城郭探訪

yamaziro

桃原(もばら)城      近江国(多賀)

2016年05月06日 | 山城

 

http://yahoo.jp/soakHm 

お城のデータ

所在地:犬上郡多賀町桃原/阿弥陀峰         map:http://yahoo.jp/GmAGtx

現 状:山林(山頂部)

区 分:山城

築 城 :明応4年(1495)

築城者:京極政高

城 主:京極政高

遺 構:廓・土塁・堀切・堀

標 高:635m   比高差:85m(杉峠)

目標地:杉峠

駐車場:杉峠の空き地(帰りは、ここでUターン)

訪城日:2016.5.5

林道の杉峠から、最初の堀切のガラ場を登り(最初の堀切まで)踏み跡と関電鉄塔管理道を進む

お城の概要

来栖地区から、多賀神木方面へ林道を約4km登るが、林道は狭く3mほどの道幅で、急斜で急カーブが続き、対向できる箇所がほとんどない(幸いバイクに一台遭遇、帰りは後続車一台)少ない。

忘れられた山城桃原城

滋賀県教育委員会の調査によると滋賀県下には1,300ヶ所の城跡の存在が確認されるが、桃原城は不便な場所にあり、注目されることもなかったが、脇街道を抑える位置にあり、規模の大きな城。桃原城は多賀と上石津を繋ぐ五僧越えの杉坂峠を押さえる阿弥陀峰の山頂付近に築かれている。

 多賀神木のある杉峠からは10分足らずで南方の曲輪切岸に着く、中核部は北方に約200m。

中核部は三方をなだらかなピークに囲まれたすり鉢状の谷(東西200m×南北100m)の周囲を高さ1~2mの土塁で囲まれた一帯である。

 東方(岐阜県上石津側)のみは土塁が無く、こちらに大手を開いているとみてよい。北側のピークの東斜面から北斜面にかけて土塁廻らせ、東斜面には2段の袖曲輪を配しており、城郭遺構であるが、主郭部は広い谷部を囲むように土塁を廻らせる城郭。谷を攻め上ってくる敵を迎撃するためだけの施設か。迎撃するには良いが、守備面では不利。
桃原城

桃原城は集落の南方「阿弥陀ヶ峰」にあるが、多賀方面から見ると杉坂山の頂上辺り(峠)、極めて見晴らしのよい場所にある。
 古来、脇街道として利用されてきた「五僧越え」を抑える軍事拠点であった。戦国前期、京極氏の城と言われている。しかし戦いはあったのだろうか、城跡には、触れるとたたりのある塚が存在するという。
 佐々木氏は鎌倉時代より近江の国の守護として勢力を揮っていたが、六角氏と京極氏に分裂し兄弟、家臣を巻き込んで勢力争いをしていた。京極氏の内部抗争(京極政高(政経)VS京極高清)も熾烈で美濃をも巻き込んで戦っており、近江、美濃、伊勢と三国の境目の見張りとして桃原城はかなり重要な砦ではないかと思う。           
「五僧越え」とは関が原より南方にある山越えの街道で美濃方面から時山、五僧、保月、杉などの山村を通って近江多賀に至る。
関が原合戦後、島津隊の「島津越え」。『慶長4年9月15日(1599年10月21日) :関ケ原の戦いに敗れた西軍の武将・島津義弘が関ケ原から犬上郡の五僧峠(現・多賀町五僧の五僧峠)を越えて高宮(現・彦根氏高宮町)の犬上川河畔で一泊し、翌日、信楽経由で大阪の境まで敗走する。』
健脚の商人や坊人たちの往来もあったことだろう。
           
今、桃原城は広大な土塁のみを残して杉木立の中にある。多賀方面から見ると杉坂山の頂上、関西電力送電線紅白の鉄塔が桃原城の位置である。

 

お城の歴史

「金剛輪寺下倉米銭下用帳」には明応4年(1495)に京極政高が本拠を置き、多賀新左衛門経忠も入城して兵糧・軍資の調達を行ったことが記されている(近江愛智郡志)京極政高が築き、多賀新左衛門経忠(兵糧・軍資の補給)が入ったという史料がある。

愛智郡誌に「京極政経(政高)此城中に在り、明応4年(1495)秋戦備を為さんとし、愛知犬上の将士を招き10月1日池寺西明寺に陣を移し、池寺と桃原城の間に出入りす。

この間、政経は京極高清の重臣である多賀新左衛門経忠を招き、経忠は招きに応じ桃原城に入り、兵糧軍資の調達に奔走した.。」と記してある。

、城の南下方に通る五僧越えは、慶長5年(1600)関ヶ原の戦に敗れた島津義弘軍が退路を求めた道(「島津越え」とも呼ばれる。)とも伝えられている。

京極 政経(政高)は、

室町時代後期から戦国時代前期の守護大名。室町幕府相伴衆、近江・出雲・隠岐・飛騨4ヶ国の守護。京極持清の3男。勝秀、政光は兄、高清は甥(弟とも)。姉妹に畠山政長室。子に経秀(材宗)。次兄・政光と同様、室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱の授与を受け、政経と名乗る。また、別名に政高。政高(政経)は、最初に京極高清に敗れた頃の拠点が永源寺の黄和田城、桃原城は二度目に破れて後出雲に行き、尼子氏に庇護されて没したと言われるようです。

作図:長谷川博美『滋賀県中世城郭分布調査』  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『金剛輪寺下倉米銭下用帳(愛知郡志)』、Wikipedia

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