内的自己対話-川の畔のささめごと

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もしメルロ=ポンティが『陰翳礼讃』を読んだとしたら―「陰翳の現象学」(五)

2020-01-15 23:59:59 | 哲学

 『陰翳礼讃』の中で日本座敷の美が語られている箇所は、『眼と精神』でメルロ=ポンティが「隠れた内部をもたない空間 espace sans cachette」、「絶対的にそれ自体のうちにあり、どこにおいてもそれ自身と等しく、同質的 repose absolument en soi, est partout égal à soi, homogène」な空間として記述しているデカルト的空間には還元し難い、生きられた空間の経験の例示になっている。
 谷崎によって記述された日本座敷における空間の経験は、互いに「部分外部分 partes extra partes」として均質な空間内の各所に配置された諸要素の認識ではない。しかし、それは単なる主観的な印象に還元されるものでもない。
 「繊細な明るさ」の中で、わずかに異なった各部屋の壁の地色は、色の違いとしてよりも「ほんのわずかな濃淡の差異」でしかなく、しかもそのほのかな違いによって、「各々の部屋の陰翳が異なった色調」を帯びる。この色調こそがその空間を織り成している存在の織地なのであって、それは壁・柱・畳・唐紙などの物質的構成要素とは別次元に属する。部屋の色調は、その室内に身を置いている者にとって、それら構成要素の「手前 en deçà」かつ「彼方 au-delà」にある。手前にあるというのは、色調は私の身体を直に包んでいるからであり、彼方にあるというのは、その色調は部屋の物理的境界を超えた深みへと開かれているからである。
 床の間もそこに掛けられた軸物や置かれた生花も、独立の審美的要素としてそれ自体の価値を主張するものではなく、部屋の色調に外在的な装飾性を加える偶有的なものでもなく、部屋の色調に調和的な織地の一部を成している。そのかぎりにおいて、それらは存在の織地の元素として陰翳に「深み」を添える。
 軸物の図柄や絵であってさえ、美術品としての独立の価値を主張するものではなく、それらは「覚束ない弱い光を受け留めるための一つの奥床しい「面」に過ぎないのであって、全く砂壁と同じ作用をしかしていないのである。」乏しい光のゆえに物の輪郭が不分明になり、その結果として物本来の姿が覆い隠されているのではない。まったく逆に、その乏しい光によってこそ、陰翳という存在の織地がそこに顕現している。非物質的・非実体的な存在の元素としての陰翳を谷崎の文章は見事に捉えている。












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