内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「種の論理」の批判的考察(2)

2013-09-25 00:37:00 | 哲学

 今日(24日火曜日)は、朝7時にプールに行って1時間泳いだ後は、朝9時から今午後5時まで、ずっと明日の「同時代思想」の講義の準備にかかりきりだった(普段から昼食は取らず1日2食が原則だから、このように仕事を続けることは例外的なことではないが)。もう2回分の講義に十分なだけの準備ができたので、今日はこの辺で切り上げ、これから夕餉のための買い物に出かけ、プール以上に習慣化していると言わざるをえないワイン(アル中ではないし、依存症でもないですよ。単に好きなだけですから、念のため。それに今丁度秋のワイン・フェアをあちこちの店でやっていて、この期間は特に色々なワインを飲み比べなくてはならないのである)を飲みながら夕食を取ることにする。

 さて、「種の論理」の批判的考察の第2回目。今日のテーマは、まさに現代社会のひとつの大きな問題に直に繋がることは、世界各地の現在の紛争を見ただけでもわかるだろう。この〈民族〉が解体の可能性を常に内包した可塑的で相対的な概念にすぎず、決して不変の〈基体〉ではなく、それ自体の存在を主張できる〈実体〉でもなく、ましてやそれ自体が決断を行いうる〈主体〉などではありえないことが論理的に導き出せるかどうかが、「種の論理」の根本問題である。田辺自身は、下の引用を読めばわかるように、ここで決定的な誤謬に陥ってしまった。だが、その誤謬はまさに当時の歴史的現実の圧倒的な重圧によって田辺において引き起こされた誤謬と言うべきであり、「種の論理」そのものが完全に破綻しているからではない。高橋里美や家永三郎が指摘しているように、「種の論理」の基本的なテーゼから演繹されるのは、まったく別の帰結なのである。

 3/ 〈民族〉の基体化・実体化・主体化
〈種〉を基体化し、それを〈民族〉あるいは〈民族国家〉に配当することは、民族間の現実的対立を論理的に不可避なものとして合理化するだけでなく、その対立を〈種〉の不変の本質に基づけることによって論理的に正当化してしまう。そこには歴史的現実(慣習)の合理化・自然化の危険が歴然としている。〈主体〉が〈民族〉として集団的次元で実体化されるとき、そこから〈国体〉の実体化を妨げる論理的障壁は消滅する。基体化された〈民族〉の有限的相対的要素にすぎないかぎり、〈個人〉はもはやそこで自律的主体ではありえない。
 「民族は、たとい階級の廃棄が行われても、より原始的なる生命の種化の発見として、廃棄せられるものではない。種は種と対すること不変の本質である。しかも個と個との対立を統制する共通者としての種に対して、さらに種と種との対立を媒介すべき類は、それ自身種の如くに直接存在するものではないのであるから、種を類に由って統制すること、種に由って個を統制する如くすることは不可能なのである」(「社会存在の論理」『種の論理 田辺哲学選Ⅰ』176-177頁)。さらにこの引用箇所のすぐ後ろには、「民族の種別が消滅しない限り(しかしてそれは生命存在の本質上不可能なること今述べた如くである)、国家は否定せられるべき筈のものでなく、かえって国家のみ階級の止揚をなすことができるものと考えねばならならぬ」とあり、民族と国家が何の論理的手続きも経ずに同一化され、しかも民族の存在根拠が生物学的類推によって自然化されている。ここから社会ダーウィニズムへの逸脱を妨げる論理的機制が「種の論理」に備わっているかどうかも問題にされなくてはならない。
 しかし、高橋里美は「種の論理」の中に「過去的種を破つて未来の企劃をなす実践的自由を主として個に帰せんとする人格主義的動機」(家永前掲書72頁)を読み取り、家永三郎も「種の論理、国家的存在の論理が、一面において個の実践の自由を単なる主観的要請に終わらせないためにこれに基体的存在論的基礎づけを与えると同時に、存在の必然、全体の統制に対しその独立を確保するための論理として構想され」、「個の独立性が種の論理の体系の確立以後にもひき続き維持されていた」と認めており(同書69、72頁)、この実践的自由の主体として独立した個を類と種に対して自立した媒介項として確保する理論として「種の論理」を読む余地は十分に残されている。