内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

パソコンダウン、それにもかかわらず一歩前へ

2013-09-19 01:50:00 | 雑感

 昨晩(18日)このブログに記事を投稿してから、夕食前にあと一仕事と思い、明日木曜日の講義の準備をしているときだった。学生たちに読ませる日本語のテキストの語彙表を作成していると、突然キーボードでの入力が一切できなくなった。原因もわからず、一旦ワードを閉じたり、開いていたソフトを全部閉じてみても解決しないので、再起動しようとしたら、まったく立ち上がらなくなってしまった。画面には仏語で「あなたのPCは起動の際に問題が生じたので、データを集めた上で自動的に再起動します」と出て、続いて「自動修復準備中」と表示されるのだが、それが消えるとまったく画面は真っ暗のまま。何十分かおきに同じ表示が繰り返されるだけで、もう丸一日経ってしまった。今はとても忙しくて修理に出しに行く時間もないし、このPCは今年の一月に買ったばかりでまだ保障期間中なのだが、アマゾンで購入したので、保障期間中の対応がどうなるのかも調べないとわからない。今はその時間もない。やれやれ困ったことになった。
 今日は午前中講義だったが、その準備は月曜日にしておいたので事なきをえた。講義も演習も大変うまくいった。明日の講義の準備もほぼ終わっているので、今週については何とかなる。重要なデータはすべてUSBキーその他何箇所かに複数のバックアップが取ってあるのでその点でも被害はないが、面倒なことになったのには変わりない。この記事は大学に普段は置きっぱなしにしてあるノート型パソコンを自宅に持ち帰って書いているのだが、このPCは大学で管理されているので、個人ではいっさいソフトをインストールすることができず、WEBからダウンロードできるソフトにも著しい制約があって何かと不便なのである。とにかくPCがないと仕事にならないので、最悪の場合、新しいのを急遽購入しなくてはならないかもしれない。何かとままならないことが起こるものだと溜息が出てしまう。
 しかし、それはそれとして、さしあたりこの問題は括弧に入れ、持ち合わせの機材で目の前の仕事を処理していかなくてはならない。特にアルザスの集会での発表まであと10日しかない。今日は他の発表者たちの原稿も送られてきた。私のはすでに送ったものが参加者の手にすでにわたっているし、それは完成原稿ではないとしても、議論のためには十分な内容だと思うので、あらためて改定増補版を送ることはしないが、当日の準備のために書き足しておく必要はある。それに来週水曜日からはパリの大学での「現代思想」の講義も始まる。とにかく待ったなしの仕事が一つ終えればまた一つと待ち構えている。そこで今日からはアルザスの発表準備ノートのような形で書いていくことにする。
 9月12日の記事には、田辺元の「種の論理」という問題の端緒を開くために取り上げた丸山眞男の書評を扱った部分を掲載したが、それに引き続いて簡略に列挙した10項目の問題群は省略した。それらを何回かにわけて取り上げ、再検討しつつ、書き加えていこう。項目の順番は丸山書評で取り上げられている問題の順に従っているところもあるが、必ずしもそうではなく、また問題の重要度順というわけでもない。
 第1項目は方法論上の問題。ここでは哲学的探究の対象と社会科学研究の対象との区別と関係の問題が取り上げられる。社会およびその構成諸要素について、哲学はそれ固有の定義をそれらに与えることができるのか。できるとすれば、それらの定義によって規定された対象と社会科学(社会学、経済学、法学、民俗学、文化人類学等)における対象との区別と関係が当然問題にされなくてはならない。前者は後者と独立に考察されうるのか。あるいは、前者は後者を前提とするのか。あるいはその逆なのか。
 いずれにせよ、社会存在を問題にするかぎり、これらの問いは不可避である。実際田辺は論文「社会存在の論理」の中で、オーギュスト・コント、フレイザー、レヴィ・ヴリュール、デュルケム、テンニース等の社会学、人類学的知見を検討、援用しながら、自らの議論を構築しようとしている。田辺が同論文で、ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』における二種社会論を立ち入って検討している第3章、トーテミズムを種的社会の原初的形態として分析している第4章、ヘーゲルを援用しかつ批判しながら国家と共同社会と個人との関係を規定しようとしている第7章が特に発表では取り上げられることになるだろう。宗教と国家の関係もまさに今日的な問題として検討されるに値する。