内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

カヴァイエスにおける哲学の定義 ―「内側から理解すること」

2017-09-01 18:52:16 | 哲学

 一昨日の記事で取り上げた Hourya Benis Sinceur, Cavaillès の第三章はカヴァイエスにとっての哲学の定義が主題である。その定義を一言で要約すれば、「内側から理解する comprendre du dedans 」ことである。
 しかし、これだけではもちろん誤解を招く。特に、カヴァイエスの意図とまったく反対に取られてしまう危険なしとしない。Sinceur の解説を追ってみよう。

« Comprendre du dedans » ne renvoie pas à une intériorité subjective ; c’est au contraire aller vers ce qui est tel qu’il est nécessairement, traverser l’écran de la subjectivité pour atteindre ou accueillir la manifestation de l’objectivité telle qu’elle apparaît en son essence dans une « intuition centrale ». Comprendre quelque chose du dedans c’est selon Spinoza en comprendre l’essence, la nécessité interne ; comprendre du dedans est, en ce qui concerne les mathématiques, exigé par l’autonomie de la science par rapport à la conscience (H.B. Sinceur, op. cit., p. 67).

 「内側から理解する」ということは、主観的内在性に立ち帰ることではない。まったく逆に、必然的にそうであるところのものへと向うこと、主観性のスクリーンを突っ切って、「中心的な直観」においてその本質として客観性が顕現するところへと到達すること、あるいはその顕現を受入れることである。何ごとかを内側から理解することは、スピノザによれば、その本質、内的必然性を理解することである。内側から理解することは、数学に関して言えば、意識に対する学知の自律によって要求される。
 つまり、ここで言われている内側とは、主観性の内部のことではなく、それ自体の必然性と自律性とをもった事柄そのものの内側のことである。