今日もまた、日々の雑務からひととき心を離脱させ、H. B. Sinceur, Cavaillès に導かれながら、カヴァイエスの哲学を淡々と追っていく。
カヴァイエスにとって、意味は、それを言い表す表現に対しては相対的な自律性を、その意味に依存する心的作用に対しては絶対的な自律性をもっている。意味にはそれ固有の「地位」があり、それによって意味は言語学に対しても心理学に対しても独立性を保っている。だからこそ、数学的対象は思考の対象として追究するに値する。
この思考の対象としての数学的対象がフレーゲにとってもフッサールにとっても意味を性格づけるモデルの役割を果たしている。思考の対象は観念的な対象であり、観念的な対象は意味の複雑な統一体を形成している。
意味の論理が、数学的対象の性質やその顕現の様態を私たちに教えてくれるはずである。だからこそ、カヴァイエスは、数学的実践とは、記号・表現・公式・概念・方法などを限局的あるいは一般的意味を持つものとして変容させることだと考えたのである。
遺稿となった Sur la logique et la théorie de la science(Paris, PUF, 1947 ; Vrin, 2008. 邦訳は、近藤和敬訳『論理学と学知の理論について』、月曜社、2013年)で、カヴァイエスは、表現と意味は分かちがたいという立場を取るに至り、この点で、フレーゲからもフッサールからも離れることになる。
カヴァイエスは、彼らと違って、思考の諸内容に時間の向きを導入する。それによって、それら諸内容を伝統的な形而上学における永遠の本質から区別する。