城郭探訪

yamaziro

千草街道15kmを踏破)

2016年05月07日 | 文化財

先人の軌跡をたどりながら千草街道15kmを踏破

=東近江市から三重県菰野町へ=

杉木立の道を歩く参加者

◇東近江
 東近江市甲津畑町から鈴鹿山脈を越えて、三重県菰野町へ抜けるフィールドワーク「千草街道を往く」(永源寺地区まちづくり協議会主催)が、このほどに開かれた。毎年人気の企画で、今年も市内外からスタッフを含めた百十五人が参加。歴史ある街道を辿り、豊かな自然に触れた。
 かつて、織田信長や多くの商人が行き通いした千草街道には、様々な歴史と伝承、文化が残る。近代には甲津畑鉱山として栄えたほか、炭焼きも盛んで、登山道脇のあちこちに、石を積んだ炭焼きの竈跡と集落跡が点在している。
 杉峠(標高千四十二メートル)を目指し、地元スタッフの案内のもと、杉の木が綺麗に立ち並ぶ林道を抜けると、信長が杉谷善住坊に狙撃された「善住坊の隠れ岩」や、蓮如が比叡山衆徒に追われ、難を逃れたとの伝承が残る石碑「蓮如上人遺跡」などが、街道の初めに存在する。

 

炭窯・・・生業の証と人々の往来を感じさせる街道

 遺跡のほか、歴史を感じさせるブナ並木、巨樹の「一反ぼうそう」、武田信玄が植えたと伝えられる「かいしんの杉」など、自然が織りなす雄大な風景も魅力の一つで、咲き頃を迎えたイワウチワやヤマツツジなどの花といっしょに、参加者はカメラに収めていた。
 杉峠を越え、真っ白な石灰岩が広がり、澄んだ水が流れる川沿いを下りながら、滋賀と三重の県境になる根ノ平峠(標高八百三メートル)を通過。全長約十五キロメートルにもなる街道を約八時間かけて、ゴール地点の朝明キャンプ場に到着した。
 キャンプ場では、達成感を分かち合う参加者らに、菰野町観光協会による同町の名産「まこも汁」が振る舞われ、疲れを癒した。(古澤和也)


芹川が付替えられた歴史

2016年05月07日 | 文化財

芹川が付替えられた歴史

芹川の付替えと後三条村

《後三條今昔ものがたり》薗田昭三氏平成5年11月発行より引用

 築城や城郭の工事とともに芹川を付替え、家臣の居住区割りや町民居住区の町割が行われました。石田三成以前の芹川の本流は、猿尾付近から上川原町・久佐の辻を通り、川原町裏で中央公園の方へ曲がり護国神社前の堀に流れ込んでいました。久佐の辻には芹川大橋が架かっていたと言われています。此の流れを猿尾から西の方へ直流させて琵琶湖に注ぐようにしました。また、長久寺山の北側は大部分切りか欠かれてその土で堤を作りました。最初の計画ではもう少し南の方へ寄るはずでしたが長久寺山の岩盤が堅いため恵比寿橋の東で少し曲がった現在の川筋になりました。計画からはずれた土地は余所と呼ばれ、現在の後三条の小字名として残っています。
‐中略‐

 この芹川堤は水害を町方に及ぼさないように北側を高く堅固に築き、南側の後三条村の方は低く築きました。このために大水の時は南側の堤から溢れ、家屋や農作物に大きな被害を受けることが幾度もありました。
‐中略‐

三島由紀夫は小説”絹と明察”の一節に芹川の情景を次のように書いています。

「彦根の町の南を流れる芹川は、築城のため川筋をまっすぐに、あたかも運河のように規矩正しく直され、多数の百姓・町人に赤土を運ばせ踏み固めさせてできた美しい堤には欅並木がつづいている。殊に青葉時の西日に欅の枝々がこまかく透かす夕影の美しさは比べるものがない。」

このように書かれている美しい芹川堤も築城当時に後三条村が被った大きな犠牲によって完成したことや、先住者の苦哀を私達住民は今一度思い出してみようではありませんか。

芹川の付替えによって後三条村の旧領域は芹川の北側が町方となり、河原町・橋本町・袋町などに町割をされ、芹橋一丁目から八丁目迄を足軽組屋敷として元和3年(1617年)善利組八組が設置されました。その後、この組屋敷は池州町通りまで拡大しました。
 また、芹川の南側の一部も町方として橋向町や後三条町(新町)に町割りされました。新町は明暦3年(1657年)に町並みが出来たそうです。これらの新しく出来た町並みは、川原町手組として町奉行の支配するところとなり、後三条村は村方として筋奉行の支配下に属することとなりました。

問い合わせ先

〒522-8501 彦根市元町4番2号
彦根市道路河川課河川係
電話 0749-22-1411(代表)内線231,239
電話 0749-30-6122(直通)
ファックス 0749-24-5211


来栖城 近江国(多賀)

2016年05月07日 | 

来栖城山麓館

 
お城のデータ
所在地:犬上郡多賀町栗栖  map:http://yahoo.jp/jjNaxw
現 状:山林
区 分:丘陵城
築城期:室町期
築城者:久徳左近兵衛・栗沢治右衛門・堀平左衛門の誰か?
遺 構:郭、基壇・石垣
標 高:170m   比高差:20m
目標地:調宮神社
駐車場:調宮神社の鳥居前に駐車
訪城日:2016.5.5
 
お城の概要
栗栖城(砦)は県道17号線沿いの栗栖集落内をながれる芹川を調宮神社へ渡り、桃原方面への五僧超えの山道へのに入る、集落の南側丘陵に位置する。
城域は東西100m×南北50m 高低差20mの雛壇状の平削地が5~6段あり、低土塁はあるが防御制は無い。五僧超えの関所的な役割を担っていたか?
西側の調宮神社の背後の山頂部に「栗栖城」が存在する。
 
お城の歴史
『淡海国木間攫』には、「犬上郡 来栖村 往古此所ニ久徳兵庫ト士居住スト云記ニ出ル、久徳左近兵衛ガ一族ナルベシ、古城跡今ニアリ」、又栗沢治右衛門、堀平左衛門等居住セリ云、是又古城跡今ニ有シト云、」と記す。
 
 
栗栖城(山上の見張り台
見張り台か?
・・登り口が分からず未訪だが。
 
久徳城跡の前を通り来栖へ
来栖集落の芹川を渡る
 
調宮神社
調宮神社の背後の山頂に来栖城が残存する。
調宮神社の境内の
獣害ヘンスから、来栖城(頂上)へ・・・登り道が分からない?
 
 
 
 
踏み跡を進むと【栗栖城山麓館へ】
山麓舘       石垣                

 調宮神社から【栗栖城山麓館】

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、『日本城郭大系』11。淡海国木間攫 
  本日の訪問ありがとうございす!!