内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

この世を見るため、聞くために私たちは生まれて来た ― 河瀬直美監督『あん』を観て想ったこと

2018-01-03 23:59:59 | 雑感

 正月特番(?)ということで、昨日に続いて映画の話。
 といっても、新作の話ではありませんから、すでに観られた方たちにすれば、今頃何言ってるの、というような話です。
 宣伝とか評判とか批評とか受賞歴とか、それらの事前情報まったくなしに、その意味でまっさらな状態でいきなり映画に向き合った私に、この映画はそのときが初めての新鮮な感動をもたらしてくれました。
 毎回帰国のたびに機内で映画を観るのですが、今回往路便で観た映画が、昨日の記事でもちょっと触れた、河瀬直美監督『あん』でした。仏語版タイトルが Les délices de Tokyo、仏語の内容紹介を読んだだけではどんな話なのかよくわかりませんでしたが、監督が河瀬直美で主役が樹木希林と永瀬正敏と来れば、ハズレということはないだろうと思い、観ることにしました。
 ストーリーと映像・音声と演技とが見事に調和したとてもいい映画でした。原作はドリアン助川の同名小説(この小説の仏訳は、2017年度 le Livre de Poche 読者大賞 Prix des Lecteurs を受賞)。元ハンセン病患者の老女徳江、前科があり借金を背負ったどら焼き屋の店長千太郎、自分の生きる居場所を見つけかねている女子中学生ワカナの三者の交流を通じて、すべての人、いやすべての生きものにとって生きることの意味とはなにかという普遍的な問いが、印象深く忘れがたい数々のシーンとともに作品全体を貫いています。
 終わりの方で、朝日に暖められ湯気を出している木に徳江が凭れている映像にかぶせて、徳江が死の直前に千太郎とワカナに宛てて残した録音メッセージが流れるシーンがあります。そのメッセージの中にこんな一言があります。

ねえ、店長さん。私たちはこの世を見るために、聞くために生まれて来た、だとすれば、何かになれなくても、私たちは、私たちには、生きる意味があるのよ。

 社会の中で何か「役に立つ」存在になれなくても、無数の知覚主体は、知覚するそのことによってすでに世界に意味をもたらしている。見ること聞くことのそのことによって、世界をそれだけ豊かにしている。逆に言えば、この世界には、見られること聞かれることを待っている無数の存在があり、そのことに気づくことそのことがすでに生きる意味である。ということでしょうか。
 原作にはないこの名シーンが生まれた経緯について監督、樹木希林、永瀬正敏が語っている『シネマトゥデイ』のインタビュー記事があるので、その部分を引用しておきます。

監督:見つけたんですよね?

樹木:「まるで木が息をしているようだ」と言われて。やっぱり長年やっているとそういう感性が働いて、これは撮らなきゃいけないというのを、感じるんでしょうね。

監督:前の日に雨が降ると、木が水を蓄えて、そこに朝日が差し込むと木肌から蒸気が立ち上ってくるんです。わたしが別のシーンを撮っているときに永瀬さんがその木を見つけて、樹木さんが「じゃあ、あたしそこにもたれるから、カメラマンさんちょっとこっちに来て、あたしを撮って」って(笑)。

樹木:あたし感心したの、この人(永瀬さん)がね、木が息をしているなんて、よく感じるなあって。

永瀬:たまたま気付いたんですよ。樹木さんの座っていらっしゃる後ろの木から湯気が上がって、ちょうどこう、息をしているように見えたので。監督とハンセン病の国立療養所を訪ねたとき、亡くなった方の一人一人を投影した木が植えてあって、木というものが命のメタファーになっているのを見た経験も影響していたと思います。

監督:樹木さんはその湯気を瞬時に、徳江にとっての夫だったり、同じように施設に入れられた人たちの気配に移し替えて、映画の中にどう存在させればいいかということも考えて演じられている。だから徳江の主観で見えているだけじゃない、客観的にも意味のあるシーンになっているんですよね。