理解することが、おのずと顕われるものを捉えることだとして、そのおのずと顕われるものとは何なのか。
スピノザ、伝統的な形而上学、デカルト主義的あるいは近代の直観主義においては、それは〈存在 l’Être〉あるいは神、諸事物の本質、数学的対象などであり、それらは直観にそれらとして有無を言わさずに顕われる。
カヴァイエスにおいて特に注目すべきなのは、直観は、受動的なものではなく、知的な活動に他ならないことである。そして、カヴァイエスが繰り返し批判するのは、直観を主観性に結びつける態度である。この点で、カヴァイエスの哲学は、二十世紀の初頭の数学の分野で起こった革命的な変化とその方向性を共有している。
数学者は何を捉え、何を創造するのか。哲学者は何を理解するのか。
この問いに答えるためにカヴァイエスがスピノザ的な合理的直観主義の内部に導入するのが、「意味」という概念である。この概念について、ボルツァーノ、フレーゲ、フッサールの読解からカヴァイエスは着想を得ている。
カヴァイエスが意味を問題にするとき、その関心の対象は、思考内容の論理、意味作用の論理、言い換えれば、思考の意味論的構造である。その論理あるいは構造は、意味を「解釈する」主観性とは独立に生成し、むしろ主観性こそその論理あるいは構造の生成に依存しているとカヴァイエスは考える。