今日が学部二年生の古代文学史の初日。明日が同じく二年生必修の古代史。この二つの科目は合わせて一つの教育ユニットを形成している。教育内容の多様性という観点からはそれぞれ別の教員が担当するのが望ましいのだが、今年は諸般の事情で、三年前同様、私一人で両方を担当することになった。
この古代文学史という科目は今年が最後になる。来年度からのカリキュラムでは、文学史はもっと圧縮された形で三年次必修になるからである。学生たちにはそのことを告げ、今年単位取っておかないと困ったことになるよ、と脅かしておいた。彼ら、笑いながら頷いていたけど、大丈夫かな。
今日の講義では、二つの講義への全体的イントロダクションもかねて、古代へと私たちの関心を遡行させることが物事の根本への問いへと私たちを自ずと導くことを、言語・文学・国家・宗教・神話・自然などのテーマを挙げながら、一時間ほどかけて説明した。
文学の起源、表記システムの形成と音声言語、国家意識の成立、宗教と集合意識、神話と歴史、自然と人間、これらの問題についてその根本から考える手掛かりを古代史および古代文学史は私たちに与えてくれる。だからこそ、誰にとっても学ぶに値するのだということを特に強調した。
と、そこまではかなりの集中力を要求する抽象度の高い話をした上で、話頭をさっと転じて、言語による世界の分節化の共有がどれほど一人の人間にとって大切かということを、それが一時的に失われたときにどうなるかを自己の幼少期の経験を例として見事に語っている川上弘美のエッセイ「Monkey」を一緒の読みながら、考えさせた(このエッセイは私のお気に入りで、拙ブログの2013年12月12日の記事でも取り上げている)。
短いエッセイだし、平易な日本語で書かれているから、学生たちも初見でも十五分ほどで内容の理解はできる。ユーモラスな表現に笑いながらも、提示した問題にとって大切と思われるところには注意を促した。
言語による世界の分節化の共有の人間存在にとっての根源的重要性という、川上弘美のエッセイが見事に例示している問題意識をもちつつ、日本古代文学史のテキストを読んでいこう、そう学生たちに呼びかけて講義を締め括った。