内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ヴァロアの古国に響くフランスの心 ― トクヴィルとネルヴァルにおける「失われた時」(二)

2014-12-11 07:32:39 | 随想

 ネルヴァルの名作『シルヴィ(Sylvie)』は『火の娘たち(Les filles du feu)』という作品集に収められており、邦訳は筑摩書房のネルヴァル全集第五巻に収録されている。「ちくま文庫」からも『火の娘たち』が出版さているが、どちらも未見なので、同一訳なのか後者が前者の改訂版なのかどうかはわからない。『シルヴィ』は近代フランス文学の代表的な名文としてフランス語学習の教材としてもよく使われるからだろう、『大学書林語学文庫』シリーズの一冊としても出版されている。フランスでは、もちろんのこと、多数のポッシュ版が出ていて、いつでも簡単に入手できるし、専門家による研究も多数、解説書の類にも事欠かない。
 日本の一流の仏文学者による立派な邦訳があるのに素人の私が拙訳を掲げるのは、いくら自分のブログの記事の中でのこととはいえ、作品そのものに対する冒涜と言っていいだろうし、邦訳者の方にも失礼極まりない愚行であるから、原文をそのまま掲げ、おおよそ中身がわかるような意訳にコメントを加えるという形で、今日明日の二回に分けて、「アドリエンヌ」全文を読む。

 Je regagnai mon lit et je ne pus y trouver le repos. Plongé dans une demi-somnolence, toute ma jeunesse repassait en mes souvenirs. Cet état, où l’esprit résiste encore aux bizarres combinaisons du songe, permet souvent de voir se presser en quelques minutes les tableaux les plus saillants d’une longue période de la vie.

 語り手は、うまく寝付けずに、ベッドで微睡みの中に沈んでいる。すると、少年だった頃のことが次々と思い出されてくる。このとき精神は、もう日常の現実世界から離脱し始めているが、まだ半覚醒状態で、夢の中でのような奇妙なイメージの結合に対してはまだ抵抗を続けている。つまり、夢と現とのあわいという境界領域を精神が彷徨っている状態である。こんな状態にあるとき、長い人生の中で際立った出来事の場面が何分かの間に押し寄せて来ると語り手である「私」は言う。
 以下の場面は、だから、自分の少年期に現実にあった出来事の想起ではあるのだが、その出来事が夢と現とのあわいという「今ここではないところ」に立ち現れることで、現実の時間性から解放される一方、どこにもないものの夢想の儚さに陥ることもなく、それ固有の現実性が純化され、きわめて美しい表現として結晶化している。

 Je me représentais un château du temps de Henri IV avec ses toits pointus couverts d’ardoises et sa face rougeâtre aux encoignures dentelées de pierres jaunies, une grande place verte encadrée d’ormes et de tilleuls, dont le soleil couchant perçait le feuillage de ses traits enflammés. Des jeunes filles dansaient en rond sur la pelouse en chantant de vieux airs transmis par leurs mères, et d’un français si naturellement pur, que l’on se sentait bien exister dans ce vieux pays du Valois, où, pendant plus de mille ans, a battu le cœur de la France.

 古色を帯びたアンリ四世時代のお城がまず描出される。そして、夕日がその燃えるように赤い光線で木の葉を突き刺している楡と菩提樹で囲まれ、緑に彩られた大きな広場へと場面は転ずる。その広場では、少女たちが芝生の上に輪になって、母親たちから教わった古い歌を歌いながら踊っている。その飾り気のない純粋なフランス語は、千年以上もの間フランスの心が鼓動してきたヴァロアの古国に今自分が立っているのだということを実感させてくれる。広場に響く少女たちの歌声は、長い歴史の中を生き続ける〈フランス〉の精髄そのものの現前に他ならない。

 J’étais le seul garçon dans cette ronde, où j’avais amené ma compagne toute jeune encore, Sylvie, une petite fille du hameau voisin, si vive et si fraîche, avec ses yeux noirs, son profil régulier et sa peau légèrement hâlée !... Je n’aimais qu’elle, je ne voyais qu’elle — jusque-là ! À peine avais-je remarqué, dans la ronde où nous dansions, une blonde, grande et belle, qu’on appelait Adrienne. Tout d’un coup, suivant les règles de la danse, Adrienne se trouva placée seule avec moi au milieu du cercle. Nos tailles étaient pareilles. On nous dit de nous embrasser, et la danse et le chœur tournaient plus vivement que jamais. En lui donnant ce baiser, je ne pus m’empêcher de lui presser la main. Les longs anneaux roulés de ses cheveux d’or effleuraient mes joues. De ce moment, un trouble inconnu s’empara de moi. — La belle devait chanter pour avoir le droit de rentrer dans la danse. On s’assit autour d’elle, et aussitôt, d’une voix fraîche et pénétrante, légèrement voilée, comme celles des filles de ce pays brumeux, elle chanta une de ces anciennes romances pleines de mélancolie et d’amour, qui racontent toujours les malheurs d’une princesse enfermée dans sa tour par la volonté d’un père qui la punit d’avoir aimé. La mélodie se terminait à chaque stance par ces trilles chevrotants que font valoir si bien les voix jeunes, quand elles imitent par un frisson modulé la voix tremblante des aïeules.

 語り手「私」は、その踊りの輪の中で唯一人の男子であった。一緒に連れてきた隣村のシルヴィという名の少女は、生き生きとして新鮮で、真っ黒な瞳と整った横顔、軽く日焼けした肌を持っていた。「私」は、彼女だけを愛し、彼女しか見えていなかった、と言う。しかし、直後に、「そのときまでは!」と付け加える。
 「私」は、踊っている輪の中にいる、金髪で背の高い美しい少女に気づく。皆は彼女をアドリエンヌと呼んでいた。突然、その踊りのルールに従って、アドリエンヌは輪の真ん中に「私」と二人だけ立たされてしまう。背丈はほぼ同じ。皆はキスするようにと二人を囃したて、ダンスとコーラスは次第に激しくなっていく。「私」は、彼女にキスをしながら、彼女の手を握り締めずにはいられなかった。長い金色のカールした髪が頬に触れる。その瞬間、今まで経験したことのない心のときめきが「私」の体を貫く。
 アドリエンヌは、ダンスの輪の中に戻るために歌を歌わなければならないことになる。皆が彼女の周りに座るとすぐに、この霞棚引く国の少女たちのそれのように、みずみずしく、心に響き渡る、薄いヴェールのかかったような声で彼女は歌いはじめる。歌は、恋をした罰として父親によって塔の中に閉じ込められた王女の不幸を物語る悲しみにあふれた昔の恋愛歌の一つであった。メロディーは詩節ごとにトリルで区切られ、そのトリルは、アドリエンヌの若い声が抑揚をつけられた顫音によって祖先たちの声を真似るときに、ことのほか際立つ。
 このときのアドリエンヌの歌う姿と歌声とは、「今ここにはなく」、もはやそこには立ち戻れないがそれこそが古国ヴァロアの歴史の精神的源泉であるものから流れ出ている〈高貴なるもの〉の現在における間歇的湧出の一つの形として、聴く者の心を打つ。











高貴なる感情としての〈王〉への臣従 ― トクヴィルとネルヴァルにおける「失われた時」(一)

2014-12-10 07:50:32 | 随想

 トクヴィルとネルヴァルは、十九世紀前半という同時代を生きたフランス人であるが、両者の間に生前何らか直接的な接点があったわけではないようである。それぞれの出自や生きた世界の違いからすれば、それも当然のことだと思われるが、まさにそうであるからこそ、両者の文章の中に見られる精神的親近性はどこから来るのかということが問われうるだろう。
 トクヴィルの父母両家系とも高貴な血筋を引いているが、特にトクヴィルの母方の曽祖父マルゼルブ(1721-1794)はトクヴィル家にとって崇敬の対象であった。ユダヤ人、プロテスタント教徒を弁護し、百科全書派を擁護し、民衆の側に立つ、アンシアン・レジームの苛烈な批判者でありながら、王家への忠誠を尽くし、フランス革命時にはルイ十六世を弁護し、自らもギロチンによって処刑されたマルゼルブに対して、トクヴィルは終生限りない尊敬の念を抱き続け、自分がその血筋を引くことを誇りとしていた。そして、この血筋は、トクヴィルの政治思想家としての卓越した分析力を養った知的源泉でもあった。
 晩年のある手紙の中で、トクヴィルは、父の居城でのある晩の親族の集まりで、母親がルイ十六世の幽閉の憂いをテーマとした歌を歌ったときのこと想い出しているのだが、その箇所は詩的な美しい文章になっている。

Je me rappelle aujourd’hui comme si j’y étais encore, un certain soir, dans un château qu’habitait alors mon père, et où une fête de famille avait réuni à nous un grand nombre de nos proches parents. Les domestiques avaient été écartés ; toute la famille était réunie autour du foyer. Ma mère, qui avait une voix douce et pénétrante, se mit à chanter un air fameux dans nos troubles civils et dont les paroles se rapportaient aux malheurs du roi Louis XVI et à sa mort. Quand elle s’arrêta, tout le monde pleurait, non sur tant de misères individuelles qu’on avait souffertes, pas même sur tant de parents qu’on avait perdus dans la guerre civile et sur l’échafaud, mais sur le sort de cet homme mort plus de quinze ans auparavant, et que la plupart de ceux qui versaient des larmes sur lui n’avaient jamais vu. Mais cet homme avait été le Roi (Lucien Jaume, Tocqueville, op. cit., p. 401-402).

 母親が歌い終わった時、その場に居合わせた親族皆が涙を流していた。しかし、それはそれぞれの個人的な辛い体験のゆえでも、革命時の内戦で失った、あるいは処刑台の露と消えた一族を想ってのことでもなく、十数年前にギロチンによって処刑されたある人の運命を想って泣いたのだ。しかも、その涙を流した者たちの多くは一度もその人を見たことさえなかった。しかし、その人は〈王〉だったのである。
 ここに表現されているのは、「失われた時」への旧懐の情ではない。ある故人への追悼の念でもない。皆が涙を流したとき、〈至高なるもの〉の喪失とともにそれに臣従しつつ〈国〉のために尽くすという高貴なる生き方もまた不可能になってしまった現実世界にあって、まさに「今ここにはないもの」こそが自分たちを生かしてきたのだということが切実に実感されたのである。
 この失われた〈高貴なるもの〉へのノスタルジーは、その具体的表象は歴史的所与によって様々でありうるとしても、人間の感情としてきわめて基礎的なものだろうと私は考える。そして、それは、トクヴィルにおいて典型的に見られるように、知的に鋭利な現実世界の分析の情感的源泉でもありうる。
 他方、この〈高貴なるもの〉へのノスタルジーが〈美〉へのそれと融合するとき、その融合からこの上なく美しい人間的形象が文学作品として生み出されることがある。その一つの良き例をネルヴァルの『シルヴィ』の中の「アドリエンヌ」と題された節に見出すことができる。
 この作品が発表されたのは一八五三年のことだが、上に引用したトクヴィルの手紙の日付は一八五七年五月六日であり、社会的には大きく異なった立場にそれぞれあったとはいえ、同じ時代の空気の中で両テキストは書かれたわけである。しかし、言うまでもなく、そこに醸成されている精神的気圏の親近性は、単なる同時代性ということには還元し得ない。その親近性はより深い精神的次元に由来するものであろうと私は考える。
 「アドリエンヌ」はプレイヤード版で二頁ほどと短く、そこだけ切り離して読んでも、その類まれな美しさを湛えた文章を嘆賞することができるので、明日以降の記事では、原文全文をゆっくり読みながら、トクヴィルとネルヴァルの精神的親近性について考えていきたい。











崇高なるものへの尊崇の念を呼び起こす星々の輝き ― エマーソンの哲学的まなざし

2014-12-09 09:08:30 | 随想

 エマーソンの処女作は、Nature と題され、一八三六年、三十三歳のときに発表された。このエッセイの中にその後エマーソンが展開する主要な思想的テーマがすでにはっきりと示されている。短いイントロダクションの後、本文は八節に分けられていて、それぞれ « Nature » « Commodity » « Beauty » « Language » « Discipline » « Idealism » « Spirit » « Prospect » とタイトルが付されている。 第一節 « Nature » の冒頭は次のように始まる。

 To go into solitude, a man needs to retire as much form his chamber as from society. I am not solitary whilst I read and write, though nobody is with me. But if a man would be alone, let him look at the stars. The rays that come from those heavenly worlds will separate between him and what he touches. One might think the atmosphere was made transparent with this design, to give man, in the heavenly bodies, the perpetual presence of the sublime. Seen in the streets of cities, how great they are! If the stars should appear one night in a thousand years, how would men believe and adore; and preserve for many generations the remembrance of the city of God which had been shown! But every night come out these envoys of beauty, and light the universe with their admonishing smile.
 The stars awaken a certain reverence, because though always present, they are inaccessible; but all natural objects make a kindred impression, when the mind is open to their influence. Nature never wears a mean appearance. Neither does the wisest man extort her secret, and lose his curiosity by finding out all her perfection. Nature never become a toy to a wise spirit. The flowers, the animals, the mountains, reflected the wisdom of his best hour, as much as they had delighted the simplicity of his childhood.

 天空から降り注ぐ星々の輝きは、私たちがそれを眺めるとき、普段身の回りを取り巻いているものから私たちを分離してくれる。大気が透明なのは、崇高なるものの恒常的な現前の感情を、天体を介して、人間に与えるためであろう。星々はある崇敬の念を呼び覚ます。それは、つねに現前していながら、到達不可能なもののままだからである。
 カントの『実践理性批判』の結語の冒頭の有名な一文を思いおこさせるような表現を含んだこの一節に表明されたエマーソンの思想もまた、私たちの生活の中に接近不可能なものとして現前する「今ここにはないもの」への志向性を有している。エマーソンの文章は、私たちの生活の中にいつでも現前し開かれている崇高なるものへの「垂直的脱自」の契機に生き生きとした表現を与え、読む者をそのような経験へと鼓舞する力を持っている。









アメリカ・プロテスタンティズムにおける社会順応主義批判の淵源の一つ ― トクヴィルからエマーソンへ

2014-12-08 12:41:14 | 随想

 トクヴィル自身はノルマンディー地方の由緒ある貴族の生まれで、フランス革命時に一族の主だった人々は処刑されてしまった。革命の十六年後に生まれたトクヴィルは、自分が没落階級に属していることをはっきりと自覚しつつも、その階級にこそ見られる高貴な個人主義を家族内でまだ肌身に感じることができた。そのような家庭の空気は、決定的に失われつつある「今ここにはなきもの」への癒しがたい思慕の情をトクヴィルの心に疼かせたであろう。しかし、他方では、その「今ここにはなきもの」の自覚が、台頭しつつある新興階級への強い関心をトクヴィルに引き起こし、それがトクヴィルを生まれつつある新しい民主社会の注意深い観察者にしていく。
 トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』は、言うまでもなく、政治思想史の分野における不朽の名著だが、そこには実地に見聞した一八三〇年代はじめのアメリカ社会における自由と平等を追求する民主主義の生き生きとした記述が見られるとともに、そこに潜む大衆社会の危険、世論の暴君性をいち早く見抜く卓越した慧眼が煌めく。その洞察は、今日においても、いや今日においてこそ、ますますその輝きを増している。前任校の修士の演習では何度か同書に言及し、学生たちに是非読むように何度も薦めたものである。
 以下、昨日紹介したリュシアン・ジョーム(Lucien Jaume)のトクヴィル伝に基づいて、トクヴィルがアメリカのプロテスタンティズムの中に見たもの、そして見るに至らなかったものを追ってみる。
 トクヴィルは、十ヶ月間のアメリカ滞在中(一八三一年四月から一八三二年二月)に、ユニタリアン派の大説教師チャニング(Channing)と意見交換する機会があった。その時のやりとりの大筋ををトクヴィルは手帳に書き留めている。
 権威への個人の絶対的服従を求めるカトリシズムを批判し、個々人の価値と自由を認める民主主義を宗教に導入したプロテスタンティズムを代表する大説教師チャニングに対して、「個人は、社会において、自分固有の意見を形成する暇も嗜好も、さらにはその勇気もない。だから、ドグマが必要なのであり、そのドクマを権威と教化によって信頼性のあるものとする制度が必要なのである」とトクヴィルは反論する。
 それに対してチャニングは、以下のように応える。「信仰においては、個人は自由であり得る。なぜなら、神との対話は直接的に可能だからだ。ところが、政治的な問題に関しては、大衆は、経済アナリストのような専門家に比べれば、無知であり、したがって、能力ある権威として認められえない」(L. Jaume, op. cit., p. 195)。
 このようなチャニングの立場からすれば、信仰における個人の自由と政治における大衆の権威への従属とは矛盾しない。
 しかし、当時のアメリカのプロテスタンティズムには、もっと遠くまで集団順応主義批判を徹底化した思想家たちがいた。それは、トクヴィルが当時知る機会がなかったと思われる「超越主義」と呼ばれる哲学的運動の主導者たちであり、その先導者が、三代続いた牧師の家庭に生まれ、自身ハーバード神学校に入学し、伝道資格を取得し、最初は牧師としても活動した哲学者ラルフ・ワルド・エマーソンである。
 もしトクヴィルがこの「超越主義哲学」の運動を知る機会があったとすれば、アメリカのプロテスタンティズムに見られる徹底した集団主義・順応主義拒否の淵源についての自身の見解の確証を得ることができただろうとジョームはいう。
 ここで言う「集団主義」とは、ある集団を一つの〈体〉とみなし、その〈体〉がそれに帰依する個々人より以上のことを知っているとする、個人を集団の下位に置く考え方のことである。












「今ここになきものへの思慕」 ― エマーソン、トクヴィル、ネルヴァルを読みながら

2014-12-07 19:18:20 | 随想

 十九世紀前半のフランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィル(1805-1859)の優れた知的伝記(biographie intellectuelle)である Lucien Jaume, Tocqueville. Les sources aristocratiques de la liberté, Fayard, 2008 には、トクヴィルの同時代のアメリカの哲学者ラルフ・ワルド・エマーソン(1803-1882)と同じく同時代人であるフランスの作家・詩人ジェラール・ド・ネルヴァル(1808-1855)とに言及している箇所がそれぞれ一箇所ずつある。それら二箇所は、互いに遠く離れており、文脈としては直接の関係はないのだが、それらの箇所を読みながら、それぞれに資質を異にし、かつ十九世紀前半の欧米の精神史にそれぞれに特異な位置を占めるこれらの精神に見られる共通の志向性は何なのであろうかとふと考えた。
 それは、一言で言うと、「今ここにはないものへの思慕」とでもなろうか。ただ、それは二重の意味においてである。つまり、それは、まず、具体的に何か今ここにはないものをそれぞれに懐かしむということでもあるが、それと同時に、否、それ以上に、「今ここにはない」という仕方でしか経験し得ないものへの止みがたい思慕の情ということである。そのような情は、人間にとっての基礎的感情の一つであると思われる。
 彼らの思想のすべてがそこに集約されるとか収斂するとか乱暴なことが言いたいのではないのだが、かといって、彼らの思想精神をただロマン主義的傾向という視野で見るもの大雑把すぎ、何かもっと三者を繋ぐ共通の精神性のようなものを把握したいという想いがある。
 そのような想いは、しかし、なんら研究的な態度に由来するものではないし、関連するいずれの分野においてもただの素人に過ぎないわけだから、そもそも彼らを研究しようというつもりもない。むしろ、これら三つの異なった、しかし十九世紀前半という同時代を生きた精神のいずれにも何故か惹きつけられてしまう自分自身を、彼らのテキストを読むことで、もっとよく理解したいというのが本当の願いである。
 明日から三回に分けて、このテーマで記事を書き継いでいきたいと思っているが、何か予めプランがあってそれにしたがって書くわけではないので、書きながら、思わぬ方向に話が逸れていくかもしれないが、それはそれでまた一つの「自己発見」であるかもしれない。


世阿弥『花鏡』における「初心不可忘」論(三)― 老後の初心

2014-12-06 01:54:20 | 読游摘録

 『花鏡』「奥の段」の最後に出てくる「初心不可忘」論の三番目のテーゼは、「老後の初心を忘るべからず」である。

老後の初心を忘るべからずとは、命には終はりあり、能には果てあるべからず。その時分時分の一体一体を習ひわたりて、また老後の風体に似合ふことを習ふは、老後の初心なり。老後、初心なれば、前能を後心とす。五十有余よりは、「せぬならでは手立てなし」といへり。せぬならでは手立てなきほどの大事を老後にせんこと、初心にてはなしや。

 この箇所の最初の一文「命には終はりあり、能には果てあるべからず」は、仏訳(La tradition secrète du nô, Gallimard / Unesco, « Connaissance de l’Orient », 1960)の当該箇所の注で訳者 René Sieffert が指摘しているように、ラテン語の格言 « Ars longa, vita brevis »(この格言の解説はこちらを参照されたし)を思い起こさせずにはおかない。しかし、世阿弥にあっては、「人の命には終りはあるが、能には終りがあってはならない」という禁止命令として読める。つまり、「芸には尽くす果てなきように有限の人生を生きよ」と世阿弥は言いたいのであろう。
 老年になって初めて知る風体がある。『風姿花伝』の「五十有余」の項で述べられていたように、その歳になれば、もはや「わざをしない」という行き方をする外ない。老年になれば、誰しも、遅かれ早かれ、多かれ少なかれ、体力は衰え、声も張りを失い、視力も落ち、激しい動きはできず、少しの動きで息が上がってしまう。そうなって初めて必要とされる、もはやそれしかないという大事な芸態を身につけることが課題なのであるから、それこそ、老年において初めて与えられた「初心」でなくて、なんであろうか。
 「前能を後心とす」は解釈が難しいが、新潮古典集成版の頭注には、「過去の芸のすべてが思い出され、現在及び今後のために、新しく見直され、経験し直されることになる、の意。これまでに蓄積された芸の、単なる繰り返しではすまなくなったのである」とある。つまり、これまでの行き方はいずれももう通用しない。そこで求められているのは、自己身体に対してまったく新しい態度で臨む工夫であり、いわば自己身体の運動図式を描き直す必要に迫られているのだ。
 「老後の初心」とは、年老いて初めて問題として向き合う自己身体との新しい関係性であるという積極的な意味において、その大切さが格別に強調されている。そうであってこそ、次の段落の「初心不可忘」論の結論と整合的に繋がる。

さるほどに、一期初心を忘れずして過ぐれば、上がる位を入舞にして、つひに能下がらず。しかれば、能の奥を見せずして、生涯を暮らすを、当流の奥義、子孫庭訓の秘伝とす。ことの心底を伝ふるを、初心重代相伝の芸案とす。初心を忘るれば、初心、子孫に伝はるべからず。初心を忘れずして、初心を重代すべし。

 生涯を通じて常に初心ということを念頭においてゆけば、芸は向上する一方で、退歩することはありえない。だから、上達の限界を見せないで生涯を暮らすことを、自分たちの芸道の奥義として、子孫を導く秘伝とする。この心を伝えること、これが初心をいつまでも子孫代々に相伝することが能の公案である。自分が初心を忘れてしまえば、それを子孫に伝えることもできない。初心を忘れることなく、代々伝えていかなくてはならない。
 どこまでも能の実践者としての経験に裏打ちされた明晰で透徹した思索のあとを直伝の覚智として口伝するだけではなく、子々孫々に公案として伝えることを当流の芸道の奥義とするという明徹な自覚とともに書き残された世阿弥の能楽論は、元々は門外不出の秘伝の書であったにもかかわらず、七百年近い時を超えて、私たちの〈現在〉に直接語りかけてくる。
 『花鏡』「奥の段」の「初心不可忘」論は、「初心」を忘れないことによって人生の各瞬間がその最後まで新しい「時のはじまり」となりうることを私たちに教えてくれる。











世阿弥『花鏡』における「初心不可忘」論(二)― 時々の初心

2014-12-05 13:21:49 | 読游摘録

 『花鏡』結論部分に「万能一徳の一句」として示される「初心不可忘」の第二の下位テーゼは、「時々の初心を忘るべからず」である。

時々の初心を忘るべからずとは、これは、初心より年盛りの頃、老後に至るまで、その時分時分の芸曲の、似合ひたる風体を嗜みしは、時々の初心なり。されば、その時々の風儀を為捨て為捨て忘るれば、今の当体の風儀をならでは見に持たず。過ぎし方の一体一体を、今、当芸に、皆一能曲に持てば、十体にわたりで能数尽きず。その時々にありし風体は、時々の初心なり。それを当芸に一度に持つは、時々の初心を忘れぬにてはなしや。さてこそ、わたりたる為手にてはあるべけれ。しかれば時々の初心を忘るべからず。

 ここで言われる「初心」とは、芸道に入って間もない時期から、壮年期を経て、老年に至るまで、その時々の身体的条件その他の条件に適った芸態を身につけることを指す。もし、その都度、ただその場かぎりで演ずるだけで、それを捨て忘れるようでは、その時の年齢にあてはまる芸態でしか演ずることができない。ところが、それぞれの時に身につけた芸態を忘れずに、現在の芸において一連のヴァリエーションとして演ずることができれば、芸態は無尽蔵となる。
 この時々の初心についての世阿弥の芸能論を生きられる時間性の観点から見てみると、次のように言えるだろうか。
 ただその時その時の芸態を継起的に身につけるだけで、その時その時の初心に立ち戻らずに、少年・青年・壮年・老年と移りゆくことは、いわば同一線上を一方向的に移行していくだけの有限の不可逆的線形的時間性を生きているのに過ぎないのに対して、いつでも時々の初心に立ち戻り、その都度の「はじまり」を生き直すことができるようになることは、いわばその都度の〈現在〉を共通の接点として他の時々の初心をその対蹠点とした多重内接円として表象化できるような無限の多重円環的時間性を生きることである。
 強引な我田引水であることを承知の上で、この時々の初心の時間論を私がそこで諸々の問題を考えようとしている哲学的領野へと引き摺り込めば、以下のようになる。
 現象的時間内有限存在であるかぎりは、誰であれ、線形的時間性を誕生から死へと不可逆的に進んでいくほかはないとしても、時々の初心を忘れず、そこへいつでも立ち戻ることができる心身の「可塑性」を身につけるとき、そこに円環的時間性が生きられるようになり、線形的時間性に対する「垂直的脱自」の可能性の条件が与えられる。線形的時間性を生きつつ、その中で立ち返りうる時々の初心が積み重なれば積み重なるほど、円環的時間性は多重化し、「現在」は、過ぎ去る瞬間としてではなく、生命の無尽の豊穣さが湧き出る「場所」として再び見出される。











世阿弥『花鏡』における「初心不可忘」論(一)― 是非の初心

2014-12-04 18:28:35 | 読游摘録

 世阿弥の言葉としてよく知られた「初心不可忘」は、『風姿花伝』の中の言葉として紹介されるのが普通だが、世阿弥芸能論中期の最重要著作『花鏡』の結論部分に再び登場し、そこには『花伝』には見られなかった議論が展開されている。『花伝』が亡父観阿弥の教えを伝えることを旨としていたのに対し、『花鏡』はそれ以降世阿弥が四十歳過ぎから六十二歳になるまでに自分で考えたことを記したものであるとその奥書に見える。

しかれば、当流に、万能一徳の一句あり。
  初心不可忘
この句、三箇条の口伝あり。
  是非初心不可忘
  時々初心不可忘
  老後初心不可忘
この三、よくよく口伝すべし。

 「初心不可忘」という根本テーゼがこのように三つの下位テーゼに分節化されている。それらの中に世阿弥固有の芸能思想の展開を見ることができるだろう。今日から三回に分けて、そのそれぞれを見ていこう。
 第一の「是非の初心を忘るべからず」は、自分の芸が上達したかどうか判断する基準となる初心を忘れるなということ。ここでの「初心」は、初心時代の未熟さのこと。それを忘れずにいることが、その後の芸の向上過程・程度を計測する一つの基準となり、自分の芸が退歩していないかどうか確認することができる。小西甚一は、「是非初心」に注して、「この「是非」は、是非する、すなわち批判するの意ではなかろうか。自分自身の芸位を批判的に観るとき、基準となるのが、この初心だからである」と記している(小西甚一編訳『世阿弥能楽論集』たちばな出版、二〇〇四年、二三五頁)。
 この初心を忘れることは、気づかぬままに初歩の段階に頽落するという道理(「初心を忘るれば初心へ返る理」)をよくよく反省すべきであると世阿弥は注意を促す。
 特に年若い役者たちに向かっては、現在の自分の芸位をよくよく自覚して、たとえすでに人からも認められ、いくらか達者な役者になっていたとしても、「自分の今の芸もひとつの初心にすぎない。さらに上の段階の芸を身につけるためには、現在のこの初心をけっして忘れまいと肝に銘じ、工夫をかさねなくてはならない」と戒める。田中裕校注の新潮日本古典集成版『世阿弥芸術論集』では、原文で用いられている「念籠」(ねんろう)について、「禅語の「拈弄」(古則や公案を自分の見識で思うままに解釈し批判すること)の俗用であろう」と『花鏡』冒頭で同語が用いられている箇所に注している(一一七頁)。
 この第一下位テーゼ「是非初心不可忘」の項は、次のように結ばれている。

さるほどに、若き人は、今の初心を忘るべからず。










人種理論の起源再考 ― 聖書からダーウィンまで

2014-12-03 16:27:42 | 読游摘録

 アンドレ・ピショ(André Pichot)の Aux origines des théories raciales. De la Bible à Darwin, Flammarion, 2008 を読み始める。
 この著者の著作中邦訳されているのは、『科学の誕生』(上・下、せりか書房、一九九五年。原書は La naissance de la science : tome 1. Mésopotamie, Egypte, tome 2. Grèce présocratique, Gallimard, « Folio Essais », 1991)だけのようだが、フランス語圏では、生命論・科学論・認識論の分野でよく知られた研究者である。私自身は、自分の博士論文の中心概念が「生命」だったので、Histoire de la notion de vie (Gallimard, collection « Tel », 1993) のお世話になった。古代ギリシアからラマルク、ダーウィンまで、重要文献からの千を超える抜粋を含んだ、西欧における生命概念の通史として大変行き届いた九百五十頁を超える浩瀚な労作である。本文そのものも小さな活字で組まれて行間も狭いのだが、抜粋と脚注はさらに小さな活字でぎっしりと詰め込まれており、読む方にとっては甚だ眼に負担の大きいレイアウトではある。
 上掲の本は、昨日届いたばかりで、まだ人名索引を頼りに何箇所か斜め読みしてみたに過ぎないが、それらの箇所からだけでも、この本を読んだ後には、これまでの進化論、特にダーウィニズムを巡る言説について、こちらの認識をすっかり改めなくてはならないだろうと予感された。
 本文だけで五百頁近いこの大著を全部読み終えた時点ではその見解を改めざるを得ないかもしれないとの留保付きでだが、この著者がこの著作で言いたいことを予見的に一言でまとめれば、次のようになるだろうか。
いわゆるダーウィニズム(ピショによれば、それはあまりにもダーウィンその人の思想から離れてしまい、結果として互いに矛盾する主張を繰り返す学派を生み出した)を、人種差別の擬似的な科学的根拠として、或は、キリスト教的世界観の破壊者として、糾弾するのは、〈種〉の起源の問題に関して、まったく的外れであり、そればかりでなく、そのようなダーウィニズムについての通念は、種間に優劣を認める宗教・思想の人類史における根深い起源を見損なわせることになるだろう。
 単に科学史の枠組みの中だけで進化論を扱うのではなく、他の諸分野、特に十九世紀の経済・宗教と科学との相互的な影響関係にまで深く踏み込んだ分析は、広い意味での近代社会思想史の視野の中で、科学がもたらす思想的影響と、逆に科学研究が社会的・宗教的通念によって方向づけられ、場合によっては限界づけられてしまうという、双方向的な問題性を浮き彫りにすることに成功している。
 科学的認識をその成立の歴史的文脈の中に豊富な同時代資料に基づきながら位置づけ直す科学史家としての手法は、著者の最も得意とするところであり、ダーウィンの『種の起源』がその出版とともに当時のイギリス社会に大スキャンダルを巻き起こし、守旧派たちの非科学的な人間中心主義的世界像と闘いながら、人間の自己認識に革命的な変化をもたらしたとする「社会的」通念(それは今日の科学者たちの一部にまで共有されてしまっている!)を、そのほとんどが後日の想像の産物であるとして批判する手際は誠に鮮やかで、かつ充分な説得力を持っている。










前期最後の授業を終えて

2014-12-02 18:33:32 | 講義の余白から

 冬の寒さがやってきた。朝は気温が二、三度まで下がるようになった。日中も四度までしか上がらない。日の出時間は八時、日の入りは四時三十六分。終日雲に覆われた灰色の空。風はない。
 昨日も今日も朝七時からいつもの屋外プールで泳ぐ。一旦温水プールの中に入ってしまえば少しも寒くない。三十分ほどで上がる。帰りはジョギング。八時から自宅で仕事を始める。
 今日の修士一年の演習が実質的に前期最後の授業だった。学部の講義はすでに先週で終了し、今週の当該授業時間はすべて期末試験、今日の修士の演習も、来週の火曜日に筆記試験。それで前期の授業はすべて終了。採点は十五日までに終わらせる。
 どの授業も二時間のうち、一時間だけを試験時間に充てるので残り一時間あるわけだが、試験前の最後の復習か全体のまとめをすることにしているので、これまでのように授業の準備をする必要はもうない。今日の修士の演習については、来週火曜日、最初の一時間で、今日の授業まで読んできた『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』それぞれの文学的特質について、まとめを兼ねて、比較検討する。当初の予定では『更級日記』も読む予定でいたが、時間的に無理なので諦めた。
 しかし、授業が終わってもホッとしている暇はない。締め切りの迫った原稿を四つ抱えているので、明日からそれに集中しなくてはならない。それらを十五日までに仕上げてしまわないといけない。その翌日日本に向けて発つからだ。冬休み中の一時帰国である。一月十二日まで東京の実家に滞在する。しかし、ヴァカンスを楽しく過ごすためではない。理由はここには書かないが、ほとんど実家に居ることになるだろう。
 今晩だけは、少しゆったりとした気分で、好きな音楽を聴きながら、ワイン片手に、『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』をあちこち読み返しながら過ごそう。