内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

近くの現象学(四)― 知識としての「哲学」から実践としての〈哲学〉の道具を引き出す

2015-03-07 00:00:00 | 哲学

 何事を学ぶにせよ、方法は必要ですね。
 「世界を見ることを学び直す」にも、だから、やはり方法が必要でしょう。その方法には、いろいろありうると思います。いわゆる哲学だけの専売特許でもありません。しかし、いずれの方法を選択するにせよ、その選択以前の、あるいは選択にあたっての心構えというようなものがあるのではないかと私は思っています。そのことを説明するために、今日は、一つの思い出話をいたしましょう。
 もう十年前のことになりますが、東京のある大学の哲学科で、学部二年の「現代思想」という科目名の講義を後期だけ担当させていただいたことがありました。日本の学部での講義というのは、後にも先にもこれっきりで、私にとって大変貴重な経験でしたし、今でもとてもいい思い出です。五十名ほどの学生さんたちが出席していましたが、皆さん大変熱心に聴いてくださいました。毎回講義の終わりにB5の紙片にその日の講義内容についての感想・質問を書いてもらい、翌週の講義は、それらに対して応答することから始めるようにして、できるだけインターラクティブな授業になるように心掛けました。講義の期間中に、メールで感想や質問を寄せてくれた学生さんたちも少なからずいました。
 「現代思想」とかいうと、現代の欧米の著名な哲学者たちの紹介みたいな内容の講義になることが多いのかもしれませんが、そんな内容だったら、巷に出回っている手際の良い解説本を何冊か読めば足りることなので、そのときの講義は、「現代において哲学するとはどういうことなのか」というメインテーマの下、哲学の基本問題十題を掲げ、まだ日本語に訳されていない、当該分野の研究者でもなければ名前も知らないようなフランスの現役の哲学者たちの著作の中から一冊ずつ紹介しながら、毎回一話完結ならぬ一題完結で問題を検討するという形にしました。
 受講生は学部二年生ですから、まだ本格的な哲学書を読んでいない学生さんがほとんどでしたし、これから何をどうやって勉強していっていいのかまだよくわかっていない段階にあるのが普通でした。そこで初回は、哲学を勉強するにあたっての気持ちの準備というか、心構えというか、そんなことについて、自分の経験に即して、話そうと思いました。というのも、いわゆる哲学書を読むことや、哲学史についての知識を身に付けることが哲学の始まりなのではない、ということをわかってほしかったからなのです。
 その講義で、私が学生たちにまずわかってほしかったことは、将来なんらかの哲学の研究者になりたい人たちにとって必要ないわば予備的職業訓練と、それ以外のどんな職業につき、どこでどのような生活をするにしても、その生活の場で実践できる哲学及びそのために有効な学び方とは、互いに異なっており、両者をしっかりと区別しなければいけないということでした。
 そして、いかにそれが逆説的に響こうとも、そのとき私が強調したことは、大学の哲学教師は、後者の意味での哲学を教えるにあたって、その適性を欠いているか、あるいは、それが可能な環境に置かれていないことが、残念ながら、珍しくない、ということでした。彼らは、職業的哲学研究者になるための訓練は受け、しかもその点において優秀であったからこそ、大学で哲学を教えるポストを得たわけですが、そのことは、しかしながら、彼らが哲学を実践しているということを、直ちに意味しないどころか、ほとんどの場合、少しも意味しないからです。科目としての「哲学」を、他の学科・学部でと同じように、しかも最近では「社会で役に立つ」とされることにかぎって(少なくとも建前上)、教えているだけであり、しかも個人単位で成績をつけるという前提のもとにそれを行っているにすぎないのです。
 このように、自分のことを棚に上げて(過去の記事をお読みの方はすでにご承知のように、私の第一の得意技です)、自己矛盾的とも取れる物言いをそのときしたのは、そのような職業的哲学研究者の方々を非難することを目的としてのことではもちろんなく、彼らが大学という制度の中に置かれていることからほとん不可避的に発生してしまう、こうしたパラドクシカルな状況に学生たちの注意を促し、では、そんな状況の中で、哲学科の学生として、何をどう学んだらよいのか、という問題を、学生たちと一緒に考えるためでした。
 その日は、結論として、次のように述べて講義を締め括りました。
 「哲学」の授業でほんとうに学ぶべきこと・身に付けるべきことは、知識としての哲学を記憶することではなく、ましてや、教師たちのように哲学を語れるようになることではなく、彼らの教科内容から、哲学するために必要なものを自ら引き出すこと、言い換えれば、知識としての「哲学」から、実践としての〈哲学〉に必要とされる心構え・姿勢・態度・物の見方そして道具を自ら掴み取ることなのです。