内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『到来するものを思惟する』(四)― 世界への「ひらけ」は、不治の傷口のように疼く

2015-03-21 16:37:13 | 読游摘録

 Penser ce qui advient の第三章は、そのタイトル « L’idéalisme allemand, Hölderlin, la poésie, l’art » からも推測できるように、詩と哲学、より一般的には芸術と哲学との関係がメイン・テーマとなっている。
 ヘーゲルにその最終な哲学的形態を見いだすことができるドイツ観念論、特にその弁証法的思考と、ヘーゲルとまさに同い年生まれで、チュービンゲン大学神学部生時代からの友人であるヘルダーリンにおける詩的弁証法的思考との決定的な違いをダスチュール先生は指摘する。
 前者は、ニーチェが苛烈な批判を浴びせたように、歴史の「終焉」と、人間の己自身との最終的な和解とをその特徴とする。ニーチェが鋭く見抜いたように、それはカモフラージュされたキリスト教神学にほかならない。ところが、ヘルダーリンには、そのような傾向の欠片も見出だせない。この難解な詩人にとって本質的なものは、「分離と分裂を内含した統一」なのである。ヘーゲル哲学が、結局のところ、最終的な結末が予め知られた過程の「論理」であるのに対して、ヘルダーリン詩学は、現実そのものがその裂開・亀裂を通じて実現していく「制作」(原文では、poétique となっているが、ダスチュール先生は、その語源であるギリシア語 poièsis(制作・創造)の学という意味でこの語を使っている)なのである。
 前者においては、有限なものは最終的に無限なものに回収されてゆき、その無限なるものが最終的な審級を構成するが、後者においては、無限なものは、ある有限な一つの世界から別の有限な世界へ、ある有限な時代から別の有限な時代への「移り行き」(passage)の中にしか在り得ず、その都度あり得る予見しがたい現出は、ある一つの論理による全体の回収をけっして許さない。
 ヘーゲルにおいては、最終的な無限審級に向かって、すべてが「論理的に」序列づけられるが、ヘルダーリンにおいては、あらゆる時代・世界は、同等な資格で、その都度、その場所で、無限の現前化なのである。言い換えれば、西洋以外の場所に、「もう一つの別のはじまり」を期待することを可能にする思考がヘルダーリンには見出だせるのである。
 まさにそれゆえに、ハイデガーは、ヘーゲルに西欧的形而上学の最終形態を認めた上で、それを徹底的に批判する一方、他方では、ヘルダーリンに新しい思想の到来の可能性を見ていたのである。ダスチュール先生のヘルダーリン読解の方向性も、基本的にこのハイデガーのヘルダーリン解釈に基づいていると言ってよい。
 カベスタン氏は、それに対して、詩的思考のそのような称揚は、哲学的な概念的論理的思考の軽視に繋がらないかと問う。
 ダスチュール先生は、その問いに答えて、ハイデガーが言うところの「人間は〈作る人〉(詩人)としてこの大地に棲まう」とは、単にこの地上を人間に都合のいいように技術的に整えることではなくて、人間が棲まう領域のそれ以外の領域へ開けを保持すること、全一なるものから人間を切り離さないようにすることなのであり、この在り方を、詩も哲学も、それぞれの仕方で実践しているのだと言う。
 この配慮・気遣いは、人間たち自身のためだけの自己中心的なものではなく、かといって、他なるものに絶対的優位性を置く利他的なものでもなく、両者を包む包括的・全体的なものである。この包括的・全体的なものへの配慮・気遣いは、哲学において特に際立った仕方で表現されるわけだが、詩人においても、己の世界経験の中でもこの上なく特別で個人的な経験を私たちに伝えようとするとき、その伝達の意志を動機づけているのが、まさにこの配慮・気遣いなのである。
 驚きのうちに到来する世界の広大無辺さへと開かれてあること、それまで当たり前だと思っていたものすべてが新しい光の下にまったく不思議なものとして現れるという、まさに哲学的な感動と、あらゆるものにおける絶対的な個別性の詩的な自覚とは、対立するものではない。
 自己の個別的な部分を引き受けることは、自分の殻の中に縮こまっていることではなくて、まったく逆に、皆に共通な必要性によって限定された普段の生活の地平に閉じこもることを、「詩的」にも哲学的にも許さないその自己存在の唯一性の自覚を、ふさがることのない傷口として、疼かせ続けることなのだと、先生は言う。

Assumer sa singularité, ce n’est pas pour l’être humain se replier frileusement sur lui-même, mais bien plutôt garder vivant en lui, comme une blessure inguérissable, ce sentiment du caractère unique de son existence qui constamment l’arrache, poétiquement et philosophiquement, à tout enfermement dans l’horizon limité des besoins quotidiens (p. 55).

 私なりの言葉で、この最後の部分を言い換えてみれば、次のようになる。
 私たち一人一人の「ことなり」は、私たちを個別的特殊性の中に閉じ込めるものではなく、むしろ逆に、「ことなり」続ける広大無辺な世界への、各瞬間における「ひらけ」なのであり、その「ひらけ」をそれとして保持し続けることには、「痛み」が伴う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


間奏曲 ― 春到来、微風にそよぐ断想

2015-03-20 16:39:54 | 講義の余白から

 ダスチュール先生の対談の紹介、今日はお休みする(万が一、続きを期待されていた方がいらっしゃったら、ゴメンナサイ。明日、再開します)。休む理由? ちょっと休憩したいから。
 今日午前中の近世文学史の講義を終えて、今週の仕事はおしまい。先週はシンポジウムで、その間その他の仕事は全部脇に除けておいたから、先週末はその遅れを取り戻すために休息できなかった。身体的には疲れていない(水泳毎日続けていますよ)が、ここ二週間ほどずっと頭をフル回転させていた(大したことを考えていたわけじゃないが、本人としてはそれなりに真剣でした)ので、少し頭を休めたい。
 今、マリア・ティーポ演奏のバッハ『ゴールドベルク変奏曲』を、書斎の窓越し正面に見える、午後の陽光の中を微風にそよぐ、芽吹き始めたばかりの樹々を眺めながら、聴いている。時々、結局冬眠しなかったらしい小リス君が、春の到来が嬉しくてたまらないかのように、枝々を巧みに飛び移り、樹の幹を垂直にかけ登っていく。いったい何種類か数えていないけれど、小鳥たちがかわるがわる挨拶に来る。窓を開けたままにしてあるので、小鳥たちの歌声がスピーカーから流れる変奏曲と混じり合う。
 同曲のCDは、別にマニアじゃないけれど、ピアノ演奏とチェンバロ演奏合せて十数枚持っているが、この演奏が一番気に入っている。シフの新盤みたいなライブ録音ではないが、全曲を続けて録音したもので、幾つものテイクを切り貼りした録音ではないこともあるのだろう、自然な持続性が演奏全体から感じられる。これはまったくの素人考えだが、このイタリア人ピアニストは、類まれな柔軟で靭やかな腕の筋肉の持ち主なのではないのだろうか。この曲にかぎらず、どの演奏を聴いても、どんな強打のときも、いつも若干の余力を残していて、力強いのにまろやかに響く。それが疲れた耳にはことのほか心地よい。
 今日午前中の近世文学史の講義では、まず、蕉門俳諧理論のエッセンスである服部土芳の『三冊子』中の「不易流行」論の注解から入り、蕪村の名句評釈、一茶紹介はおまけ程度(人気はあるし、わかりやすいが、大詩人ではないから)、川柳と狂歌はそれぞれ二、三分で片付けて(興味があれば、自分で調べなさいと学生たちを突き放し)、前半終了。
 後半は、浄瑠璃について。まず近世初期の古浄瑠璃の成立過程をさっと辿り、義太夫節が浄瑠璃界を制覇するまで一筆書き、そして、いよいよ近世文学三人目の巨匠近松門左衛門の登場である。近松作品の全般的な紹介の後、穂積以貫『難波土産』の中の虚実皮膜論を読む。先の「不易流行」論とともに、こういう理論的な文章の分析はこちらも得意とするところなので、調子よく説明できた(と思う)。
 講義の最後は、『曾根崎心中』「天神森の段」冒頭の、かの荻生徂徠も絶賛した名文である道行文を私自身が音吐朗々と(?)読み上げた(気持ちよかったです、ハイ)後、YouTubeで見つけた同作品の竹本一座最近の公演録画から最終場面「天神森の段」を見せる。最後の心中場面は、皆、見入っていた。
 せいぜい五年が賞味期限の、浮かんでは消えていくような現代の駄文を学生たちに読ませざるを得なかった前任校での授業のことを思えば、こうして上代から近世まで、日本文学の選りすぐりの名文・名作を講義で読むことができるのは、本当に幸せなことである(それは私にとってだけで、学生たちにとっては「不幸」でしかないかもしれないが、そうではないことを祈る)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『到来するものを思惟する』(三)

2015-03-19 18:15:45 | 読游摘録

 昨日の続きで、同書の第二章で取り上げられているハイデガーの政治的関与に関する第二の問題点、ハイデガーの民主主義への「無関心」、さらには「軽侮」についての部分を紹介しよう。この問題にはちょうど一頁しか割かれていないので、およそ逐語的にその内容を追っていく。
 ダスチュール先生は、まず、今、現実的に、この問題を語ることができるだろうかと問う。そして、ついでに言えば、と前置きして、私たちのポスト・モダン性を考えるときに今や避けて通れない哲学者になっていると思われるニーチェについて、その激烈な民主主義批判と社会主義批判とを非難する人はほとんどいないが、その批判の中で、ニーチェは、民主主義に一つの堕落の形を見ており、社会主義は、凡庸な者たちと愚か者たちの専制だと見なしている、ということを指摘してから、ハイデガーについて話し始める。
 以下の二段落は、ダスチュール先生によるハイデガーの政治認識のまとめである。
 ワイマール共和国の挫折を目の当たりにしたハイデガーは、ニーチェとはまったく異なったことを言っているのであり、それは、技術万能時代に相応しい体制が民主主義であるとは「納得」できていないということであり、この時代にまさに相応しいのはどのような政治体制かという問題こそ、ハイデガーにとって「決定的に重要な問題の一つ」である、ということなのである。ハイデガーにとって、民主主義は、それが個人の優位に基礎づけられていたがゆえに、一九三三年に挫折しているのであり、共産主義もまた挫折しているのであり、それは、共産主義がある国民の歴史的実在にではなく、集団に与えられた優位に根拠づけられていたからである。
 このような歴史的政治的認識から、ハイデガーは、一九三三年に、一国民全体の意志を体現しうる「導き手」に運命を託すことを承認した。ハイデガーは、一九四六年に、『ヒューマニズムについての書簡』の中で、すでに一九三四年に言っていたことを繰り返すことになる。それは、ロシアもアメリカも、両者ともに科学技術の無制限の権能に従属しているのであるから、形而上学的観点からは同一である、ということである。
 私たちが今生きているこのグローバル化時代に相応しい政治体制はどのような体制か知ることは、私たちにとっても決定的に重要な問題の一つのままではないだろうか、とダスチュール先生は問う。その体制は、今日、ヨーロッパが力づくでその他の世界に押し付けようとしている民主主義なのだろうか。私たちが今日目の当たりにしているのは、あらゆる種類の寡頭政治(少数支配)に他ならない「民主主義」だが、その中で決定権を持っているのはいったい誰なのか。それは、実際的に国民だろうか、そうではなく、むしろメディアではないか。ところが、そのメディアもまた、世界規模の金融・産業・技術における権力の支配下にあるのではないか。政治家たちは、本当に国民の意志を代表しているだろうか。あるいは、彼らもまた、無名の諸力の権能に従属しており、その諸力が無際限な技術的発展という形を取っているのではないか。
 このような一連の開かれたままの問いとともにこの章は終わっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『到来するものを思惟する』(二)

2015-03-18 20:23:57 | 読游摘録

 ダスチュール先生とカベスタン氏の対談の第二章は、 « Heidegger, la question de l’être et du langage » というそのタイトルからもわかるように、ハイデガーが話題の中心である。先生は、フランスを代表するハイデガーの専門家で、その最もよき理解者の一人であり、ハイデガーについての著作も多い。
 同章二十頁のうちの十四頁余りは、先生がハイデガーにおいてもっとも根本的と考える問題を巡っているが、それは一言で言えば、タイトルにもあるように、言葉と存在の関係である。これはまた先生にとっての中心的な問題でもある。この部分は、それ自体が全体として優れたハイデガー哲学の解説になっていて、全部紹介したいところだが、それはこちらもしんどいので、フランス語をお読みになる方は、是非ご自分でご覧になってください(「逃げたな」、なんて言わないでくださいよ)。
 同章の残りの五頁余りは、ハイデガーの政治的関与についてのカベスタン氏の質問に答えている。特にナチズムとの関係というとてもデリケートな問題とハイデガーの民主主義の軽視という誤解を招きやすい問題とが取り上げられている。
 前者は、フランスでも、一九八〇年代以降しばらく大いに取り沙汰された問題で、論者の中には、ハイデガーの思想はナチズムのイデオロギーそのものだという極端な意見とともにハイデガー哲学全体を断罪する者もいる。他方には、「神格化」とまでは言わないが、ハイデガー哲学を絶対視する忠実な「弟子」たちがいる。ダスチュール先生は、ハイデガーのナチズムへの加担そのものは決して看過されてはならない大きな「過ち」であることを認めた上で、ハイデガー本人を巡る証拠立てられた歴史的事実と当時のドイツの社会・経済状況等を考慮しつつ、ハイデガーの立場を弁護する。特に、戦後のハイデガー批判が、一九三九年から一九四五年までのナチスの大量虐殺の事実の肩越しに、一九三三年のハイデガーのナチス党への加入と同年のフライブルク大学総長就任を見ていることを問題視している。
 その当時は、ハイデガーばかりでなく、後にナチス批判に転じるドイツ知識人たちの多くがナチスを支持していたこと(後に苛烈なハイデガー批判に転ずるヤスパースさえ、フライブルク大学総長就任演説をその哲学的含意において評価していた)。ヒトラーは、政権についた一九三三年から武力行使を辞さない好戦的態度を示していたわけではなく、一九三九年までは、むしろ社会主義者・平和主義者として振る舞おうとしていたこと。それゆえ、ヨーロッパに平和をもたらす可能性をもった政治家としてフランスやイギリスにも支持者がいたこと(フランスについては、哲学者のアランの例、イギリスについては、当時ドイツを訪問した際に、ヒトラーに「ドイツのジョージ・ワシントン」を見ていた前首相ロイド・ジョージの例が挙げられている。さらには、ユダヤ系アメリカ人で、当時パリに住んでいた詩人・作家・女性運動家ゲルトルート・シュタインは、一九三四年に、ヒトラーをノーベル平和賞(!)候補として推挙していたことが指摘されている)。当時のドイツ社会は工業の疲弊と株式の暴落で失業率が二五%に達していたこと。ハイデガーの社会思想は社会主義者のそれにむしろ依拠していたこと。これらの点を論拠として挙げながら、ハイデガーの立場をいわば相対化し、一方的な断罪から救おうとしている。
 一九三四年に大学総長を辞任して以後も終戦までナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)員のままだったのも、彼のようにすでに著名な哲学者が脱党すれば、自分にだけでなく、家族にも死刑判決まで下されることもありえたからではないかと先生は推測する。その箇所を原文で引いておこう。

Et s’il est demeuré adhérent du Parti national-socialiste après sa démission et jusquà la fin de la guerre, n’est-ce pas parce que le fait de quitter le parti, en particulier pour un philosophe aussi célèbre qu’il l’était déjà, pouvait signifier jusqu’à un arrêt de mort pour lui-même et les membres de sa famille ? (p. 46)

 私は、自分自身で十分に当時のドイツの状況を調べていないし、ハイデガーのテキストも読み込んではいないわけであるから、先生のハイデガー弁護論に対して反論などはとてもできないが、この箇所を最初に読んだとき、正直に言うと、先生が情況証拠を積み重ね、その弁護が冴えれば冴えるほど、逆にそれに説得されない自分を見出していたのである。それがなぜなのかをはっきりさせるのが、今後の自分の課題である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『到来するものを思惟する』(一)

2015-03-17 13:40:06 | 読游摘録

 Françoise Dastur, Penser ce qui advient. Dialogue avec Philippe Cabestan, Les Dialogues des petits Platons, 2014, 160p.
 この本は、八章に分かれていて、最初の章 « À l’école de la phénoménologie » では、ダスチュール先生の生い立ちと、現象学へと自分の哲学探究の方向を定めていくまでの経緯とが語られている。
 哲学に限らないことだが、フランスは今でもエリート主義が幅を利かせていて、そのような特権層に自分の家庭が属していないと、それぞれの分野の選ばれたグループの中に入り込むことはきわめて難しい。
 ダスチュール先生は一九四二年リヨン生まれで、一九六一年に大学に進学するが、その頃はまさに学問の世界でもエリート主義が大手を振って歩いていた時代である。一方、労働者階級の子供たちは、親と同じような職業か、あるいは同レベルの職業に、できるだけ早く就くのが普通で、大学進学などほとんど夢の様な話だった時代である。ましてや先生は女性である。
 そのような時代に先生が生まれた家庭は、そのエリート階級とは天地の差がある労働者階級に属していた。父親は、不安定な立場の工場労働者、母親は、家政婦としてフルタイムで働いていた。先生の上には数人の兄弟姉妹がいて、生活はきわめて苦しかったところへ、先生の誕生はいわば「予定外」であったらしい。しかも、第二次世界大戦中であり、ドイツ占領下、フランスは物資の欠乏に喘いでいた。
 そのような極貧の環境にありながら、先生は早くから読書に目覚め、様々な手段を使って本を借りては貪り読んだという。最初は、古典文学に特に惹かれ、そこからプラトンへと導かれていった。しかし、その間、父親の失業など、生活の困難は続き、高校では、いわゆる伝統的な一般進学コースではなく、卒業後にすぐ専門の職業訓練に入るコースに通っていて、そのままであれば、秘書か会計の仕事に就くのが普通であったらしい。
 しかし、学業優秀だった先生は、さらに学業を続けたいという意欲が高まっていくのをどうすることもできなかった。家族をはじめ、周りの理解と応援に助けられ、職業訓練コースから一般コースに転学し、さらにはエリート・コースに乗るためには入らなくてはならないグラン・ゼコールを目指す準備学級へと特別に入学許可を得た。
 一九六〇年に全国哲学コンクールで一等賞に輝き、翌年ソルボンヌ大学に入学する。奨学金ももっとも高額なものを獲得する。しかし、猛烈な勉強を続ける一方で、家庭教師などアルバイトをいくつも続けなくてはならず、学部二年生の終わりには、病気で倒れてしまう。
 翌年、幸いなことにドイツ政府給費留学生に選ばれ、かつては現象学のメッカでもあったフライブルク大学に一年間留学する。この一年間は、お金の心配から解放され、思う存分勉強し、ヒンディー語やサンスクリット語の勉強まで始め、一時は哲学からインド研究に転じようかと真剣に迷ったという。
 留学後、ソルボンヌでは、特にポール・リクールとジャック・デリダの講義と演習に熱心に出席し、そこでフッサール現象学について多くを学ぶ。その傍らで、ハイデガーの『存在と時間』を多大な困難とともに読み始める。そのような集中的な現象学の勉強の中で、特に関心をもったのが言語の問題。修士論文のテーマとして「ハイデガーにおける言語と存在論」を選び、その指導教授はリクールであった。
そして、一九六八年、並みいる「エリート」たちを抑えて、哲学のアグレガシオンで第一位を獲得する。以後、大学の哲学教師としてのキャリアが始まる。
 ご自身でも認められているように、先生のようなケースはきわめて稀である。しかし、このような、苦難を乗り越えて栄冠を獲得するという一見アメリカ風「サクセスストーリー」を、先生ご自身は、一方では、そのための自分の弛みない努力があったことを認めつつ、他方では、その中で人との数々の幸運な出会いがあったことを同じくらい強調される。先生の人に対する別け隔てのない開かれた暖かい心は、その両方が相まって培われたのであろう。
 この章の最後には、形而上学終焉後、より端的には、ポスト哲学の時代であると先生がみなす現代に求められる「思想」の仕事は、どのような仕事であるべきかが述べられている。ハイデガーに依拠しつつ、ヘーゲルが言うところの「黄昏時に翔ぶミネルヴァの梟」のような哲学に替わる「思想」の使命を次のように規定する。

[...] la tâche de cette pensée qui reste à venir et qui ne serait plus métaphysique consisterait au contraire à s’ouvrir à ce qui advient et à tenter de dire cette entrée en présence de tout l’apparaître qui se dérobe sans cesse à la prise de nos concepts (p. 27). 

この来るべき、もはや形而上学的ではない思想の仕事は、それ[=ヘーゲル的な哲学]とは反対に、到来するものへと己を開き、私たちの持っている諸概念による把握を絶えず逃れる現れるということまるごとの現前化を言い表そうとすることでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


小プラトン対話

2015-03-16 17:55:11 | 読游摘録

 二年ほど前からだろうか、 « Les Dialogues des petits Platons » (「小プラトン対話」)という、ちょっと変わった名前のコレクションが出版されている。出版社もこのコレクションと同じ名前で、奥付によれば、パリにある。
 一冊ごと、現役のフランス人哲学者たち一人一人に、その人をよく知る研究者が質問するという形式になっている。その人の哲学との出会いから、若き日の学業、様々な人との出会い、その哲学者が特に大切にしているテーマ等について、エピソードを混じえて話が展開されていく。ときにはかなり突っ込んだ議論も展開されているが、一般読者を対象としているので、文章は概して平易で読みやすい。好企画だと思う。
 私が最近読み終えたのは、その人を直接知ってもいるフランソワーズ・ダスチュール先生とフィリップ・カベスタン氏との対談である。その他すでに購入してあり、これから読むつもりなのは、私のDEAの指導教授でもあったジャン・リュック・ナンシー先生、ご本人とは面識がないが、その日本人の奥様を存じ上げているヴァンサン・デコンブ氏、書物でのみ学恩を受けているピエール・マニャールやジャン・フランソワ・マルケなどある。
 それぞれその哲学者の関心の焦点を示唆するようなタイトルが付けらていて、ダスチュール先生のは、Penser ce qui advient となっている(二〇一四年出版)。よき対談相手を得て、先生のお人柄がよく出た好対談である。カベスタン氏の切り込みはときに鋭く、ダスチュール先生もそれを真正面から受け止めて、真摯に応えている。特に、ハイデガーに割かれたページ数は多く、そこでは、教育的配慮とでも言おうか、非常に懇切丁寧な仕方で、かつ平明なフランス語で、ハイデガー哲学についての一般の誤解を解きつつ、彼女がハイデガーをどう読み、どう評価しているかを説明している。
 明日から、何回か、原本のフランス語そのものをところどころ引用しながら、同書を紹介していこう。
 因みに、この五月末にパリで開かれる研究集会で私も発表する École française de Daseinsanalyse(現存在分析フランス学会)の名誉会長がダスチュール先生で、二人の会長のうちの一人がカベスタン氏である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「おもてなし」としての質問 ― 質問の作法について

2015-03-15 08:21:55 | 雑感

 一昨日までの三日間参加した国際シンポジウムで、私はほぼ全部の発表について質問しました。それは、自分を目立たせるためなのではまったくなく(そんなことして何になるのか私は知りません)、単なる個人的な関心からだけでもなく、一つの「礼法」として、そうしたのです。
 参加者の中には、それを理解してくれた方々もいます。しかし、他方では、肝腎の主催者の側にそれがよくわかっていない人がいることが今回はっきりして、正直、ひどくがっかりしました。その落胆は、自分の意図が理解してもらえなかったという、個人的な理由によるものではありません。問題は、もっとも基本的なことに関して、大切だと考えていることに決定的な「ずれ」があるということです。
 そもそも、私は、こういう打ち上げ花火的な「学際的」シンポジウムには、学問的な価値を、あまりどころか、ほとんど認めることができません。なぜなら、それぞれの分野について、専門家が一人しか参加しておらず、だれもその人の発表について、本当には理解してもおらず、また理解しようという努力もせず、せいぜい「興味深いお話をありがとうございました」が関の山であるからです。だから、みんな本気で質問しようともしません。
 もちろん、他分野の発表が自分の研究のヒントになることはあります。それは私も認めますし、私自身しばしばその恩恵にも与っています。それは楽しみでさえあります。今回もそうでした。しかし、その場で議論が深まるということはまずありません。それがありうるとすれば、それぞれの専門分野を超えて、共通する問題を引き出し、それについて討議するという姿勢が参加者たちに共有されている場合だけです。今回それがあったとは言いがたいし、そもそもそのような方向にもっていくための時間さえありませんでした。
 私は、これらのことを承知のうえで、なんとかしたかったのです。だから、質問したのです。でたらめに自分勝手に質問したのではありません。ちゃんと質問のタイプを考え、抑制したかたちで質問したのです。それを「長い」とか言われるのですから、話になりません。いったい何のためのシンポジウムなのでしょうか。終わってしまえば、ただ虚しさだけが残る、ただのお祭り騒ぎなのでしょうか。
 今回のシンポジウムには、それぞれのパネルにモデラトゥール(modérateur)が配されました。このモデラトゥールは、本来、単なる司会進行・タイムキーパー役などではなく、何よりも発表後の議論の調整・まとめ役で、場合によっては、議論の口火を切る役でもあります。ところが、今回その役目を果たしたモデラトゥールは、一人もいませんでした。しかし、それは彼らの責任ではなく、時間の制約から、そもそも議論ができないのですから、彼らにできたことは、せいぜい、「質問はありますか」という、何も理解しないまま誰でも言える決まり文句を繰り返すことだけでした。そんなモデラトゥールなら、いらないのではないでしょうか。それこそ、時間の無駄であり、いたずらに参加者を増やすだけにおわるのではないでしょうか。
 それはともかく、共通の問題場面を開くための「公共」の場での質問には、私は三タイプあると考えています。そして、それは、単に個々の質問のタイプの問題ではなく、質問の順序と段階の問題でもあります。
 まず、発表者のための質問。これは、時間の制約ゆえに、話したいことを話しきれなかった発表者が特に付け加えたいところを見抜いて、その点について質問し、発表者に補足の時間を提供するための質問です。
 次が、聴衆のための質問。これは、聞き手がもっと聞きたい、もう少し説明してほしいと欲する点を察知し、その点について、発表者から答えを引き出すことを目的とした、よく限定された質問です。
 そして、最後に質問者自身のための質問。これは、上記の二つのタイプの質問が終わった上で、特定の論点についての質問者個人の問題意識からする質問です。このタイプの質問が最後に来るのは、上の二つのタイプの質問に一致していれば、特に必要がないからです。一方、この段階では、質問の中に、疑義や批判を込めることも当然あり得ます。
 一言で言えば、シンポジウム参加者には、だれが主催者か招待者かということも場合によっては超えて、参加者全員相互に、「ホスピタリティ」(「おもてなし」)の作法としての質問の仕方があるだろうと私は言いたいのです。
 しかし、残念ながら、そういう質問の作法が遵守され、活発で実りある討議に至ることは、稀なことであり、時間通りに進行することが第一優先され、「予定通り」終了すれば、メデタシメデタシ、拍手、で終わりです。
 そして、独り帰途、やがて悲しき灯の明かり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


国際シンポジウム「『間(ま)と間(あいだ)』― 日本の文化・思想の可能性」三日目

2015-03-14 15:15:45 | 雑感

 シンポジウム三日目は、ストラスブール大学で行われた。
 参加者は、私も含めて全員 CEEJA に滞在していたので、この日は朝九時出発のチャーターバスでのストラスブールへの移動から始まった。バスに乗り込むとき、副所長から「ストラスブールに入ったらみんなに説明してちょうだいね」と、何を説明するのかの説明を受けずに頼まれ、半信半疑のまま、道中の風景を眺めつつ、同乗の参加者たちと談笑していた。
 ストラスブールまでは車でおよそ一時間、いくら時間に余裕を見るといっても、十一時から始まるシンポジウムの会場には早く着きすぎるなあとは疑問に思っていたのだが、十時過ぎにバスがストラスブール市内に入り、直接会場に向かわず、ヨーロッパ議会に向かって近づいていくのを見て、はたと悟った。「そうか、ストラスブールが初めての参加者の方々のためにバスガイドの役をしろ、ということか」と、運転手に確認すると、案の定、市内の主な観光スポットをグルッと回ってから会場に行くように、彼には予め指示が出ていたことが判明した。そうとわかれば、「こんな話、全然聞いていないよなぁ」と不満に思いつつも、昔から世話になっている副所長から頼まれた以上「覚悟を決める」しかないと、やおらにわかバスガイドを始めたわけである。
 実を言うと、元来こういうことは苦手ではなく、嫌いでもないのである。まあ適当に笑いを取りながら、あることないこと取り混ぜて、役目を果たしたところで、無事会場にちょうどいい時間に到着した次第である。私のテキトー迷ガイドは、同乗の参加者たちの好評を得たことをここに記念として記しておきたい。
 さて、肝腎のシンポジウムの方であるが、日本学学科の学生たちに動員をかけたこともあり、多いときには、七八十人の聴衆がいたのではないかと思う。
 午前は三つの発表。それぞれ「侘び茶の「間」について」、「日本とブラジルの版画における「間」の空間 / 時間」、「擬似家族の「間」と「茶の間」― 「男はつらいよ」の反復とずれ ―」というタイトル。最初の発表中に、機器のトラブルや聴衆の一人であった学生が貧血で倒れたりと、アクシデント続きで、しばらく会場がざわついてしまったのが、発表者には気の毒であった。午前最後の三番目の発表のときには、機器も正常に機能し、「男はつらいよ」のいくつかのカットのアングルの設定についての細かな分析も見ることができて、何よりであった。この三番目の立命館大学映像学部教授の冨田美香先生の発表が、映画については無知な私にとって、映画作りの機微にちょっと触れることができる機会となり、ことのほか面白かった。
 午後も三つの発表。タイトルは、それぞれ「所作と所作をつなぐ意識 ― 能楽と〈間〉」、「歌舞伎における間の考察」、「落語の〈間〉」。最初の発表中に、またしても機器のトラブルに見まわれ、発表者である法政大学能楽研究所長の山中玲子先生は、せっかく準備されてきた映像を思うように聴衆に見せることができず、お気の毒であったが、その場をご自身の手振りや声色で乗り切られたのはさすがであった。
 その後の二つの発表ともいずれも舞台芸能を対象としており、私にとって、いずれもきわめて興味深い内容であり、こちらの思考を刺激され、さまざまな思考のヒントを頂戴した。いろいろお三方に質問したかったのだが、時間の都合でそれも無理だったので、私は三人の発表者の方々に同一の質問をし、それにそれぞれの立場から答えていただくという形をとった。
 以下がその質問である。
 「間(ま)」の定義のし難さの理由の一つは、演者によって「生きられている間」と考察の際の「対象化された間」とのずれ、あるいは共約不可能性にあるのではないか。この困難を了解した上で、「間」の経験に迫るために、「持続(性)」と「分節化」という、二つの概念を導入することには、一定の有効性を認めうるだろうか。
 この問いは、三人の発表者の方々にとっては、唐突な問でありかつあまりにも「哲学的」であったこともあって、はかばかしい回答は得られなかったが、それは無理もない話である。むしろ、私自身で、この問題について、今後もう少し考えを深めておきたいと思う。
 研究発表がすべて済んだ後は、会場を変えて、林家正雀師匠の落語を聴く。昔話「千両役者」が演目。私を含め、日本人たちはもちろんのこと、日系ブラジル人の方たち、日本語に堪能な私の同僚たちなどは、話を十分に楽しむことができたが、学生たちにはちょっとむずかしかっただろう。実際、今朝早速、三年生の中で最も優秀な女子学生が宿題のレポートを送信してくれたが、それを見ても、表情・声色・仕草・顔の向き・視線等によって登場人物が変わっていることはわかったが、「ストーリーにはついていけなかった」と率直に書いてあった。それにしても、フランスで生の落語を聞ける機会はめったにないので、彼らにとって貴重な経験であったことは間違いない。
 落語の後は、このシンポジウム最後の夕食会。場所は、ストラスブール市内の名店の一つ、カテドラルのすぐ近くの Chez Yvonne。この三日目の会食もとても楽しいものだった。
 その晩はCEEJAに戻ってあと一泊してから帰国の途に着かれる参加者たち(さらにホテルに一泊ないし二泊される方も中にはある)に、チャーターバスの乗り場で別れを告げ、CEEJAのスタッフの一人の車で自宅まで送ってもらった。これで今回のシンポジウムへの参加も無事終了したわけである。めでたしめでたし(何がめでたいんだか知らないが)。
 今年度内(つまり今年の八月末まで)のシンポジウム参加は、これが最後。次に予定されている研究発表は、五月三十日のパリの「現存在分析フランス学会」の研究集会での「日本社会における羞恥心」についての発表である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


国際シンポジウム「『間(ま)と間(あいだ)』― 日本の文化・思想の可能性」二日目

2015-03-13 08:26:21 | 雑感

 昨日12日のシンポジウム二日目は、朝十時から午後六時まで、昼食を挟んで、六つの発表と一つの講演。
 午前中の最初の発表は、京都大学の藤田正勝先生の「間(ま)と間(あいだ)と間(あわい)」についての発表。日本の文学・芸術・思想・宗教に見られる様々な「間」の具体例を上げながら、それらの創造的時空間としての根源性を浮かび上がらせるという興味深い内容。それぞれに深めるべき論点を含んでいる例示だったが、三十分という発表時間に制約されて、省略された論点も多く、議論を深めることができなかったのが惜しまれる。二番目が私の発表。これも三十分の時間におさめるためにかなり省略したし、その場で口頭の要約に替えた部分もあったが、議論の大筋は示すことができた。三番目が、サンパウロ連邦大学の先生の発表。芸術における「間」に対する記号論的アプローチというテーマ。パースの記号学と連続性の哲学に依拠したそのアプローチは、私にはとても斬新で、大変興味深く、面白く聴くことができた。三つの発表の後、発表者と会場との質疑応答。それぞれの発表にいくつか質問が出て、それに対する回答からまた次の議論につながるような発展も生まれた。私の心身景一如論への反応もいろいろとあって、発表者としてはまずまず手応えがあった。
 昼食後は、オーギュスタン・ベルク先生の日本語での講演。タイトルは、「〈ま〉と〈あいだ〉は論理や自然科学にもあり得るか ― 情理のパラダイムへ向けて ―」。二値論理から三値論理へという拡張或は移行ではなく、二値の「あいだ」あるいは「ま」という、両値のいずれにも還元不可能な、それらの分節化を視野に収めるパースペクティブを開く鍵としての「ま」あるいは「あいだ」に新しい知のパラダイムの可能性を見るという、先生の風土学を理論的背景とした内容。講演後の参加者との質疑応答にも十分な時間があり、一つ一つの質問に、日本語あるいはフランス語で丁寧に先生は答えられていった。
 講演後は、日本文学に関する三つの発表。発表者は、詩人で東洋大学教授の福田拓也先生、立教大学の鈴木彰先生、パリ極東フランス学院のフランソワ・ラショー先生。それぞれ「万葉集の表記における「間」の反復」「『平家物語』本文と挿絵・註釈の間-十七世紀における物語解釈について」「間と間の変奏曲 ― 泉鏡花と能楽に関する一考察」というタイトル。
 私には、すべての発表がとても面白く、私一人でほとんど三十分の質疑応答時間を独占するような結果になってしまい、後でCEEJAの副所長からは、「質問が長い」と注意されてしまった(これが初めてではないが)。しかし、これは私の質問に対する発表者からの回答の方も長かったということでもあり、私ばかりのせいとは言えないと思うのだが。それに、他に質問したい人がいたのに、私のせいで質問する時間がなくなったというわけでもなかった(我先にと質問したのではなく、会場を見回して、他に挙手している人がいないのを確かめてから、挙手した。あるいは死角になっていて見落としたかもしれないが)。むしろ、他の参加者の中は、私の質問によって気づかされたこともあり、それに対する発表者の回答によって、さらに問題の理解が深まったといってくださった方もあったから、シンポジウムを盛り上げるのにそれなり貢献したとさえ言いたいのだが、これは少し傲慢だろうか。
 発表終了後は、ワイン街道沿いの村で、最も美しい村としてよく知られたリックヴィールの名店の一つ Le Sarment d’Or でほぼ全員の参加者たちで夕食会。木曜日ということもあり、貸切状態、各テーブル哄笑が絶えないしい会食であった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


国際シンポジウム「『間(ま)と間(あいだ)』― 日本の文化・思想の可能性」初日

2015-03-12 01:02:40 | 雑感

 昨日11日から、CEEJAとストラスブール大学での三日間に渡る国際シンポジウムが始まった。
 そのタイトルは、今日の記事の通り。初日の昨日は、午前中の詩人吉増剛造氏の講演・パフォーマンスから始まった。これが素晴らしかった。
その場で生まれてくる詩人の言葉に間近で触れ、物から聞こえてくる「声」や言葉と言葉の隙間から漏れてくる「声」に耳を澄ましそれを聴き取ろうとする詩人の姿を目の当たりにし、そして、詩人としての日々の身体的実践がいかなるものかを垣間見ることができた。本当に得がたい経験だった。
 しかも、今回のシンポジウムのテーマを、詩が生まれてくる場所の問題として、ご自身のその現場から捉えられた、とても深い内容を湛えた言葉の数々であった。聴きながら、こちらの思考が沸騰するかのように刺激されるのを覚え、始まりかけた思考の痕跡を残すべく、殴り書きのメモを書きつけた。
 吉増氏とストラスブールとの縁は深い。十六年前には、その詩集『オシリス、石の神』の仏訳出版を記念して、市内の書店で講演をした事があった。そのとき日本語学科の講師をしていた私は、同僚がその仏訳を講演中に朗読することもあり、その講演会に出席し、お目にかかったのが最初だった。翌年、同学科で折口信夫についての講演をしていただいたこともあった。その講演の席には、彼の詩の仏訳を著作の一つで引用したことがあったジャン・リュック・ナンシー先生もいらっしゃっていたのを思い出す。
 午後は、ブラジルの大学の先生方三人のご発表。日本語と日本社会における間(ま)と間(あいだ)という括りのパネルだった。そのテーマに学術的研究として切り込むだけの明確な視角と方法論を持っていたとは言いがたい発表内容ではあったが、私なりにその中から問題を拾い上げ、それぞれの発表者に質問した(これには、「ホーム」側としての「挨拶」という意味ももちろんあったことは認める)。
 夕食は、コルマールのいつものレストラン Aux trois poissons(昨年九月二十六日の記事に貼ったリンク参照)で、参加者全員での楽しい会食。同席したブラジル日系人の先生方が話して下さった現地の日系社会での経験は、私には初めて耳にする話ばかりで、本当に目を開かれるような思いであった。