内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

呻きつつ求める人たち ― パスカルにおける「人間 」について ―

2013-09-02 02:34:00 | 哲学

 パスカルの『パンセ』は、高校時代からの愛読書、汲めども尽きぬ思索の源泉。下に掲げる断章の中の « ceux qui cherchent en gémissant »(「呻きつつ求める人たち」)という表現は、『パンセ』の言葉の中でもよく引用されるものの1つ。

Je blâme également et ceux qui prennent parti de louer l’homme, et ceux qui le prennent de le blâmer, et ceux qui le prennent de se divertir et je ne puis approuver que ceux qui cherchent en gémissant (Pensées, fr. Brunschvicg 421 / Lafuma 405 / Le Guern 384 / Sellier 24).

私は人間をほめると決めた人たちも、人間を非難すると決めた人たちも、気を紛らすと決めた人たちも、みな等しく非難する。私には、呻きつつ求める人たちしか是認できない(『パンセ』前田陽一・由木康訳、中公文庫、258頁)。

 今回、もう何回目だろう、読み直してみて、この短い断章の中に使われている動詞のことが気になった。順に、« blâmer » « louer » « se divertir » « approuver » « chercher » « gémir »、それに動詞句の« prendre parti de (+ infinitif) »。いずれも今日でも普通に使われる動詞(句)ばかりだ(ただし、最後に挙げた動詞句は、「決心をする、立場をとる」という意味のときは、今日の用法では定冠詞を取り « prendre le parti de » とするのが普通。Le Grand Robert を見ても、無冠詞でこの意味に使われている例として引用されているのは、このパスカルの断章とモンテーニュの『エセー(随想録)』(I, XVIII)から採られた一例のみ)。
 パスカルが非難すると言っているのは、どんな人たちか。答えは自明のように見える。それは、人間を「ほめる」人たち、人間を「非難する」人たち、「気を紛らす」人たちではないか。いや、そうではない。「ほめる」「非難する」「気を紛らす」のうちのいずれかの態度を取ると「決心した(立場を決めた)」人たちを「みな等しく」非難すると言っている。この表現が3回繰り返されていることからも、この点が強調されていることがわかる。単に人間を非難する人たちを非難するのならば、彼らを非難すると言っているパスカル自身もその非難する人たちの仲間になってしまい、自家撞着を起こしてしまう。ここで非難されているのは、だから、自分の立場を1つに決めてしまい、他の立場に対して無関心、あるいはそれらを排除する人たちのことなのだ。では、パスカルが「是認する」のは、どのような人たちなのか。それは、「ほめる」こと、「非難する」こと、「気を紛らす」ことなど、様々な立場の間で揺れ動きながら、あるいは様々な誘惑に駆られながら、それらと闘い、まさに「呻きつつ」真理を「求める」人たちだけだ、そのような人たちだけを是認する、そうパスカルは言っているように私には思われる。もちろん、ここには « les uns qui servent Dieu l’ayant trouvé »(「神を見いだしたので、これに使えている人々」、B. 257, L. 160, JG. 149, S. 192)、つまり « raisonnables et heureux »(「理にかなっており幸福である」, ibid.)人たちは含まれていないが。
 この « ceux qui cherchent en gémissant » という表現は、西田幾多郎のエッセイ「フランス哲学についての感想」の中に仏語原文のまま引かれ、メーヌ・ド・ビランがそのような哲学者の例として挙げられている。9月1日の記事で言及したジャンケレヴィッチのジンメル論(1925年)の中にも同じ表現が引用されており、ジンメルもそれらの人たちを是認する1人だとされている。そこで気づく。私が強く惹かれる哲学者たちは、どうやら皆このような人たちなのではないか、と。いや、もっと端的な言い方を許してもらえるならば、哲学者とは、まさにこの「呻きつつ求める」者 、「不幸であり理にかなっている」者にほかならないのではないだろうか。