内的自己対話-川の畔のささめごと

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世の中を憂しとやさしと思えども ― 「やさしさ」についての一考察

2018-01-19 08:18:39 | 講義の余白から

 昨日の記事で話題にした「近世文学史」の授業の終わりに、「憂し」という形容詞の説明を補完するために、「やさし」の意味の上代から中世にかけての通時的展開をやはり『古典基礎語辞典』に依拠して説明した。
 この二つの形容詞が同じ歌の中に用いられている上代の例としてあまりにも有名なのが、『万葉集』巻第五に収められた「貧窮問答歌」(八九二)の後に添えられた短歌「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」(八九三)である。これを長歌に対する反歌とする解釈もあるが、反歌の語がなく、ゆえに反歌とは見ず、問答歌の内容に対する憶良の感想とする伊藤博の読み下しと解釈に従う。

世の中を厭しと恥しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

[この世の中、こんな所はいやな所、身も細るような所と思う次第でありますが、捨ててどこかへ飛び去るわけにもゆきません。私ども人間は、所詮鳥ではありませんので。]

 多くの古語辞典が「やさし」の項の最初の意味「身も細る思いがする。たえがたい。肩身が狭くつらい。恥ずかしい。」の例としてこの歌を挙げている(『岩波古語辞典』、旺文社『古語辞典』、小西甚一『基本古語辞典』など)。『古典基礎語辞典』もこの歌を例として挙げている。同辞書の「やさし」の項の解説欄を見てみよう。

動詞ヤス(瘦す)と同根。身もやせ細る思いがする意。古くは休みなく気を遣って自分自身を損なうほどである意。そこからこまごまと周到に気を遣うさま、あるいは遠慮がちに慎ましく気を遣うさま、控えめに振る舞うさまの意に、また、そうした細やかな気遣いをするさまを、外から見て繊細である、優美であると感じて評価する意に展開した。
歌論においては、歌の素材・用語・趣向などの優雅で美しいさまにさかんに用いられた。外に表れた慎ましい気遣いや振る舞いの繊細さ、優雅さを評価するところから、そのように振る舞う人の穏やかな性情そのものも表すようになった。
一方、控えめでおとなしい相手に対してくみしやすいところから、用意なく安易に事をするさまを表す用法が、すでに『今昔物語集』には見えている。中世以降にはさらに、物事そのものの扱いやすいさま、相手にしてたやすいさまを表すに至り、平易である、簡単であるといった意味も一般化した。
類義語ハズカシ(恥づかし)は、基本的に劣等感に根ざした感情が中心で、自分が劣っていることをつらく思い、相対的に相手を高く評価する語である。

 この解説を読むことによって、「やさし」の語意の上代から中世にかけての通時的展開、他の類義語との共時的弁別的差異をよく理解することができる。
 この授業の「オチ」は以下の通り。
 「つまり、やさしい人とは、自分の身が細るほど相手のことを思いやり、振る舞い方が慎ましい人だということですね。もちろん、だからと言って、痩せている人がやさしい人とは限らないし、やさしい人は痩せているとも限りませんけどね。」