内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

知ること、それは賭けることである

2017-09-08 17:52:32 | 哲学

 金曜日はプールの開門が九時と遅い。今日の午前中は十一時から新入生との面談が入っているだけだったので、その前に一泳ぎすることができた。しかし、もう授業が始まっている来週の金曜日は朝泳ぐことができない。その日は、授業の後、午後にも、来年度からの新しいカリキュラムについての学科会議がある。だから午後も泳げない。残念だが、仕方ない。
 その学科会議であるが、今日が夏休み開け最初の会議だった。月末までにカリキュラム案をまとめて提出しなくてはならない。今日の会議は、夏休み前に前学科長が準備しておいてくれた叩き台を基に、みなそれぞれの教育経験に基づいて意見を出し合い、一つ一つの講義タイトルとおよその内容についての詰めを行った。三時間半ほどだったが、思っていた以上に話が進み、一応学部三学年のすべての授業について面目を一新することができた。
 小さいチームだけれど、教員間に上下関係はなく、みなそれぞれに誠意をもって教育に取り組み、普段の話し合いもすこぶる風通しがいい。来週は、カリキュラムをより現実的な観点から再検討し、現教員体勢に対して無理がないかどうかをチェックする。
 その会議を終えて、さっき帰宅したところである。夕食前に、Sinceur のカヴァイエス入門をほんの少しだけ読んでおこう。
 今日から第三章「哲学」の後半は「理解すること、それは行動することである」(Comprendre c’est agir)となっている。
 合理的理解は、論証過程をともなった認識(悟性による認識)を内包している。この認識は、合理的理解にとってまさに信の置ける道具である。しかし、認識すること(知ること connaître)は、それが実践へと連接されてはじめて有効となる。認識すること(知ること)は、確実に知る(savoir)ことではないし、決して間違えることなく演繹することでもない。それは、賭けること、あるやり方あるいは実験に賭けることである。その賭けの成功が示しているのは、行動を続ける可能性である。