内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

偽装・隠蔽された自己愛(ナルシシズム)としての「美しい日本」への愛

2018-01-21 13:18:33 | 雑感

 よせばいいのに、昨日みたいに毒づいてしまうことがときにあります。その毒が我が身にもまわってきて後で必ず気分が悪くなるとわかっているのに。
 ブログの記事としてこの類の不愉快な感情を公開することには普段は相当に慎重を期しています。炎上したくないから、というよりも(そもそも炎上するほど読まれていないし)、そんなことしても、結局、空しいだけだからです。
 ただ、もう一つ、この機会(って、どんな?)に言っておきたいことがあります。でも、これは毒づくというよりも、かねてからどうもしっくりこないよなあと思っていること(この辺も相当気を遣った言い方になっています)を言葉にしておこうというに過ぎません。
 昨日の記事では、日本側に見られる最近の傾向について毒づいたわけですが、今日の記事の話題は、フランス側で私が気になっていることです。
 問題を具体的に提示するために、まず、場面を日本に設定した架空の話をします。
 ある日本人がですね、フランス語は初歩を終えた程度で、英訳なんかを参照しながら、例えば、ボードレールの『悪の華』を「自由訳」とか銘打って日本語で出版したら、皆さんどう思われますか。仏文学者でなくても、良識ある日本人読者の方々は、これは眉唾ものだと警戒されるでしょう。もっとも、出版したご本人が、これは訳などと言えるものではなく、原文からインスピレーションを得て、自分が日本語で創作したものですよと正直に断り、そして、その日本語が詩作品としてちゃんとしていれば、仏語原文に対して忠実かどうかなんてことは問題にならず、気に入った人はそれこそその日本語の作品をそれとして自由に愉しめばいいわけです。
 実は、フランス語に「訳された」日本の古典にこの手の出版物があるのです。訳されたご本人は日本語が大してできない、日本文学の知識もかなりいい加減。間違いだらけの序文などを見れば、すぐにそれはわかります。
 この傾向が顕著に見られるのが、俳諧についてなのです。日本語原文の微妙なニュアンスなんてどうでもいいじゃん(なわけねーだろ!)、自分が直感的にビビッときちゃった「マツオ・バショ―」はこれさって感じで、ちょっと洒落た装丁なんかにして、しかも、作者名として堂々と Basho と銘打って平気で出版しちゃうんですよね。そのような出版物を目の当たりにして私が感じてしまうのは、それで何が悪い、と言わんばかりの傲岸な態度なのです。
 おそらく、日本の俳諧研究者でフランス語に通暁している方は少ないでしょうし、仮にそのような方がいらっしゃっても、わざわざそんな際物など手にとって見てみようともつゆ思われないことでしょう。一方、フランスにかぎらず、欧米の篤実で優秀な日本文学研究者たちも、そんな出版物はまともに相手にしないことでしょう。いずれの場合も、皆さんご自身の研究に忙しく、そんな暇ないでしょうから。ですから、それらの出版物が学問の世界に悪影響を与えることは、ほぼないと言っていいでしょう。
 しかし、一般の読者で、ちょっと日本に興味があり、その類の本を手に取って、「オオ、コレガ東洋ノ神秘ノ国日本ノ文学ナノデスネ。スバラシイ。「ゼン」デスネェ」などと感動されてしまうと、どうでしょうか。その読者に罪はありません。何をどう読もうがその人の自由です。訳者(作者)にしても、「訳された」作品がフランス語ならフランス語として詩作品として成り立っていれば、それで何が悪い、と開き直ることもできるでしょう。
 にもかかわらず、私はこう言いたい。
 だったら、芭蕉の名を騙るな。生半可な知識で日本文学についてわかったような口をきくな。自分の書斎の中で捏造した幻想の日本文化に憧れる滑稽を知れ。自分が理解したいように理解した(と思っているに過ぎない)対象など、実はどこにも存在しない虚像なのだ。「美しい日本」への愛が偽装・隠蔽された自己愛(ナルシシズム)であることを自覚しろ。この自覚からしか、ほんとうの理解のための長く困難な道のりは始まらないのだ。