内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

近くの現象学(八)― 哲学の方法としての「異郷投企」(dépaysement)

2015-03-11 00:00:00 | 哲学

 今日の記事のタイトルご覧になって、「「異郷投企」? 聞きなれない言葉だなぁ」と思われたことと想像いたします。
 それもそのはず、これは私の造語です(管見のおよぶかぎり)。フランス の « dépaysement » という語の訳語として、他に適当な日本語が見つからずに、苦し紛れに捻り出しました。
 今日は、なぜ私が、どの仏和辞典にも載っている « dépayseme t » というごく普通の言葉に、辞書にある訳語をそのまま用いるかわりに、このなんとも奇妙な造語に訴えてまで訳そうとしているのか、そのわけをお話しいたします。
 仏和辞典を引くと、例えば、『ロワイヤル仏和中辞典』(旺文社)には、「(異なった環境・習慣の中に身を置いた者の)居心地の悪さ、違和感、とまどい」という説明的な訳がこの語に与えられています。一般の現用の意味の説明としては、もちろん適切です。
 他方では、この同じ語に定冠詞が付くと、「環境[習慣]の新鮮な変化、気分転換」(『小学館ロベール仏和大辞典』)とうい積極的な意味が出てきます。旅行会社などがこの語をキャッチコピーに使うときなどは、まさにこの意味です。つまり、「異国などで、それまでの普段の生活とは違った、新鮮な気分を味わうこと」です。
 この一見して対極的な意味は、いずれも、この語の元になっている動詞 « dépayser » の「自国を去り、異国に行く」という語源的な意味から来ています。第一の意味は、この動詞によって示されたアクションの結果として発生するネガティヴな心理状態のことであり、第二の意味は、同じアクションによって得られるポジティヴな心理的効果ということです。
 そこから、より広く、比喩的な用法も含めて、特に心理的要素を伴いながら、「(普段の慣れ親しんだ環境から離れ、あるいは引き離され)、普段の自分のようには行動できない状態」を意味しているのが « dépaysement » であり、そのような状態にあることを形容するのに、« dépayser » という動 の過去分詞 « dépaysé (e) » が使われます。« Tu ne t’es pas senti trop dépaysé en arrivant dans ta nouvelle école ? » (「新しい学校に来たとき、知り合いもいなくて大丈夫だった?」)という用例が、『白水社ラ・ルース仏和辞典』に載っています(序ですが、この辞書は、収録語数は約八〇〇〇語と少ないですが、その語法説明の中には、大辞典にも載っていないような、実に勘所をよく押さえた、「そうかっ!」と思わず膝を叩きたくなるような記述が随所にあって、発信用辞典としてきわめて優れています)。
 この動詞には、 « se dépayser » という再帰的代名動詞としての用法もあり、『小学館ロベール仏和大辞典』には、「日常性から脱する、気分転換する」という意味が示されています。つまり、「自ら日常の環境を飛び出 ていく」のが、 « se dépayser » です。Le Grand Robert に挙げてある用例 « Il se dépayse en voyageant »(「旅行をして日常性から脱する、気分転換する」)からもわかるように、旅行、特に外国旅行は、確かに、その積極的な意味での « dépaysement » が味わえるよい機会ですね。
 慣れ親しんだ自国から離れることは、一方では、このように私たちを「日常性から解放」してくれることでしょう。しかし、他方では、自国のように、あるいは、普段の生活のように、事がうまく運ばないときには、「居心地の悪さ」を私たちに感じさせることになります。
 だから、« dépaysement » には、非日常性と既得習慣の適応不可能性がもたらす結果として、解放性と不安定性という両義性があるのです。
 この « dépaysement » を、学問的技術の一つとして、自覚的に方法化したのが、レヴィ・ストロースです(因みに、この偉大なる人類学者は、メルロ=ポンティと同じ年の生まれで、その最も親しい友達の一人でした)。『構造人類学2』(Anthropologie structurale deux, Plon, 1973)に収録されている「三つの人間主義(Les trois humanismes)」と題された、あるアンケートに対する回答書の中で、レヴィ・ストロースは、« la technique du dépaysement » (p. 320) という表現を使っています。これをどう日本語に訳すのか困ったのが、この記事のタイトルに掲げた造語のきっかけでした。
 レヴィ・ストロースは、そのテキストの中で、普段自分たちが慣れ親しんだ環境から身を引き離し、「異郷」に身を置いてみることによって、自分のところでは自明とされていたことの相対性を明るみにもたらし、そのことを通じて己自身をよりよく理解するすという、民族学・人類学の「技術」の名称として、この表現を提案しています。
 私は、この技術を方法的態度としてより一般化し、「世界を見ることを学び直す」ための方法として構想しています。そして、まったく拙い仕方ではありますが、こうしてフランスに暮らすことによって、日々その方法を実践しているつもりでもいます(ただ、そうはいっても、そのためだけに、「居心地の悪い」フランスに嫌々苦行のように暮らしているわけではありませんよ)。
 しかし、「異郷」というのは、必ずしも外国とはかぎりません。自分にとって馴染みのない場所にあえて身を置くことを「異郷投企」と呼ぶとすれば、自国内でもそれは可能でしょう。レヴィ・ストロースがこの技術のもたらす効用を説明するために、具体的実践例としてまず挙げているのも、ギリシア語やラテン語の学習です。これなら、自宅にいながらにして、「異郷」に身を置くことも不可能ではありませんね。
 そして、さらに方法としての「異郷投企」を徹底化させれば、それは、普段自分が暮らしている場所に「いつものように」日々生きつつ、その場所から我が身を引き離し、日常空間を「異郷」として二重化し、日常を相対化する技術ということになります。そのようにしてはじめて、世界の「ことなり」の生成の現場に、日常の只中で、いつでも、新鮮な驚きと生き生きとした関心とともに、立ち合い、参加し、その「ことなり」を分有することができるようになります。
 このような日常世界における自覚的「異郷投企」のほうが、外国に暮らせば外的要因によってこちらの意志とは無関係に自ずと発生しうる「居心地の悪さ」より、遥かに困難な哲学的実践であることは言うまでもありません。にもかかわらず、この自覚的「異郷投企」こそが、「ほんとうの哲学」の現場を、私たちの日常生活の中に開設する実践的基礎技術なのだ、と私は考えています。

 今日でひとまず「近くの現象学」の連載を終えます。でも、これは終わりのないテーマなので、また、しばらくしたら、戻ってきますね。