内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「将来への思想的営為のために」

2013-09-09 01:40:00 | 哲学

 6月2日に立ち上げたこのブログは今日付でめでたく(は別にないか)100日目を迎え、なんとか100日連続記事投稿することができた。
 一昨日から独りで騒いでいる発表原稿だが、あと2,3時間頑張れば、なんとか全体としての体裁を一応整えることができそうだ。明日からは、フランス人の校閲を経た「虚と空」についての仏語原稿の決定稿の仕上げ、小林敏明氏のベルクソン国際シンポジウムのための論文の仏訳、同シンポジウムの自分の発表要旨の作成、仏語論文3つの校閲、共同論文集の後書きの執筆などなど、待ったなしの仕事が山積しているから、いずれにせよアルザスの原稿は今晩中(8日)に送ってしまわないといけない。
 8月17日の記事で引用した家永三郎『田辺元の思想史的研究 戦争と哲学者』の「結論」には、彼が思想史家として自らに課す思想史学の大切な任務のひとつが以下のように明確にかつ決然と示されている。

「結論として完成された理論のすべてを積極的に評価できなくても、その内に貴重な問題提起が、あるいはそれから有効な思想展開の可能性が含まれている場合に、それを掘り出し、精神的遺産のカタログに加え、将来への思想的営為のために活用する途を開くのが思想史学の大切な任務のひとつである」(『家永三郎集』第7巻469頁)。

 私が近代日本の哲学者たちを研究対象とするのも、自分の非力を充分に自覚した上で言わせていただけるならば、まさにこの任務を及ばずながら精一杯果したいと考えるからにほかならない。それがまた私がこの記事のはじめに言及した記事とその翌日8月18日の記事で話題にした「歴史の中に自分を〈書き込む〉」という方法論についての問題意識と分かちがたく結びついている。このような思想史学の任務とそのための方法論的な意識なしに過去の哲学者たちの思想を研究することにいったいどんな意味があるのだろうか。