても教室に入っいく勇気? でもそんなの哲学と関係ないし」などと、無い知恵を絞って(失礼)、考えてくれた学生もいたかもしれません。
 「遅れる勇気」という、このちょっと奇妙な表現によって私が言いたかったのは、以下の様なことでした。

 皆さん(昨日の記事で申し上げましたように、この講義は学部二年生対象でしたから、出席している学生たちのほとんどは二十歳前後)は、友だちと一緒に過ごす時間を大切にしたいと思う年頃でしょうし、周りの人たちのこともいろいろと気になることでしょう。それに、ちょっと意地悪な言い方をすると、皆さんは日本人ですから、あまり他人と異なったことをして目立つのを避けたいと思う気持ちもかなり強いだろうなとも想像します。ましてや、就活ともなれば、人に遅れまいとするでしょうし、なかなか内定が出なければ焦ることでしょうし、その期間が長引けば、独り取り残されたような、追い詰められたような気持ちになっても、少しも不思議ではありません。
 しかし、いつもみんなと同じ速度で同じ方向を向いて歩いているかぎり、そのことを最優先するかぎり、哲学は始まらないのです。哲学は、普段の自分の歩行速度よりゆっくり歩くか、あるいは一旦立ち止まらないかぎり、始まらないのです。それも、たった一人でもそうする覚悟がないかぎり、哲学を始めることはできないのです。みんなで一緒にワイワイガヤガヤ哲学するわけにはいかないのです。
 何かのきっかけで、例えば、「ちょっと待って、これって何かおかしいんじゃないかな」と思って、他のみんなはどんどん先へ歩いて行ってしまうのに、立ち止まって考え始めたことはありませんか。そんなとき、友だちの一人が、「ねぇ、どうしたの? 遅れちゃうよ。一緒に行こうよ」と、振り向いて優しい声を掛けてくれるかもしれません。それでもなお、その場にとどまり続け、独り考え続けるとします。みんなとの差はどんどん広がってしまいますね。遅れを取り返せるかどうか、心配にもなってくるでしょう。それでも自分が大事だと思う問題を考え続けることができますか。
 これができるということ、それが、私が言うところの「遅れる勇気」です。
 人が言うところの「遅れ」は遅れとして自覚し、その「遅れ」によって引き起こされる社会的に見て困難な結果の責任を自ら引き受ける覚悟を決め、その上で、その「遅れ」を遅れとするルールが支配する世界を「括弧に入れ」、事柄そのものを見ることに集中する時間の確保を最優先する。このような「遅れる勇気」が、哲学を学び始めるためには、どうしても必要なのです。

 こんなことを言ったからといって、学生たちに「留年の勧め」をしようなどという、無責任なことを考えていたのでは、もちろん、ありません。哲学科の学生たちも、他学科・他学部の学生たちと同じように、そのほとんどは、研究者になどならず、修士課程にも進まず、普通に就職していくのです。だから呑気に留年などしていられないことは、私だってわかっています。ただ、彼らのそれからの長い人生の中でほんとうに役に立つであろう哲学の始まりは、颯爽と論じてみせる「知性」の中にではなく、無様にも独り遅れる「勇気」の中にこそある、ということを、まずわかってほしかったのです。