ダスチュール先生の対談の紹介、今日はお休みする(万が一、続きを期待されていた方がいらっしゃったら、ゴメンナサイ。明日、再開します)。休む理由? ちょっと休憩したいから。
今日午前中の近世文学史の講義を終えて、今週の仕事はおしまい。先週はシンポジウムで、その間その他の仕事は全部脇に除けておいたから、先週末はその遅れを取り戻すために休息できなかった。身体的には疲れていない(水泳毎日続けていますよ)が、ここ二週間ほどずっと頭をフル回転させていた(大したことを考えていたわけじゃないが、本人としてはそれなりに真剣でした)ので、少し頭を休めたい。
今、マリア・ティーポ演奏のバッハ『ゴールドベルク変奏曲』を、書斎の窓越し正面に見える、午後の陽光の中を微風にそよぐ、芽吹き始めたばかりの樹々を眺めながら、聴いている。時々、結局冬眠しなかったらしい小リス君が、春の到来が嬉しくてたまらないかのように、枝々を巧みに飛び移り、樹の幹を垂直にかけ登っていく。いったい何種類か数えていないけれど、小鳥たちがかわるがわる挨拶に来る。窓を開けたままにしてあるので、小鳥たちの歌声がスピーカーから流れる変奏曲と混じり合う。
同曲のCDは、別にマニアじゃないけれど、ピアノ演奏とチェンバロ演奏合せて十数枚持っているが、この演奏が一番気に入っている。シフの新盤みたいなライブ録音ではないが、全曲を続けて録音したもので、幾つものテイクを切り貼りした録音ではないこともあるのだろう、自然な持続性が演奏全体から感じられる。これはまったくの素人考えだが、このイタリア人ピアニストは、類まれな柔軟で靭やかな腕の筋肉の持ち主なのではないのだろうか。この曲にかぎらず、どの演奏を聴いても、どんな強打のときも、いつも若干の余力を残していて、力強いのにまろやかに響く。それが疲れた耳にはことのほか心地よい。
今日午前中の近世文学史の講義では、まず、蕉門俳諧理論のエッセンスである服部土芳の『三冊子』中の「不易流行」論の注解から入り、蕪村の名句評釈、一茶紹介はおまけ程度(人気はあるし、わかりやすいが、大詩人ではないから)、川柳と狂歌はそれぞれ二、三分で片付けて(興味があれば、自分で調べなさいと学生たちを突き放し)、前半終了。
後半は、浄瑠璃について。まず近世初期の古浄瑠璃の成立過程をさっと辿り、義太夫節が浄瑠璃界を制覇するまで一筆書き、そして、いよいよ近世文学三人目の巨匠近松門左衛門の登場である。近松作品の全般的な紹介の後、穂積以貫『難波土産』の中の虚実皮膜論を読む。先の「不易流行」論とともに、こういう理論的な文章の分析はこちらも得意とするところなので、調子よく説明できた(と思う)。
講義の最後は、『曾根崎心中』「天神森の段」冒頭の、かの荻生徂徠も絶賛した名文である道行文を私自身が音吐朗々と(?)読み上げた(気持ちよかったです、ハイ)後、YouTubeで見つけた同作品の竹本一座最近の公演録画から最終場面「天神森の段」を見せる。最後の心中場面は、皆、見入っていた。
せいぜい五年が賞味期限の、浮かんでは消えていくような現代の駄文を学生たちに読ませざるを得なかった前任校での授業のことを思えば、こうして上代から近世まで、日本文学の選りすぐりの名文・名作を講義で読むことができるのは、本当に幸せなことである(それは私にとってだけで、学生たちにとっては「不幸」でしかないかもしれないが、そうではないことを祈る)。