内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本語で哲学する(三)― 日本語で生きられている「現象学的」態度

2015-03-01 00:02:39 | 哲学

 「単数・複数意識」は、いわゆる欧米言語にだけ限られた意識ではなく、現代語に話を限っても、例えば、ロシア語における単数・複数の区別の複雑さは、その簡単な説明を聞いただけでも、うんざりするほどである。ところが、この単数・複数を区別する意識が、日本語にはない、とまでは言わないにしても、曖昧であるとか、希薄であるとか、よく言われる。それを聞くと、日本語が欧米言語に比べて何か劣った言語として扱われたかのような不快な思いをする「愛国的」日本人も少なくない(ようである)。
 実際、私も人の書いた日本語の文章を仏訳していて、はたと困ることがあるし、人の仏訳を見て、「何でここ複数じゃないの?」「ここは単数でないとイメージが違っちゃうよ」とか、「どっちとも言えないし、どっちでもないんだよなあ」などと呟きたくなるような違和感を覚えることも少なくない(先回りして言っておくと、この最後の呟きが、日本語における現象学的思考への扉を開く「一つの」鍵になるであろう)。
 自分が書いたものに関して言えば、例えば、今回の心身景一如論文でもそうだったが、日本語で書いているときでも、絶えずフランス語での思考を介して考えているので、つまり「日仏往還思考」のおかげで、フランス語に訳す段になっても、単複問題に関して言えば、そう迷うことはない。
 たしかに、フランス語で思考していると、対象が数えられるものかどうか、数えられるとして、その数えられるものの個体数は単数か複数か、知覚世界から絶えず問われ続けているようなもので、それにその都度いわば直観的に答えながら、日々の認識活動を実行しているわけである。というよりも、フランス語の世界に生きるということは、そのような問いの答えとして分節化されている知覚世界に生きることだと言ったほうがより適切であろう。
 この単・複認識問題と一昨日の記事で話題にした冠詞認識問題とは、密接不可分の関係にあり、それが問題場面をいやが上にも複合化・複雑化する(それはもう鳥肌が立つほどである)。定冠詞か不定冠詞か、あるいは無冠詞か、という言語的選択の中で実行されているのは、カテゴリーとしての一般概念認識、特定可算対象の限定認識、特定可算対象の全体認識、対象の機能のみを抽出する抽象化認識、ある語をある対象の属性記述に適用する属性化認識、ある個体を他の個体と交換可能と見る等価交換認識等で(これだけではないが)、これらの認識過程がすべて冠詞に内包されているのである。したがって、見かけは小粒だが、あらゆる文章に遍在する冠詞は、その意味で、フランス語の一つの「特異点」だと言うこともできるかもしれない。
 しかし、フランス語の立場から、このようないわば一方的な「上から目線」で、日本語を見ているかぎり、日本語的思考を消極的にしか評価できないであろう。その目線からはけっして見えない日本語固有の「特異点」を見逃すことにもなる。日本語にない世界分節化機能をフランス語から「輸入」して、それで補っているだけだからである。こんな態度に終始するかぎり、日本語的思考の特性を、盲目的「愛国心」や扇情的ナショナリズムからまったく自由に、冷静沈着かつ学問的情熱を持って積極的に打ち出すことができないのは言うまでもない。
明日の記事では、日本語の立場から、世界自身の世界における世界認識を豊かにするべく、「反撃」に出る。