城郭探訪

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下戸山城   近江国(栗東)

2016年05月20日 | 平山城

下戸山城

 

お城のデータ
所在地:栗東市(旧:栗太郡栗東町)下戸山  map:http://yahoo.jp/drmJ1S
現 状:山林
区 分:平山城
築城期:正平年間(1346~1370)
築城者:青地氏
城 主:青地駿河守重頼が居城
遺 構:土塁・廓・敷割り・城道
標 高:127m 比高差:7m
目標地:小槻大社・下戸山宮谷バス停
駐車場:路上駐車http://yahoo.jp/B0xZ_V
訪城日:2016.5.19
お城の概要
 下戸山集落の丘陵城で、小槻大社の東に丘陵林が残存する。
周囲に新興住宅の開発が激しく、旧集落と田・畑と新興住宅の混在する。丘陵は削られ宅地開発やニュータン化進むが、幸い城跡は、小槻大社や、旧集落と田畑の内で、しばらくは消滅はなさそうだが、城址の表示板や説明板も無い(消滅の可能性は残る)
お城の歴史
 正平年間(1346~1370)に、青地駿河守重頼が居城したが、詳細不明。
小槻大社の由緒に「康永2年(1343)4月には青地重頼によって四脚門が造営された」と記す。

                         

小槻大社へ                     此処に路上駐車http://yahoo.jp/B0xZ_V
小槻大社(おつきたいしゃ)は、
滋賀県栗東市下戸山にある神社。式内社で、旧社格は郷社。神紋は「下り藤」「真向の兎」。別称として「小杖社(おづえしゃ)」や「小杖宮」、「小杖大明神」とも。

創建 

社伝では、古代に栗太郡(現在の草津市・栗東市一帯)の豪族の小槻山君(小月山公)が、祖神として於智別命を祀ったのが創祀とする。

小槻山君は栗太郡の古代豪族で、朝廷に采女も献上したという。小槻大社内には小槻大社古墳群が残るほか、周辺には下戸山古墳・地山古墳・岡遺跡(栗太郡衙跡)が残り、これらは小槻山君の関係史跡とされる。これらから小槻山君は栗太郡郡司クラスの家柄であったと推測されている。小槻山君は貞観15年(873)に亰に居を移し、のち小槻氏(菅務家)として朝廷に仕えた。

概史

国史では「小杖神」「小丈神」「少杖神」などの神名で、貞観5年(863)]に神階が従五位下、貞観7年(865)に従五位上、延喜11年(911)]に従四位下に昇叙された旨が記されている。延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では近江国栗太郡に「小槻大社」と記載され、関係社の小槻神社(草津市青地町)とともに式内社に列している。また、平安時代の11世紀初頭の作になる木造男神坐像2躯(国の重要文化財)が現在に伝わっている。

小槻氏が中央に移ったのちは、付近に拠点を持つ 青地氏の崇敬を受けて社頭が整備され、弘安4年(1281)10月に青地基氏によって現在の本殿内陣の宮殿が新造されたほか康永2年(1343)4月には青地重頼によって四脚門が造営された(非現存:棟木のみ本殿の力棰に転用)。『園太暦』によれば、康永2年12月には青地重頼(源重頼)の申請によって正一位の極位が授けられている。その後、永正16年(1519)には青地元真により現在の本殿(国の重要文化財)が再建された。しかし青地氏は、戦国時代に主家の佐々木氏(六角氏)の衰退とともに没落する。

江戸初期には、慶長13年(1608)に膳所藩主の戸田左門から田の寄進があり、以後も黒印により安堵された。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、ウィキペディア、『日本城郭大系』11。 

本日の訪問ありがとうございす!!


中村城     近江国(栗東市)

2016年05月20日 | 丘陵城

中村

  

お城のデータ
所在地:滋賀県栗東市御園  map: http://yahoo.jp/9nBHfj
現 状:寺院跡
区 分:丘陵城
築城期:室町期~鎌倉期
築城者:中村次郎八
遺 構:旧善勝寺跡の背後の切岸・石段の横の城道
標高:153m  比高差:13m
目標地:覚圓寺・平和堂フレンドマート御園店
駐車場:覚圓寺・平和堂フレンドマート御園店(駐車場あり)
訪城日:2016.5.19
お城の概要
滋賀県中世城郭分布調査3(旧野洲・栗太郡の城)では、中村城は、「石取りで山ごと消滅と思われる」と記す。
が 旧善勝寺跡(近年(=2007年6月は残存してた)焼失したか=yahoo mapの航空写真には残存する)の裏山は、6m程登ると、平削されグランドに整備されいた。
裏山への斜面(土塁・切岸)には、石仏が配され、歴代住職の墓地も残存する。また、 旧善勝寺跡の庭園・池・石仏群が残存した。
城郭遺構は、裏山斜面の土塁・切岸や南側に小平削地(廓跡か?)残る
お城の歴史
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「栗太郡 中村住 中村次郎八」の名が見える。が詳細不明。
          
善勝寺の千手観音立像   栗東市御園
 浄土宗寺院善勝寺(御園)の本尊千手観音立像は、平安時代11世紀初めごろの作で、中央の顔の左右にさらに顔をあらわすという、日本で数例しか知られない珍しい姿をしています。こういった姿は天台宗にゆかりをもつと考えられます。それにしてもなぜ、浄土宗のお寺に天台宗に関わる本尊がまつられているのでしょうか
 栗東の金勝寺周辺は、奈良時代以来、奈良の仏教界と深いつながりを持ってきました。比叡山を中心とする天台宗が広まり始めるのは平安時代半ばのことです。11世紀半ばに編さんされた『本朝法華験記』には、金勝寺の二人の僧が、天台宗で重視される法華経を信仰して往生を遂げた話が載せられています。また12世紀半ばの1142年に造られた金胎寺(荒張)の本尊阿弥陀如来坐像には、浄土の教主である阿弥陀如来に結縁するため、像の内側に40人ほどが名を記しています。やがて比叡山で学んだ法然が浄宗の開祖となるように、もともと浄土の教えは、天台から派生していったものです。そして平安時代後期には栗東にも確実に天台浄土教が広まっていました。
 金勝地域の浄土宗寺院の中心となる阿弥陀寺(東坂)は、室町時代に隆堯(1369~1449)によって開かれました。隆堯は念仏を広めるため多くの書物をあらわしましたが、その中で自らを「天台沙門(=天台の僧侶)」と記しています。天台と浄土の教えは、かつては今よりずっと連続的なものととらえられていたのです。
 ところが江戸時代になると、寺院は一つの宗派に属すよう定められ、歴史的に天台、浄土にまたがる性格を持つ寺々も、天台宗あるいは浄土宗へと分かれていきました。
 冒頭に紹介した善勝寺の本尊千手観音立像は、かつて善勝寺が天台色の濃い寺院だったころの歴史を今に伝えているのです。
(「りっとう再発見」27 『広報りっとう』821号(2007年6月号)掲載)
背後の裏山5m程へ
 頂部平坦地はグランドに
土塁・切

岸の斜面の石仏群(寺院遺構か?)           歴代住職の墓地?  

崖崩れ防止工事中       
寺院庭園址 瓦・火鉢類 石仏群 
井戸

・池  

 下りの石段
石段横の城道

    覚圓寺   本堂

 
覚圓寺の裏に駐車した。


御園の歴史と文化
金勝中村上山依村合絵図

 栗東市御園(みその)地区は、金勝川と細川の流域に広がる平野部とその周辺の丘陵地に位置します。地区内は明治7年(1874)に成立した旧御園村域に相当する古くからの集落がある地域と、昭和44年(1969)に開場した栗東トレーニングセンターの敷地にあたる地域の二つにわけることができます。
 旧御園村域には、中村、山入、蔵町、辻越、上田、御園の6つの集落があり、江戸時代は金勝中村(こんぜなかむら:中村、山入、蔵町)と上山依村(かざまわりむら:辻越、上田、御園)の二村に分かれていました。御園村はこの二村が明治7年に合併して成立しています。
 御園村が成立した背景には、もともと上山依村に属していた山入が、江戸時代初期に行われた村界決定の際、金勝中村へ入れられたという事情があります。しかし、行政上金勝中村となったといっても、水利や祭りといった日々の暮らしにおいて山入と上山依村との関係は切り離せないものでした。明治に入ると、山入、上山依村は何事も「一村同様」のように付き合ってきたため、山入が金勝中村から分村し、上山依村へ合村したいと訴えました。
 江戸幕府によって区切られた村と、実際に暮らしていた人びとのつながりにずれが生じたことによるこの問題も、金勝中村と上山依村がひとつになり、御園村の誕生によって解決しました。このとき上山依村が主張した「両上山依」という日々の暮らしに直結した集落同士のつながりは、現在でも生きています。御園地区では、このような小集落同士のまとまりがさまざまな場面で機能しており、これが御園地区の特徴となっています。
 また、日本中央競馬会栗東トレーニングセンターの開場は、ここに移住してきた中京競馬場や阪神競馬場関係者によって、御園地区を含む金勝地区に都市的な生活スタイルをもたらしたのです。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・3(旧野洲・栗太郡の城)、江州佐々木南北諸氏帳、御園の歴史と文化(栗東歴史民俗博物館HPより)

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