三月十七日から続けてきた Penser ce qui advient の紹介も、今日が最終回。
これまでの拙ブログでの紹介記事をお読みくださり、同書に興味をもたれた方でフランス語をお読みになる方は、是非同書を自らお手にとってお読みください。そして、もしさらに詳しくダスチュール先生のお考えを知りたいとお思いになったとすれば、先生の他の著作もどうぞお読みになってください。喧しいメディアとは無縁の、現在のフランスにおける哲学の実践の最良の姿の一つがそこに生動しています。
今日の記事は、同書の最後の五頁を対象としているが、その忠実な紹介というよりも、そこを読みながら私の裡に引き起こされた反響的思考もかなり交えた「変奏曲」になっていることを予めお断りしておく。
ハイデガーがかの有名な講演「技術への問い」をミュンヘンでおこなったのは、一九五三年のことである。その年は、エコロジー運動がドイツで盛んになりはじめた年でもある。その講演の中で、ハイデガーが特に憂慮していたのは、科学技術の発展そのものではなく、現代人がその発展に伴う世界との関係の変化についていけなくなっていることだった。
ハイデガーは、しばしばそう誤解されるように、科学技術に単純に真っ向から反対していたのではなかった。私たち現代人がこれから生きていかなくてはならない高度技術社会に対して、それを盲目的に拒絶することの愚かしさは、彼もそれを十分によく理解していた。
ハイデガーがその技術論で強調したかったことは、科学技術が支配的となった現代社会が孕んでいる内的矛盾である。その矛盾とは、一方で、「自然を支配する」という近代思想の理想を現代社会は高度に達成しつつあるが、他方では、まさにその達成のゆえに、その社会の構成員である私たちがその成果の「奴隷」となりつつある、ということである。
現代社会において、人間は、科学技術の達成を享受しているだけではなく、その操作の対象にもなっている。その典型が医療の世界である。しかし、それだけではない。私たち現代人は、科学技術のもたらす諸システムに依存せずに生きることがますます困難になっている。その結果として、自らの生活・人生について、もはやその「主人」ではありえず、逆説的にも、自分の生活・人生について、それを支配する科学技術に仕える「奴隷」に成り下がってしまっているのである。
このような文脈において、ハイデガーは、マイスター・エックハルトに由来する « Gelassenheit »(「放下」)という言葉を用いることによって、科学技術の支配に対して、それをただ「在るがままに在らしめる」態度を前面に打ち出す。この態度は、科学技術の諸成果をそれとして利用しながら、それらに対して自由なままであること、より正確に言えば、それらは決して絶対的な支配を私たちの存在に対して行使するものではなく、本質的には私たちの存在には関与しないものと見なすことからなる。
このような態度をもって世界を構成する「もの」らに対するとき、その「もの」らは、科学技術の操作の対象としての現われの彼方をそれとして私たちに開いてくれる。そして、その「開け」が、存在という大地に対して根無し草となった現代人である私たちに、新たな「根づき」の場所を示してくれる。
今日、私たちは人類史上最も高度に発達し、これからもさらに発達していくであろう、ワールドワイドなコミュニケーションツールを手にしている。それは、私たちを擬似的に相互により近づきやすい対象にしているかのようだ。しかし、まさにそのヴァーチャルな「お近づき」が私たちを「もの」から遠ざけ、その「もの」においてしか開かれてこない存在から疎外しており、しかも、私たちはますますそのことに気づきにくくなっている。
しかし、だからといって、そのコミュニケーションツールをただ否定し、それらとの接続を断てば、私たちの存在への開けが自ずと回復されるわけでもない。それらを使いこなしつつ、それらには使われない、振り回されないことが大切なのだと思う。
存在からのそのつど真新しい贈り物がこの世界という「明るみ」に到来しつつあることに盲目にならないために、言い換えれば、世界が在るということの神秘に驚く感性を失わないために、ますます高度に科学技術によって支えられ、まさにそれゆえに否応なくその支配・統制下に置かれている現代社会において、在るものをあるがままに在らしめ、そのいずれにも執着しないための工夫を、日々試行錯誤を繰り返し、練習を重ね、実践を続けることで、凝らしていくことを、私たちは、存在から呼びかけられている。しかし、その呼びかけをこの喧騒に満ちた世界の只中で聴きとることは容易ではない。私たちはそういう困難な時代に生きているのだと思う。
私たち自身の過ちによってもし世界が滅びるのならば、自分たちの過ちの報いとしてそれを受け入れる外はないのではないかと私は思う。きっとそのような時が迫っても、自分だけは助かりたいと切望する人たちも少なくないであろう。現代社会の「支配者」たちは、自分たちを救うために、もてる巨万の富を惜しまないであろう。それからの社会にとって「有益な」自分たち以外のすべての「無益な」人類を犠牲にすることも躊躇わないであろう。しかし、おそらく、その先にはもう未来はない。
来るべき滅亡のその日にも、それを恐れ慄きつつ、それでもなお、その瞬間に到来しつつある存在の神秘を感受し得るものでありたい、と私は切に願う。