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城郭探訪

yamaziro

寒川辰清邸(『近江與地志略』の編纂者)     近江国(大津)

2016年05月21日 | 居館

 「寒川辰清邸阯」の碑

お城のデータ

所在地:大津市中庄一丁目

築城期:江戸期

築城者:寒川氏

寒川辰清邸阯の碑が、京阪電車石山坂本線・中ノ庄駅の西側に建てられています。

 寒川辰清(1697~1739)は、

 康命〔やすのぶ〕・康敏〔やすかず〕藩主二代の学問師範(侍講〔じこう〕)として、200石の禄〔ろく〕を拝し、『近江與地志略』の編纂をはじめ、『武射必用』〔むしゃひつよう〕など多くの書物を著しました。

 しかし、晩年の元文3年(1738)、当時の弊害をなげき、主君をいさめる文書(諫書=かんしょ)を提出したことで藩主・康敏の怒りにふれて、膳所藩を追放となり、翌年大坂にて病死しました。

江戸時代に記された『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』という地誌。
 この『近江輿地志略』という本は、江戸時代の享保8年(1723)に、膳所藩士であった寒川辰清(さんがわ とききよ)が、ときの藩主本多安敏の命をうけて編纂に取りかかり、享保19年(1734)に完成した近江国の地誌。

101巻100冊から構成されており、その内容は近江国の概観からはじまって、12郡の村ごとに名所・旧跡や寺社等を紹介し、最後に「人物」や「土産」(その土地の名産品)が詳細に記されています。記述には,歴史書や古記録から関係する史料が縦横に引用されるとともに、地元の言い伝えも示されています。この本には、江戸時代(18世紀頃)における近江国の村々の情報がぎっしりと詰めこまれている。

 今となっては記された内容がすべて正確な史実であるとはいいがたい部分もあります。しかし、少なくとも18世紀頃の人々が名所・旧跡や寺社等―今でいう文化財にいだいていた認識を知る手がかりになりますし、遺跡にかんする情報をそこからくみ出すこともできるのです。
 滋賀県には,江戸時代以来このような地誌・地域史が編纂・蓄積されており、それらが現在でもわれわれの遺跡の基礎をつくってくれています。偉大な先達の恩恵に感謝せざるをえません。
 ちなみに,滋賀県立琵琶湖文化館には寒川辰清の自筆本が所蔵されており、滋賀県における基本的地誌の原本資料として本県の文化史・科学史・地理学史上極めて貴重な存在であることから、重要文化財に指定されています。

この自筆本は容易に閲覧できるものではありませんが、

幸いに『近江輿地志略』は大正年間に活字本として刊行され、戦後にも校訂本が再刊されており,滋賀県の図書館等で閲覧することができます。

寒川辰清邸跡石碑

 さらに蛇足ですが,寒川辰清の邸宅は膳所城下町にありました。京阪石坂線中ノ庄駅を下車し,膳所小学校(山側)へむけて徒歩2分程の道路際に邸宅跡の石碑が立てられています。

参考資料:滋賀県公益法人文化財保護協会 (地域の歴史の宝庫―『近江輿地志略』)


宮城氏館   近江国(栗東)

2016年05月21日 | 居館

宮城氏館

 
お城のデータ
所在地:栗東市(旧:栗太郡栗東町)大橋  map:http://yahoo.jp/a0_9fY 
現 状:神社
区 分:居館 
築城期:室町期
築城者:宮城氏 
遺 構:三輪神社境内の土塁・堀痕
目標地:三輪神社
駐車場:三輪神社の駐車場
訪城日:2016.5.19
お城の概要
 大橋集落は、地区内を国道1、8号線が通り、名神高速道路栗東第2インターチェンジが置かれるなど、主要道路の結束地となっています。このことは大橋のみならず、栗東市全域に急激な都市化や、景観の変貌をもたらしてきました。
一方で、地区内には様々な文化財や民俗行事が残されいる。
お城の歴史
宮城氏は、佐々木六角氏を支えた一族で、「宮城豊盛は主家佐々木氏衰退後、豊臣秀吉に仕え、1592年に豊後国の蔵入地代官」となった。が、それまで居館にしていたのが、大橋集落の三輪神社が城域と考えられる。
『滋賀県中世城郭分布調査』には、「宮城氏館 豊臣氏の代官宮城丹波豊盛の居館であることが『近江名跡案内記』にみえる」と記す。

  江戸時代の大橋は、栗太郡の多くの村々がそうであったように、集落を中心として周辺に田畑が広がる農村でした。村人たちは農耕を生業とし、江戸時代を通して3人の領主に年貢を納めていました。
 地区内には、三輪神社と慶崇寺があり、古くから人々の信仰を集めていました。
三輪神社には、鰌や鯰をすしにつける「鰌ずし」が伝わっており、非常に珍しい祭礼行事として知られています。
また、慶崇寺には、栗東で大いに隆盛した真宗文化を伝える様々な文化財が残されています
               
慶崇寺

       

宮城 豊盛

天文23年(1554)~元和6年(1620) は、豊臣氏の家臣。本姓は大江氏。宮木とも。通称、長次郎または長次 下丹波守。使用家紋は蝶紋の「揚羽蝶」が『寛政重修諸家譜』に載る。

生涯

 六角氏の家臣・宮城賢甫(堅甫)の娘婿にあたる。山崎方家の子・頼久を養子とした。妹に鯰江貞勝室。

 豊臣秀吉に仕え、三木合戦で功を挙げ、小田原征伐や文禄・慶長の役に参陣する。京の金戒光明寺再建の奉行を務める。文禄元年(1592)に豊後国日田郡に蔵入地の代官として赴任し、日隈城を築城した。文禄3年(1594)の時点で豊後日田・玖珠2万石(4万石とも)の蔵入地代官を務めた。

 慶長3年(598)、慶長の役の最中に秀吉が死去すると、徳川家康より命を受け、徳永久昌・山本重成とともに渡海し、朝鮮へ戦役中の将兵の撤兵を指導した。その功により翌慶長4年(1599)、従五位下丹波守に任官する。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍として大阪城平野橋を警護したため、戦後所領を没収されるが、頼久とともに徳川氏に仕える。頼久は慶長10年(1605)実兄の山崎家盛より但馬国二方郡6000余石を分知され、芦屋に陣屋を構えたが、慶長14年(1609)豊盛より先立って死去。その子の十二郎(のちの豊嗣)は5歳と幼いため、豊盛が後見として大坂の陣に出陣するなど実質的な当主として活躍した。

 その後、駿府の徳川家康に仕え、家康死後は徳川秀忠の御伽衆となった。元和元年(1614)、慈照寺(銀閣寺)再建の奉行や、元和5年(1619)京都知恩院の普請奉行を務めている。墓所は近江国今勝谷の阿弥陀寺。


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、Wikipedia、日本城郭大系』11
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