昨日は例月の如く、「らくご道」へ。
6時前(開場30分以上前)に着いたのだが、何故か既に5,6人並んでいる。
開場時間には20人程度。
結局40人くらいの入り。
「前説」(南天)
ネクタイ姿で出てきて「お中元」の話、
一門が集まって「陰口を叩く」といった話。
非常に楽しそうに喋っている。
順に人が減っていくので、
最後は「自分がいないところで喋っている」といった
オチを付けるものでは、と思った。
「馬の田楽」(生喬):△+
元「露の楓」の芝居の話、
師匠について北海道を回った話。
北海道で「甘納豆で赤飯」の話から生喬の地元である松坂の名物の話、
名古屋などの名物である味噌の話から田楽の説明をしてネタへ。
このあたりのつなげ方はよく考えられている。
少し田楽の説明はクドいかも、とは感じた。
ネタは、子どもがイマイチ。
根本的に、この人のニンではないのだろう。
何となくは出ているし、人物を分けようとはしているのだが、
それぞれの子どもの実在感、それぞれ異なるベースが現出している、という
レベルには到っていない。
このあたり、一人を描けば良い丁稚物とは違う難しさがあるなあ。
ネタは笑福亭の「ドデン」もの。
米朝系によくある芋の話はなく、
子どものワチャワチャ遊んでいる雰囲気はあまり出ていなかった。
馬方が間違えてしまうあたりは「判の型」ではなく正式な店の名前の間違い。
名前が書かれていたら間違えないのでは、と思ってしまった。
「山権」か「山型に権の字」か、の方が良いと思う。
店から出て、馬がいなくて唖然とするところ、
子どもに口汚く訊ねるところ、
その後の訊ねていく場面は、それぞれの登場人物が明確に描かれていて悪くない。
個人的には、自分の商売道具ではあるが相棒である馬を心配する様子が
もう少し出ていた方が良いのでは、と思った。
「はてなの茶碗」(南天):○-
「物の値段がどうやって決まるのかよく分からない」話からネタへ。
この部分、膨らませばもう少し大きなウケを取れる話にできそう。
ネタは油屋さんメイン。
博打で大坂をしくじり、京でも茶碗を博打で買おうとする人、という造型。
全体にこの油屋さんが活き活きしているのが良い。
ただ若干、科白が多くなっている印象。
また、茶金さんの一貫性や「宮中にも出入りする人」の大きさ、といった
部分は弱かったように思う。
後の対談を聞くと、そこはあまり拘っていない部分らしいのだが。
最初の茶店の部分はごく普通。
「ひび割れていても、欠けていても構わない」と油屋さんが言っていたのだが、
そこまで言わない方が良いかなあ。
あと、途中で茶店の親父が向こうを向いて洗い物に入ってしまうのだが、
茶店の親父としては茶碗がどうなるかが気になるから、
向こうを向くことはないのでは、と思う。
茶金さんの店。
まず番頭さんが開けるが、蓋を取る時銘を見るかも、とふと思った。
それ以外の動きはごくきっちりと。
最初から少し番頭さんが朗らかな様子を見せるが、
ずっと固い表情を見せておいた方が哂った時の落差が出るかな、と思う。
茶碗をじっと見る、持ってきた油屋さんの様子を見る、といったあたりを
きっちり描き、ウケを取っていた。
茶金さんの出はまあまあ。
茶金さんに見てもらう油屋さんの描写がかなり濃い。
手に取ってもらう、引っ繰り返してもらう、それを受けての茶金さんの言葉を復唱する。
結果「安物」と分かった時にまず「哀」が出て、その上に「怒」が乗っかる、
という感情の動き。
ここは非常に明瞭に描かれていた。
少し長い感じもしたが、分かりやすく作られている。
茶金さんの「漏る」説明を受ける。
ここは「2,3文」でさえない、ただの疵物、と分かる場面だが、
「さらに価値が下がる」感じはあまり出ていなかった。
まあ、あまり見せなくてもよい部分かも知れない。
お金を受け取る/受け取らないの場面は、
番頭と実際に押し合ったり、
最終的には「茶金さんが困るから」と受け取る感じ。
ここで「京の人は酷い→良い人」と変わる、といった転換がある。
このあたりは当然、後の500両のやり取りでも同様。
表情付けなど、「本当は欲しい」がずっとベースにある方が良いと思うのだが、
そこはあまり出ていなかった。
買い取ってもらってから「茶碗をどうするか」といった話はなく置いて帰る。
これはこれでいいかな。
関白、ミカドの話。
公家の喋り方は少し遊んでいた。
1000両で売れ、油屋さんを呼んで経緯を説明する。
油屋さんが話をしてもらった理由を「それぞれの位置で努力せよ」という意味と
自分で解釈して身に沁みた、というのは初めて聞いた。
確かに「何故呼ばれた」と油屋さんが思うのか、
設定しておく必要はあるのかも知れないが、
この理由付けの設定は、ネタのバランスとして少し重い印象。
あとはサゲまで、明るく、陽気に進めていた。
対談「夕焼け日記」(生喬・南天)
「馬の田楽」と言えば、ということで亡き松葉の話、
京の人の特徴、言葉の話、
「はてなの茶碗」についての米朝とこのネタの本来のあり方の話。
松葉についての客席の反応を見ると、
松葉を見ている人は割と少ないのかも。
個人的には地味だった松葉と何となくの明るさが出た松葉、
吉朝と松葉を推すために始まった平成紅梅亭、
といったあたりは丁度学生時代で、
「化けた」という同じ印象を持っていたので興味深かった。
明るくなり出したのは、仁鶴から7代目襲名の話が出て大モメになるより、
もう少し前からかも知れない、と思っていたのだが。
「はてなの茶碗」については、私の感覚は生喬に近いのだが、
南天の指摘も面白かった。
「茶碗が様々な人に触れていく」ところがメインでは、ということ。
個人的にはそこから、茶碗にカメラを仕込んで
そこから音羽の滝での茶金さん、茶店の主、油屋さん、
店での番頭、茶金さん、
さらに関白、ミカド、鴻池さんを見ている視点を持って描写していくとどうなるのだろう、
なんてことを思ってしまった。
6時前(開場30分以上前)に着いたのだが、何故か既に5,6人並んでいる。
開場時間には20人程度。
結局40人くらいの入り。
「前説」(南天)
ネクタイ姿で出てきて「お中元」の話、
一門が集まって「陰口を叩く」といった話。
非常に楽しそうに喋っている。
順に人が減っていくので、
最後は「自分がいないところで喋っている」といった
オチを付けるものでは、と思った。
「馬の田楽」(生喬):△+
元「露の楓」の芝居の話、
師匠について北海道を回った話。
北海道で「甘納豆で赤飯」の話から生喬の地元である松坂の名物の話、
名古屋などの名物である味噌の話から田楽の説明をしてネタへ。
このあたりのつなげ方はよく考えられている。
少し田楽の説明はクドいかも、とは感じた。
ネタは、子どもがイマイチ。
根本的に、この人のニンではないのだろう。
何となくは出ているし、人物を分けようとはしているのだが、
それぞれの子どもの実在感、それぞれ異なるベースが現出している、という
レベルには到っていない。
このあたり、一人を描けば良い丁稚物とは違う難しさがあるなあ。
ネタは笑福亭の「ドデン」もの。
米朝系によくある芋の話はなく、
子どものワチャワチャ遊んでいる雰囲気はあまり出ていなかった。
馬方が間違えてしまうあたりは「判の型」ではなく正式な店の名前の間違い。
名前が書かれていたら間違えないのでは、と思ってしまった。
「山権」か「山型に権の字」か、の方が良いと思う。
店から出て、馬がいなくて唖然とするところ、
子どもに口汚く訊ねるところ、
その後の訊ねていく場面は、それぞれの登場人物が明確に描かれていて悪くない。
個人的には、自分の商売道具ではあるが相棒である馬を心配する様子が
もう少し出ていた方が良いのでは、と思った。
「はてなの茶碗」(南天):○-
「物の値段がどうやって決まるのかよく分からない」話からネタへ。
この部分、膨らませばもう少し大きなウケを取れる話にできそう。
ネタは油屋さんメイン。
博打で大坂をしくじり、京でも茶碗を博打で買おうとする人、という造型。
全体にこの油屋さんが活き活きしているのが良い。
ただ若干、科白が多くなっている印象。
また、茶金さんの一貫性や「宮中にも出入りする人」の大きさ、といった
部分は弱かったように思う。
後の対談を聞くと、そこはあまり拘っていない部分らしいのだが。
最初の茶店の部分はごく普通。
「ひび割れていても、欠けていても構わない」と油屋さんが言っていたのだが、
そこまで言わない方が良いかなあ。
あと、途中で茶店の親父が向こうを向いて洗い物に入ってしまうのだが、
茶店の親父としては茶碗がどうなるかが気になるから、
向こうを向くことはないのでは、と思う。
茶金さんの店。
まず番頭さんが開けるが、蓋を取る時銘を見るかも、とふと思った。
それ以外の動きはごくきっちりと。
最初から少し番頭さんが朗らかな様子を見せるが、
ずっと固い表情を見せておいた方が哂った時の落差が出るかな、と思う。
茶碗をじっと見る、持ってきた油屋さんの様子を見る、といったあたりを
きっちり描き、ウケを取っていた。
茶金さんの出はまあまあ。
茶金さんに見てもらう油屋さんの描写がかなり濃い。
手に取ってもらう、引っ繰り返してもらう、それを受けての茶金さんの言葉を復唱する。
結果「安物」と分かった時にまず「哀」が出て、その上に「怒」が乗っかる、
という感情の動き。
ここは非常に明瞭に描かれていた。
少し長い感じもしたが、分かりやすく作られている。
茶金さんの「漏る」説明を受ける。
ここは「2,3文」でさえない、ただの疵物、と分かる場面だが、
「さらに価値が下がる」感じはあまり出ていなかった。
まあ、あまり見せなくてもよい部分かも知れない。
お金を受け取る/受け取らないの場面は、
番頭と実際に押し合ったり、
最終的には「茶金さんが困るから」と受け取る感じ。
ここで「京の人は酷い→良い人」と変わる、といった転換がある。
このあたりは当然、後の500両のやり取りでも同様。
表情付けなど、「本当は欲しい」がずっとベースにある方が良いと思うのだが、
そこはあまり出ていなかった。
買い取ってもらってから「茶碗をどうするか」といった話はなく置いて帰る。
これはこれでいいかな。
関白、ミカドの話。
公家の喋り方は少し遊んでいた。
1000両で売れ、油屋さんを呼んで経緯を説明する。
油屋さんが話をしてもらった理由を「それぞれの位置で努力せよ」という意味と
自分で解釈して身に沁みた、というのは初めて聞いた。
確かに「何故呼ばれた」と油屋さんが思うのか、
設定しておく必要はあるのかも知れないが、
この理由付けの設定は、ネタのバランスとして少し重い印象。
あとはサゲまで、明るく、陽気に進めていた。
対談「夕焼け日記」(生喬・南天)
「馬の田楽」と言えば、ということで亡き松葉の話、
京の人の特徴、言葉の話、
「はてなの茶碗」についての米朝とこのネタの本来のあり方の話。
松葉についての客席の反応を見ると、
松葉を見ている人は割と少ないのかも。
個人的には地味だった松葉と何となくの明るさが出た松葉、
吉朝と松葉を推すために始まった平成紅梅亭、
といったあたりは丁度学生時代で、
「化けた」という同じ印象を持っていたので興味深かった。
明るくなり出したのは、仁鶴から7代目襲名の話が出て大モメになるより、
もう少し前からかも知れない、と思っていたのだが。
「はてなの茶碗」については、私の感覚は生喬に近いのだが、
南天の指摘も面白かった。
「茶碗が様々な人に触れていく」ところがメインでは、ということ。
個人的にはそこから、茶碗にカメラを仕込んで
そこから音羽の滝での茶金さん、茶店の主、油屋さん、
店での番頭、茶金さん、
さらに関白、ミカド、鴻池さんを見ている視点を持って描写していくとどうなるのだろう、
なんてことを思ってしまった。