今日、朝はプールに行かず、午前中、誰もいない学科教員室で仕事をいくつか片付けた。その後、自宅に戻って仕事を続け、午後二時半頃プールに行った。週日の午後、曇りがちの涼しい日だったこともあり、とても空いていた。三十分間、コースに私一人だった。気分良く泳げた。
さて、Sinceur の本を教科書としてカヴァイエスの勉強を今日も少しだけしよう。
カヴァイエスにとって、意味するもの(signifiant)と意味されるもの(signifié)との関係が問題にされるとき、それは解釈の問題ではなく、意味の創造・生産、あるいは意味の自己産出の作用が考察対象である。カヴァイエスは、ボルツァーノやフレーゲのように、いわば意味の中身しか見ない。フッサールとは違って、意味をもたらす志向性は問題にしない。
しかし、ボルツァーノやフレーゲとの違いは、その意味内容が歴史的なものであり、特定の過程を通じて展開されるとカヴァイエスは考えているところにある。
この歴史的に特殊な過程が理念的でありうるのは、ある特定の仕方によってのみである。理念的なものは、物理学・生物学・社会学・経済学などの諸科学の中で現実的な経験の中での生誕の条件から解放され、社会歴史的な偶発的諸条件や社会制度的な拘束などから自由になり、そして、ついには、その理念的なものが表現されるのに必要とされた特定の表現を超え出ていく。
数学に関して言えば、その応用から切り離された純内在的な観点からすると、数学的内容は、必然的かつ予見不可能なリズムで、ある内容から別のある内容が自己生成する。意味は、その特定の具体化による恒常的な変容によって自己構成される。
数学は、解釈されるべきテキストではない。ネットワーク状に発展するものであり、その広がりつつある網状組織の結節点を見つけ、特定し、それらの点それれぞれから連鎖を延長することが内在的要請として求められている。
そこに解釈されるべきものは何もない。すべては理解されるべきなのである。つまり、為される、あるいはやり直されるべきものなのである。