内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「種の論理」の批判的考察(4)

2013-09-27 01:40:00 | 哲学

 昨晩(25日)はとても今日の授業の準備の仕上げをするだけの元気は残っていなかったので、今朝6時半から2時間ほどかけてパワーポイントの手直しをした。ところが、いつもの階段教室の電動スクリーンが故障していて、スイッチを入れても降りてこない。仕方なしに黒板の上の壁に投射する。学生たちはちゃんと見えると言っていたからいいようなもの、とにかくいつも何かうまくいかないことがあるのがフランスという国の日常風景である。
 明日(27日)は朝一番のTGVでアルザスに向かう。終点のコルマール駅にアルザス・欧州日本学研究所の職員が車で迎えに来てくれることになっている。研究集会の開始予定時刻にはぎりぎりか少し遅れてしまうことになるが、発表は最初から聴くことができるだろう。私の発表は翌日の28日の最後つまり集会の「トリ」ということになるが、それまでに参加者もいい加減聴き疲れているだろうから、あまり集中しては聴いてもらえないだろう。それに哲学にはまったく関係がない参加者の方が多いから、そもそも関心を持ってもらえるかどうかさえ怪しいものだ。まあそれはどうでもいい。これは私自身にとっては田辺哲学研究を始める大切なきっかけになってくれたのだから。私自身はこの研究の重要性について確信がある。
 さて、出発を明日に控えて、今日が「種の論理」の批判的考察の最終回である。

 5/ 〈実践〉の抽象性という脆弱性
 二元的対立の矛盾の克服を行為実践に求めておきながら、社会内組織・グループ間対立、個人-組織間対立、個人間対立などの現実的社会現象の分析がまったく欠如しているために、「実践」を語りながら、それが具体性を欠いた抽象的なレベルにとどまっている。これではいくら思索を重ねても社会的には有効性を欠いた個人の「観念的な」努力に終始することになってしまう。
 家永三郎は、「田辺の「個」は種に直接対立する孤立単独の「個」に終始し、種のごとき共同社会的統制者でない、個の自発的連帯組織を、単独の個と種ないし類としての国家の中間に不可欠の媒介者として挿入しようとするアイデアは、完全に欠落していた」(『田辺元の思想史的研究』406頁)と厳しく指摘しているが、例え田辺自身にはこのようなアイデアがまったく思い浮かばなかったことは事実だったとしても、それは「種の論理」からそのようなアイデアが論理的に導出できないということを直ちに意味しない。おそらく家永のいう「個の自発的連帯組織」を、個と社会との間の、あるいは社会と国家との間の、可塑的で遊動的な媒介的〈中間項〉として形成するための基礎理論として「種の論理」を機能させることができるかどうかが、今日の新しい社会存在の哲学の最も重要な課題の一つであることは間違いないと私には思われる。