内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『到来するものを思惟する』(四)― 世界への「ひらけ」は、不治の傷口のように疼く

2015-03-21 16:37:13 | 読游摘録

 Penser ce qui advient の第三章は、そのタイトル « L’idéalisme allemand, Hölderlin, la poésie, l’art » からも推測できるように、詩と哲学、より一般的には芸術と哲学との関係がメイン・テーマとなっている。
 ヘーゲルにその最終な哲学的形態を見いだすことができるドイツ観念論、特にその弁証法的思考と、ヘーゲルとまさに同い年生まれで、チュービンゲン大学神学部生時代からの友人であるヘルダーリンにおける詩的弁証法的思考との決定的な違いをダスチュール先生は指摘する。
 前者は、ニーチェが苛烈な批判を浴びせたように、歴史の「終焉」と、人間の己自身との最終的な和解とをその特徴とする。ニーチェが鋭く見抜いたように、それはカモフラージュされたキリスト教神学にほかならない。ところが、ヘルダーリンには、そのような傾向の欠片も見出だせない。この難解な詩人にとって本質的なものは、「分離と分裂を内含した統一」なのである。ヘーゲル哲学が、結局のところ、最終的な結末が予め知られた過程の「論理」であるのに対して、ヘルダーリン詩学は、現実そのものがその裂開・亀裂を通じて実現していく「制作」(原文では、poétique となっているが、ダスチュール先生は、その語源であるギリシア語 poièsis(制作・創造)の学という意味でこの語を使っている)なのである。
 前者においては、有限なものは最終的に無限なものに回収されてゆき、その無限なるものが最終的な審級を構成するが、後者においては、無限なものは、ある有限な一つの世界から別の有限な世界へ、ある有限な時代から別の有限な時代への「移り行き」(passage)の中にしか在り得ず、その都度あり得る予見しがたい現出は、ある一つの論理による全体の回収をけっして許さない。
 ヘーゲルにおいては、最終的な無限審級に向かって、すべてが「論理的に」序列づけられるが、ヘルダーリンにおいては、あらゆる時代・世界は、同等な資格で、その都度、その場所で、無限の現前化なのである。言い換えれば、西洋以外の場所に、「もう一つの別のはじまり」を期待することを可能にする思考がヘルダーリンには見出だせるのである。
 まさにそれゆえに、ハイデガーは、ヘーゲルに西欧的形而上学の最終形態を認めた上で、それを徹底的に批判する一方、他方では、ヘルダーリンに新しい思想の到来の可能性を見ていたのである。ダスチュール先生のヘルダーリン読解の方向性も、基本的にこのハイデガーのヘルダーリン解釈に基づいていると言ってよい。
 カベスタン氏は、それに対して、詩的思考のそのような称揚は、哲学的な概念的論理的思考の軽視に繋がらないかと問う。
 ダスチュール先生は、その問いに答えて、ハイデガーが言うところの「人間は〈作る人〉(詩人)としてこの大地に棲まう」とは、単にこの地上を人間に都合のいいように技術的に整えることではなくて、人間が棲まう領域のそれ以外の領域へ開けを保持すること、全一なるものから人間を切り離さないようにすることなのであり、この在り方を、詩も哲学も、それぞれの仕方で実践しているのだと言う。
 この配慮・気遣いは、人間たち自身のためだけの自己中心的なものではなく、かといって、他なるものに絶対的優位性を置く利他的なものでもなく、両者を包む包括的・全体的なものである。この包括的・全体的なものへの配慮・気遣いは、哲学において特に際立った仕方で表現されるわけだが、詩人においても、己の世界経験の中でもこの上なく特別で個人的な経験を私たちに伝えようとするとき、その伝達の意志を動機づけているのが、まさにこの配慮・気遣いなのである。
 驚きのうちに到来する世界の広大無辺さへと開かれてあること、それまで当たり前だと思っていたものすべてが新しい光の下にまったく不思議なものとして現れるという、まさに哲学的な感動と、あらゆるものにおける絶対的な個別性の詩的な自覚とは、対立するものではない。
 自己の個別的な部分を引き受けることは、自分の殻の中に縮こまっていることではなくて、まったく逆に、皆に共通な必要性によって限定された普段の生活の地平に閉じこもることを、「詩的」にも哲学的にも許さないその自己存在の唯一性の自覚を、ふさがることのない傷口として、疼かせ続けることなのだと、先生は言う。

Assumer sa singularité, ce n’est pas pour l’être humain se replier frileusement sur lui-même, mais bien plutôt garder vivant en lui, comme une blessure inguérissable, ce sentiment du caractère unique de son existence qui constamment l’arrache, poétiquement et philosophiquement, à tout enfermement dans l’horizon limité des besoins quotidiens (p. 55).

 私なりの言葉で、この最後の部分を言い換えてみれば、次のようになる。
 私たち一人一人の「ことなり」は、私たちを個別的特殊性の中に閉じ込めるものではなく、むしろ逆に、「ことなり」続ける広大無辺な世界への、各瞬間における「ひらけ」なのであり、その「ひらけ」をそれとして保持し続けることには、「痛み」が伴う。